死んで下さい、地区会長
令和七年二月二十三日(日)
小学生時代の、父との思い出。
激動の昭和の終わり頃。神社の鳥居に掲げられた赤いマジックインキで『夏祭り』と描かれた看板。会場を色とりどりに照らす提灯の群れ。路傍でくすぶっている誰かが揉み消し損ねた煙草の吸殻。縦方向に潰されたジュースの空き缶。僕は、かき氷をリズミカルにカシュカシュしながら、光に集まる真夏の夜の害虫の一匹となって、ヤンキー、ツッパリ、ワル、不良、チンピラと称される皆さんと一緒に祭りにたむろしていた。
ヤンキー、ツッパリ、ワル、不良、チンピラと称される皆さんに美徳があるとするならば、彼らは総じて律義者であるということだ。どいつもこいつもそんなに気怠ければ家で大人しく寝ていればよいのに、爺さん婆さんと一緒で地区の行事には何故か意欲的に参加をするのだ。参加はするがその態度は極めて悪い。退屈だ。面白くねえ。かったるい。そんな憎まれ口をたたいては、人通りの真ん中で通行を妨げるように集団でウンコ座りをして、粘性の強い唾液を地面に点々と垂らしている。
関係者テントの下で、父がご近所の若い人妻たちをホステス代わりに缶ビールをくぴくぴと煽っている。この年、父はあろうことかこの地区の地区会長を仰せつかっており、よりによって夏祭りの運営の中心にいたのである。年度替わりの役員を選出する会合に「会場の端っこで座っていればいいから」と母にそそのかされて出席したのが間違いだった。会合では、近所の若い人妻たちに、そそのかされ放題にそそのかされ、満場一致で地区会長を押し付けられて帰ってきた。僕は愕然とした。ヤバい。このままでは、この地区の皆さんに多大なご迷惑を掛けてしまう。
「いや~、あいらしかママたちに囲まれちゃってしゃあ。あげんのこすかよ。じぇったい断れんばい。あんやり口は、ある意味リンチばい」
困ったような口調で、本人はいたってご機嫌だった。
僕の住む地区は、住民の多くが外国人で、多種多様な国籍の人々が混在して暮らす人種のるつぼだった。地区に住む人々の生活は貧しく、風紀は荒んでいた。小中学生は十トントラックが肩をかすめるようにビュンビュン走る国道の端を歩き、ラブホテルが建ち並ぶいかがわしい通りを抜けて通学した。近所の公園には乾燥した動物の排泄物や生乾きの人間の体液。ゴミ捨て場には、曜日を守らず放置された生ゴミ。それをついばむ野良猫より大きなカラスたち。近所に外国人窃盗団のアジトがあるという噂があった。十代の少年たちが外国人労働者をなぶり殺しにするという事件を報道するニュースに、昔僕が通った保育園の園庭と、そこに飛び散る生々しい血痕が映っていた。
そんな地区にも夏祭りはあった。祭りともなれば、中国人、韓国人、ブラジル人、イラン人、トルコ人。ベトナム人、インド人などが会場に有志で屋台を出し各国の名物料理を振る舞った。この地区では盆踊りの代わりに地元のアマチュアバンドがベニヤ合板で拵えた特設ステージで古き良きロックンロールナンバーを演奏する。その楽曲に合わせて酒に酔った大勢の外国人たちが広場で踊り狂う。限りなく地面に近い万国博覧会といった趣があり、僕はこの地区の夏祭りが好きだった。しかし外国人たちの人目をはばからぬ乱痴気騒ぎの輪に交じり、真夏の宵を彼らと共に踊り明かせるかというと、やはりそれは気が引けると言うもの。他の多くの日本人と一緒に、あちこちで騒いでいる外国人の様子を、遠巻きにニヤニヤと眺めているだけだった。
にわかに広場がどよめいた。観衆の割れんばかりの大歓声。怒涛のような笑い声。ななな、何事ですか? 近くの中年男性に尋ねた。どうやら一人の日本人が、外国人たちを相手に豪快なダンスバトルを繰り広げているらしい。
「誰だ、あのおっさん?」
「ダレ、アノニホンジン?」
騒ぎのする方へ視線を送る。
父だった。
関係者席でビールを鯨飲してベロンベロンになった父だった。夏祭りの広場の中央にしゃしゃり出て、外国人たちの軽快なツイストに対抗して、コサックダンスと炭坑節と阿波踊りを足して三で割ったような、得体の知れないステップで踊り狂っている。しきりに何か叫んでいるので、よく耳を澄ましてみると「これはペンです」という意味の英語を喉を枯らして連呼している。
「あのおっさん、今年の地区会長らしいぜ」
地区の子供が、せせら笑う。
「ほれ見てみん。腕から入れ墨が見えとる」
地区の大人が、さげすみ笑う。
おいおい、勘弁してくれ。紺色の甚兵衛の袖から二の腕に彫られた女の名前がチラチラ見えたり隠れたり。しかも母とは違う女の名前。お願いです、死んで下さい、地区会長。




