やりきれない
令和七年二月二日(日)
もう何年も友達と会っていない。何年も会っていない者をこちらの心象的都合で勝手に友達と呼び続けてよいのか。こればっかりは当の本人たちに直接聞いてみないと分からないのだけれど。若い頃から性根が曲がっていた僕は、かつて彼らと原っぱで草や木を石コロですり潰して遊んだ青臭い時間のその原色の青の真っ只中にあっても「ねえねえ、僕と君って友達だよね?」なんちゅう青汁ほとばしる質問は、僕が僕であるために絶対してなるものかと心に決めて生きてきたし、これからもおそらく出来っこないし。
オイよお。たまには飲もうぜ。おごるぜ。昔話にぱっと花を咲かせ、差し向かいでポン酒をヒヤでぐびりぐびりといこうじゃねーか。なんて有難いお誘いは、かつても今も無いわけでは無いのであるが、そんでもってタダというジャンルの酒は極めて美味いと聞くから、実に飲酒欲をそそるのであるがしかし。しかし僕は会わない。てかちゅか、会えない。それはなぜかってえと、例えば友人知人が結婚したとか死んだとかのノッピキならぬ事情で、かつての友達大集合絶対不可避なタイミングがあるっしょ。そういった場で共に過ごして来なかった今日までが醸し出す違和感にギクシャクしながら、それでも酒など酌み交わし何気に会話を弾ませていると、彼らは必ずしみじみとした口調で僕に「お前は変わった」と言うのだ。もしくは「見失った」「染まった」「売った」「踊らされた」など。あるいはそれに類する言葉。そんな時僕はしどろもどろになって1000の弁解をするのであるが、結局1の理解も得られぬまま二度とその友達とは会わなくなるのだ。
やりきれない。
友達と過ごした日々は、僕の記憶の中でセピア色の画像として輝いている。静止した記憶の断片たちは色あせたセピア色をしているのに何故かギラギラと輝いているのだ。でも不用意に彼らに出会うと途端にセピアが極彩に色づき動画と化し、やがてその動画フィルムはぢりぢりと焦げ一本の細い煙をくゆらせ、最後は昭和のアナログテレビの深夜の砂嵐のように何も映らなくなってしまう。やりきれない。だから僕は、あえて古い友達との集いに出向くことはない。同窓会とかも行ったことない。
もう何年も友達と会っていない。何年も会っていない者をこちらの心象的都合で勝手に友達と呼び続けてよいのか。お前は変わった。見失った。染まった。売った。踊らされた。それでも友よ。友達よ。かつて僕たちは変わり続けていたではないか。毎日、毎時、毎分、いや秒速で変化を遂げていたではないか。僕は何も変わってなんかいない。君たちがいつの間にか放棄した「変化」という行為を、今も懲りずに続けているだけだ。確かに僕は大切なことを見失い、社会に染まり、魂を売り、時代に踊らされてきた。それでも僕はこれからも変わり続けようと思う。いつか真実を見付け、社会を彩り、不屈の魂を持つ、時代の作り手になりたいから。変わり続ける者でありたい。この気持ちは、あの頃から何も変わっていないよ。




