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53. 仄暗い水の底で(その6)

「……っ!?」


 瞬きの後、伊澄は息を飲んだ。

 視界いっぱいに広がるパステルカラーの世界。それは、いつだったか夢の中で訪れたあの白い世界だった。

 違うのは、今回は伊澄の脚はしっかりと地についていること。そして、あの時は遠巻きにしか見ていなかった金色の髪をした人形のような少女が、今は目の前に立っていた。

 少女は無表情の仮面で伊澄を見つめていた。二人の間に風が流れる。金髪が揺れる。まばたきをする。微かな動きの一つ一つから伊澄は眼を離すことができない。

 ゆっくりと形の良い少女の口が横に広がる。笑う。或いは機械的に、或いは無邪気に、或いはいたずらっぽく、或いは――悪意に満ちて。伊澄には少女の笑みがそのどれかが判別ができず、またそのいずれもが入り混じったものに思えた。

 彼女は、言った。


――死なせてなんて、あげない


 突如として風が吹き荒れた。唐突に伊澄の体が花吹雪のように吹き上げられ、みるみるうちに少女の姿が小さくなる。


「待って! 君は――」


 いったい、誰。その問いは言葉にならず、伊澄の体がまるで、細雪が真夏に溶けていくように消えていく。そんな伊澄を、少女はまた無感動に見上げていた。


「――っ!!」


 そうして伊澄はまたコクピットへと舞い戻っていた。赤くアラームが鳴り続け、ただでさえ狭いコクピットがひしゃげて更に狭くなっている。意識が飛ぶ前と変わっていない。時間はほとんど経っていなかった。ただ、あれほど酷かった頭痛がだいぶ和らいでいた。

 目の前には敵機の影。暗く、全容を確認するのは困難だが伊澄に向かって止めの一撃を振り下ろそうとしているのがなんとなく分かった。

 そう思い至った瞬間、伊澄は「死にたくない」と思った。怖いのではない。意識が飛ばされる前と同じく死に対する恐怖はない。憧れに近い死への感情は未だ残ったままだ。

 それでも「死にたくなかった」。違う。死んでは「ならない」。何故だか分からないがそう思った。

 だから勝手に体が動いた。敵機の短く太い腕が伊澄の頭上に振り下ろされるよりも早くペダルを全力で踏み抜き、レバーを押し倒す。レバー横にある「オーバードライブ」ボタンを押し込むとエンジンが一気に過回転域にまで達していく。甲高い、耳障りな音がアラームよりも大音量で響き、そして背面で噴出するジェットに押されて二つの機体が浮き上がっていった。


「くぅぅぅぅぅぅっっ……!」


 バックパックの異常温度を告げる警報が更に加わる。どこかが壊れたか、不規則にジェットが噴き出して機体のバランスが崩れガタガタと体が揺れる。けれども構わない。行けるところまで上がっていくだけだ。

 オルカにまたがったまま共に海面へ打ち上げられていた敵機は、状況の変化に追いつけていけなかったのかオルカにしがみついたまましばらく動かずにいた。それでも危機感を覚えたのか、微かに光を反射する海面がおぼろげに見え始めた頃になってようやく動き始め、今度こそその(かいな)を伊澄目掛け叩きつけようとした。

 しかしそれも叶わなかった。限界を迎えたオルカのエンジンが爆発し、一際激しい揺れが二機を襲う。それにより敵機は振り落とされ、伊澄との距離がわずかに離れる。下になっていたオルカが上になり、敵機との位置が逆転した。

 そしてそのタイミングを伊澄は見逃さなかった。

 胸部に残った二基の魚雷。その発射ボタンをためらわず押した。

 至近距離で魚雷が爆発する。おびただしい気泡を撒き散らし、全てが真っ白に染まっていく。

 そのまま爆風と共に、伊澄と敵機は閃光の中に飲み込まれていったのだった。






 水面から激しく水柱が舞い上がった。爆音が夜の帳を打ち破り、海面が気泡で白く染まっていく。そしてまたうるさいくらいの静寂が辺りを包み込んだ。

 海面が元の姿を取り戻していく。気泡は消え、夜空の紫を映し出す鏡と化した。

 そこに生まれる小さな気泡。コポコポと小さな音を奏で、やがてその下から伊澄の頭が飛び出した。


「ぷはっ! っ、げほっ、ゴホッ……!」


 ひとしきり咳き込み、気管に入った海水を吐き出し切る。喉の奥が強くひりつき、涙がにじむ。落ち着くと濡れた顔と眼を拭い、自身が浮き上がってきた海面を振り返るが、どちらのノイエ・ヴェルトの姿も無かった。敵機が逃げたのかは分からない。だが少なくともオルカは完膚なきまでに壊れて海底だ。きっとこのまま魚礁となるのだろう。


「……はぁ」


 暗い暗い、海の底。あの機体は結局、日の目を見ることなく沈んだまま。自分がそうしてしまった。そのことに伊澄は落ち込み、ため息をついた。同時に、気づく。自分がまだノイエ・ヴェルトを愛していることに。

 仰向けになり、広大な海に浮かぶ。横を向けば遠くの空が薄っすらと明るくなろうとしていた。


「僕は――」


 何がしたいんだろうか。死にたかったり生きたかったり。この世界のノイエ・ヴェルトが嫌いになりそうだったのに、沈んだ機体を思って落ち込んだり。もう乗らないと思っていたのに、戦いの場になんて出たくないと思っていたのに、こうしてまた自分から戦いの場に飛び込んでいったり。まったく――不可解だ。

 でも。


「後悔はない、かな……?」


 結果は決して褒められたものではないと思う。が、戦わなかったら貨物船は海賊たちに占拠されていただろうし残りのオルカも奪われていただろう。ソフィもケガをしてしまったかもしれない。それを防げただけでも十分だと思おう。

 それでも、思ってしまう。


「バルダーの機体だったらなぁ……」


 もうちょっとうまくできたかもしれない。そんな考えがふと過り、しかしそれも栓のないことだと首を振って眼を閉じ、そして空を見上げた。


『伊澄っ! どこにいるっ!? いたら返事をしろーっ!!』


 ソフィアのくぐもった声が遠くから届く。そちらに振り向けば一機のノイエ・ヴェルトが頭を海面に出して近づいてきていた。どうやら彼女もまた売り物の機体に乗って海に飛び込んだらしい。

 伊澄は手を上げ疲れた声を何とか張り上げた。すると明後日を向いていたオルカが伊澄の方を向く。やがてすぐ傍までやってくると波打った海面が伊澄の顔をバシャリと濡らした。巨大なノイエ・ヴェルトが近づく以上それは仕方のないことだが、伊澄にはそれがソフィアの意趣返しではないかと思った。


『伊澄っ!! 良かった……! このバカっ! 無茶をして……』


 そしてそれを如実に示す彼女の罵声と、少し涙ぐんだような声。機体の固い手のひらですくい上げられた伊澄は、メインカメラの方を向くと小さく「ごめん」とつぶやいた。

 ともかくも、疲れた。伊澄は一度大きく息を吐き出してまた遠くの空を眺める。いつの間にかオレンジの太陽が水平線の向こうから顔を覗かせていた。

 濡れた体が陽の光を受けて暖かくなっていく。優しい温もりに包まれていく。

 その心地よさに伊澄はゆっくりとまどろみに意識を委ねていったのだった。

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