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73. おかえりなさい(その9)

「マリアさん……」

「どうして伊澄が……?」


 マリアの目は伊澄ばかりに行っていたが、隣にいるルシュカの存在に気づき整った顔がブサイクに歪んだ。


「こぉら、そんな顔しないでよ」

「そう思うのなら普段から大人しくしててください。

 ドクターがそこにいるということはひょっとして……」

「そ。今日のテストには伊澄くんに乗ぉってもらおうと思って。ついさっき再入隊の契約も快ぉく結んでくれたところ。ま、書類の方は後でだけどね」

「本当なの?」

「ええ、まあ……はい。

 ……すみません、マリアさん。その節はその、ご迷惑をおかけしました」

「まったくよ、もう……伊澄が抜けてから小隊の編成をどうしようかずいぶん頭を悩ませるハメになったわよ?」」


 伊澄が少しバツが悪そうに返事をすると、マリアはホッとしたような、そんな表情を浮かべた。だがすぐにまた顔をしかめ、訝しげにルシュカを睨む。


「ドクター。伊澄の腕前はよく知ってますから戻ってくれるのは確かにありがたいですが……一体今度は何の悪巧みをしてるんですか?」

「ちょっとぉ、人聞き悪いこと言わないでくれるぅ?」

「はは、すみません。実は今回、僕の方から戻りたいってルシュカさんにお願いしまして」

「伊澄から?」


 思ってもみなかった返答にマリアはまじまじと伊澄を見つめた。


「本当に? なにかドクターに弱みでも握られたんじゃなくって?」

「君はいったい私をどぉう見てるのかな?」

「自業自得です。

 でも、どうして急に?」

「実はですね――」


 頭を掻きながら、マリアに戻ってきた事情を説明した。ユカリとマリアは最初に少々話を交わしただけで接点は少ないのだが、それでも真剣な表情で聞いてくれ、そしてオルヴィウスの名が出てきたところで険しいものに変わった。


「オルヴィウス、か……機体の性能はコッチがたぶん上だろうけど、相当な手練よ?」

「皆さんそう言いますよね。ってことは本当にすごい人なんでしょうね」

「そりゃあね。アルヴヘイム(向こう)のノイエ・ヴェルト乗りの間じゃ相当の有名人よ。軍にいれば間違いなくエースパイロットだわ」


 そう言うとマリアはルシュカに向き直った。


「ドクター。さすがに伊澄一人じゃ危険です。私もテュールで同行します」


 マリアの申し出に伊澄は「えっ」と驚き、すぐに断ろうとするが、それよりも早くルシュカが首を振った。


「だーめ。マリアはこっちで待機。テュールまで送るってぇなるとさぁあ、予算オーバーになっちゃうもの」

「ですがっ……」

「それに伊澄くんの話だとぉ、先方は伊澄くんをご指名だもん。なのにノイエ・ヴェルトが二機も現れちゃあ余計にユカリちゃんが危ないかもよぉ?」

「……それはそうかもしれませんが」

「大丈夫です、マリアさん」伊澄はマリアに向かってうなずいた。「僕がやらなければいけないことですから」


 伊澄としても心配してくれるのはありがたい。まして、迷惑を掛けた自分だというのに、そのことをおくびにも出さないでいてくれる。彼女には感謝の気持ちしかなかった。


「……大丈夫じゃないわよ。伊澄の実力は知ってるけど、無謀すぎるわ。それに……本気で殺し合いになるわよ」


 以前に伊澄が除隊する時に口にした理由。相手に殺されるかもしれない。相手を殺すかもしれない。それを念頭に置いたマリアの心配であったが、伊澄もそれを理解した上だ。


「はい。もう、今度こそ覚悟はできてますから。それに、これは僕がやりたいことなんです」

「そう……わかったわよ、もう」マリアはため息を漏らした。「そこまで言うなら勝手にしなさい」

「すみません」

「いいって、もう。その代わり――」

「はい。ちゃんと戻ってきますよ。ユカリと二人で。約束します」


 伊澄がはにかんでみせると、それにつられてかマリアも「しかたないわね」とばかりに腰に手を当ててみせた。

 と、そうしているとマリアの首が傾いた。その仕草に伊澄が「どうしました?」と尋ねかけたその時――


「……てぇりゃぁぁぁっっ!!」


 ぶすり。

 伊澄のケツに電流が走った。


「……――ッッッっっ!!??」


 ケツの穴にめり込む、何か。それは穴の中の肉をえぐりながら進み、繊細な内壁が激しい痛覚となって体中の神経を刺激。大脳へと貫いていく。

 同時に腸の中で圧迫された空気を胃の方へと押し出し、泡立った胃液の海を貫通。ケツから押し出された空気の塊は声帯で振動。

 そして――悲鳴となって伊澄の口から逆流した。


「ヒィィィぎゃああァァァァァァァァァっっっ!!!」

「ぎゃあーひゃっひゃっひゃっひゃっ!! やぁってやったぜぇっっ!!」


 人類の限界に挑戦する悲鳴を上げながら床を転がり伊澄は悶絶した。その後ろでは、究極的カンチョーを空気読まずに完璧に成功させたクーゲルが大爆笑していた。


「ひゃーっひゃっひゃっひゃっひゃっっ!! 相変わらずテメェはケツがお留守だよなぁっ!! 見たかよ、姐さん! 今の伊澄のリアクショ――」


 クーゲルは涙を流しながら腹を抱え、マリアに話を振るがそこに彼女の姿はなく――


「あ、あれ?」

「くぅげるぅぅっ……!」


 彼の背後から唸るような声が聞こえた。


「あぁぁぁんたってやつはぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

「ふげぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!??」


 マリアの渾身のケリがクーゲルのケツの割れ目にめり込んだ。同時にそのつま先がクーゲルの股間をも抉りとっていく。なお、マリアの靴はコンバットブーツである。


「あばばばばばばぶくぶくぶく……」


 ケツ穴と急所を同時に蹴りぬかれ、クーゲルは泡を吹きながらピクピクと痙攣する。マリアは汚いものを相手にするような眼で見下ろすと、「ふん」と鼻を鳴らした。


「まったく、アンタって奴は! どうぉしてこうも空気読めないバァァァァカなのかしら! これから戦いに向かおうって相手に、何してくれてんのよっ!!」

「あだだだだ……けどよぉ、姐さん。俺だって新型乗れんの楽しみにしてたんだぜ? ちらっと事情は聞いたけどちったぁ意趣返ししたっていいじゃんか」

「だからってやって良いことと悪いことがあるでしょうが! ガキじゃないんだから状況を考えなさいってのよ!」

「いてててて! わか、分かったから耳引っ張るなって!」

「お、おおうぅぅ……」


 伊澄はうめき声を上げ、尻の穴を押さえながらひょこひょこと近づいてくる。


「ひょっとして……クーゲルさんが乗る予定でした?」

「そうだよ。

 ちっ、ったくよぉ。いいか、伊澄」


 クーゲルはガシッと伊澄の頭にヘッドロックを掛けると、グリグリと彼の頭に拳を押し付けた。


「ぜぇぇぇったいユカリちゃんを連れて帰ってこいよ? ンで、だ。彼女に『クーゲルさんはちょーさいこーのイケメン』とアピールした上で俺に紹介しろ。いいな?」

「アンタ、前にもコナかけようとしてケリ食らったでしょうが……」

「クーゲルさんのそのクソみたいなセンスとアホみたいなポジティブさはなんなんでしょうね……?」

「うっせぇなっ! 脈は薄くても当たって砕けんのが男ってもんだろうが!」

「砕けるのが前提なんですね……」

「あー、盛り上がってるトコ悪いんだけどさぁあ? 今回はクーゲルくんも一緒に乗っていってもらうからね?」


 ルシュカが割って入ってそう伝えると、伊澄とクーゲルは揃って怪訝そうな顔をした。


「おいおい、ドク。冗談きついぜ。コイツは一人乗り用だろ?」

「一応シートの後ろにステップとベルトはついてるからぁ乗るくらいなぁらできるよ。ユカリは……まあ伊澄くんの膝上にでも乗せてあげればいいんじゃなぁい? 別にクーゲルくんが伊澄くんの膝上でもいいけど」

「お断りだ。男の膝上なんざゾッとしねぇよ」

「なんか嫌な未来しか見えないんですが……」


 ニヴィールに戻ってきた時にはユカリにボコボコにされてそうだ。伊澄は可能性が高そうな将来像を想像して嫌そうに顔をしかめた。


「いいんですか、ドクター?」

「だって伊澄くん一人だと機体を空っぽにしなきゃいけないかもしれないじゃあなぁい? それに、できれば操縦者毎のデータだってほしいしね。

 だから、いいかい? 伊澄くんとクーゲルくんはぁどうでもいいけど、機体とユカリは連れて帰ってきてね?」

「ひどくね?」

「そんなことないさぁ。君たちなら問題なく戻ってきてくれるって信じてるんだよぉ?」


 果たしてここまで空々しい信頼の言葉があっただろうか。伊澄はため息をつくも気持ちを切り替える。しかしクーゲルも付いてきてくれるというのは伊澄としても心強かった。

 何としても、ユカリは連れて帰る。たとえ、この身を犠牲にしてでも。

 死ぬ気はない。けれども、あちらでは何が起きるか分からない。そこにクーゲルがいてくれれば、最悪彼女を託すことができる。伊澄は握ったり開いたりを繰り返す自分の手のひらを見下ろし、グッと最後に拳を握りしめた。


「ワイズマン博士。後五分ほどで機体の最終チェックが完了します」

「おっけー。ありがと、サキちゃん。

 ほら。てわけでぇ、伊澄くんはそんな堅苦しいワイシャツなんて脱いじゃってぇ、さっさと準備する。ロッカーは前のところのままにしてあるからね。さ、行った行った」


 ルシュカが手をパンパンと叩いて伊澄たちを促す。伊澄も急がなきゃ、とロッカーへ走り出した。だがその背にマリアから「ちょっと待って」と声がかかった。


「どうしました?」

「いや、えっとね」


 マリアは頭を掻きながらどこか気恥ずかしそうに眼を逸らした。

 伊澄は首を傾げるが、そんな彼に向かってスッと手を差し出した。


「そういえばまだ言ってなかった、と思ってね。

 ――おかえりなさい、伊澄。これからまた一緒に戦えて嬉しいわ」


 微笑むマリア。伊澄は一瞬だけその笑みに見とれ、やがて自身も自然と微笑んだ。

 ありがとうございます。そうつぶやいて、伊澄は彼女の手を握ったのだった。

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