この地獄を何と名付けよう
令和七年二月二十八日(金)
高校生時代の、父との思い出。
地元で人気の駅前のたこ焼き屋で、百円五個入りのたこ焼きを買い、彼女と出来立ての熱々を爪楊枝でつつきあう。当時僕は外国籍の同級生とお付き合いをしていた。その娘は鼻下のくぼみが生まれつき左にひん曲がっていた。周りの友達の中には彼女を差別的な目で見る連中が多かったが、僕は彼女の国籍も容姿も気にならなかった。舌先を火傷する程のたこ焼きを、僕が二つ、彼女が三つ、それぞれ食べた。それから僕はメロン味の炭酸飲料を飲み、彼女はビニール袋に入ったシンナーを吸った。学ランとセーラー服の二人は駅前の商店街をブラブラと歩く。その時、金髪のポニーテールを南風になびかせて歩道をふらついていた彼女が、突然通りの反対の歩道を見て言った。
「キューちゃん、ほら見てん。自転車泥棒が警察に捕まっとる」
父だった。
半年前から家に帰って来なくなり行方不明だった父が、パチンコ屋の前で若い警官と押し問答を繰り広げている。どうやら父が乗っている自転車に盗難届けが出ているらしく警官に職務質問をされているようだ。
「ええ大人が自転車パクって警察に叱られとる。でら笑える」
強めの立ち眩み。僕は、あの大人が自分の父だと彼女に明かせぬまま、ただ黙って父と若い警官とのやり取りに耳を澄ませた。
「正直に盗みましたと言え」
「何度も言わしぇるな、こんポリ公。こりゃ俺ん自転車や。ちょっと前に自転車が盗まれたことがあって、そん時に盗難届ば出した。そげえしたらそん翌日に公園に乗り捨ててある自分の自転車ばたまたま発見した。そん後、うっかり盗難届ん取り下げん連絡ばしぇんやった。それだけんことや」
「おい、こら、オヤジ。あまり警察を舐めたらいかんぞ。こちとらぱっと見で見抜けるでな。ははーん、その面を見る限り、おみゃー常習かあ?」
若い警官が、父の肩を指先でグイグイと執拗に押し続けている。
「ねえ、キューちゃん。人間あそこまで堕ちたくないね。言っちゃ悪いけどクズっすけど。言っちゃ悪いけどカスっすけど。きゃきゃきゃ。超うける。マジでうける」
彼女が両手をぱちぱちと叩き鳴らし、警官に職務質問される父を見ながら爆笑している。
「ははーん、お前常習か? だって。きゃきゃきゃ」
僕はだんだんこの左にひん曲がった鼻の下のくぼみを、更に左にひん曲げて笑う女の顔面が不快になってきた。
「黙れ。ラリリ女」
「え」
そして、その場で静かに彼女と決別した。
「笑うな。お前のようなシンナー中毒者が、偉そうにあの大人を笑うな。お前のようなシンナー中毒者は、そのひん曲がった顔面を有機溶剤の入ったビニール袋に突っ込んだまま、一生涯ラリって暮らせ」
場所を変えてゆっくりと話をするのだろう、父が警官に連行されて行く。その際、通りの反対側にいる僕の存在に父が気が付いた。ほんの一瞬目が合った。父が直ちに気が付いていない下手な芝居をしたのがとても痛々しかった。僕の気が付いていない芝居も、さぞや痛々しかったことだろう。なんだこの状況は。この地獄を何と名付けよう。情けない。情けなくて情けなくて涙が出る。お父さん、お願いです。嘘でもいいからもう少し父親らしくして下さい。数センチでよいから息子が乗り越えるべき壁として立ちはだかって下さい。別れ際に彼女が捨てたたこ焼きの容器が歩道のインターロッキングの上を滑って行く。青海苔と鰹節が南風に舞う。




