52. 仄暗い水の底で(その5)
「――そろそろ行こうか」
伊澄は再度自機の情報を参照した。
燃料、酸素共に半分以下にまで減っている。そして伊澄機がそうであるならば、敵機はすでにギリギリであるはずだ。それを示すように、伊澄の眼から見ても先程から敵機の動きに迷いのようなものが見え始めていた。
敵も敵とて決断しなければならない。だが諦める選択肢はないだろう。なにせ、伊澄は一機で増援が来る気配もない。こんな美味しい獲物は早々ないはずだ。
そして伊澄も逃げる気はもうなかった。なぜならば――もう慣れたから。
伊澄の瞳から感情が消えた。瞳が捉えるのは敵のみ。頭脳が望むのは敵機の撃墜のみ。
レバーを倒し、ペダルを踏み込む。海面側から一気に眼下の敵機目掛けて、フルスロットルで突っ込んでいく。
残ったもう片手のパイルガンを敵機に向けて伊澄は射出した。これまでの漫然とした回避行動から一転しての急激な速度の変化。敵機の動きが一瞬鈍ったのが伊澄には分かった。
オルカの放ったパイルガンは、しかし敵機の丸い機体の表面を掠めるだけに終わった。そしてようやくやってきたこの機を逃すまいと、敵がオルカのパイルガンに繋がるチェーンを掴んで振り返った。
眼の前に、オルカがいた。
「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっ!!」
水圧によって激しく揺らされながら伊澄は雄叫びを上げた。そして機体をアクロバティックに回転させるとその短くも太い足で敵機の頭部を蹴り飛ばした。
伊澄が放ったパイルガン。それは決して敵機に当てるためのものではなかった。海底目掛けて放たれたそれは、伊澄の狙い通りに深々と突き刺さった。まるでアンカーのように。
本来ならば機体に回収するためのチェーンだが、伊澄はそれを海底に固定させて水中移動に利用したのだ。
そこに更に全力でジェットを噴射。その結果、この機体ではありえない程に爆発的な推進力を得た伊澄は、一気に敵へ接近することに成功したのだった。
蹴り飛ばされた敵機が海底で弾んだ。伊澄は突き刺さったパイルガンの傍に着地すると再びジェットを噴出して急制動をかけた。そしてそのままパイルガンを引き抜くと、起き上がろうとしていた敵機の首関節へ再度それを射出した。
装甲をえぐり、深く突き刺さる杭。杭で開いた隙間にナイフを突き入れるとテコの要領で首が外れ、海水が流れ込んだことで電装系統が破壊されその一機は動きを止めた。
「一つ!」
叫びながら伊澄は機体をかがませた。その直上を、迫ってきていた別の機体の腕が空振り、敵機そのものが勢い余って通り過ぎていく。
オルカのモニターは全天モニターではない。したがって伊澄からは新たに接近した敵機の姿は見えない。だが、彼はまるで背にも目がついているように絶妙なタイミングでナイフを突き上げた。
水中型は分厚い装甲故に高い耐久性を持っているが、弱点もある。その一つが関節部だ。ある程度柔軟な動きが必要であるため、そこは装甲ではなく特殊なシート状の素材で覆われており、打撃力には強いものの、斬撃には脆い。それこそ、ただのナイフでも容易く切り裂けてしまうほどに。
もちろんメーカー側もそれは理解しており、その部分がむき出しにならないよう対処しているためにナイフが刺さるスペースは非常に狭い。しかし伊澄はそこを正確に斬り裂いた。
股関節部を切り裂かれ、右脚が半ば外れたようになった敵機は急なバランスの崩れによって制動もままならない。そして伊澄がその隙を見逃すはずもなかった。
ジタバタと溺れるように手をばたつかせる敵機に背後から近づき、しがみつく。そうして残った腕、脚の全ての関節を斬り裂く。ベテランの暗殺者のように静かに、そして無駄なく。
駆動装置を破壊された四肢は動くことができず、伊澄が離れるとそのまま二機目も海底に横たわったのだった。
「これで二つ……っぅ!」
形勢は完全に逆転。残る一機を視界に捉えて襲いかかろうとした伊澄だったが、レバーを握るその腕が突如止まった。
急激に始まる猛烈な頭痛。歪む視界と耳鳴り。頭痛は激しさを秒単位で増していき、レバーを握ることさえままならない。傾いだ体がシートからはみ出し、ベルトでかろうじて留まった。
知っている、この感覚。伊澄が何故、ノイエ・ヴェルトの資格を取得できなかったか。この激しい頭痛とめまいこそがその要因だ。
「なんでこん、な、時にっ……!」
シルヴェリア王国でノイエ・ヴェルトに乗った時でも、この間のバルダーでの実戦でも起こらなかった。だからもう完全に治ったのだと思っていたのに、どうして。
痛みに堪えきれず涙がにじむ。平衡感覚が破壊され、自分がどういう体勢でいるのかも把握できない。そんな中でも、敵機が迫ってきているのがおぼろげながら分かった。
歯を食いしばり、伊澄はレバーを掴む。二重三重に見える敵機の攻撃を何とかかわそうとする。しかし距離感も反応もおぼつかない状態で戦闘など到底困難だった。
「ぐっ……!」
避けきれず、攻撃がオルカの肘から先を弾き飛ばす。衝撃でオルカは転倒し、伊澄は強かにシートに体を何度もぶつけた。頭を揺らされ頭痛はますます酷くなる中で、それでも伊澄は何とか左腕のパイルガンを放った。
だがそれも敵機には当たらない。敵機が避けずとも明後日の方向へ飛んでいき、敵兵はそのチェーンを掴むと力任せに引きちぎってしまった。そしてオルカの頭部に腕を振り下ろすとグシャリと鈍い音がして正面のモニターが砂嵐へ変わったのだった。
「く、そぉ……!」
機体の異常を知らせるアラームが鳴り響く。赤くコクピットが染まり、予備のカメラに切り替わった正面モニターには、これまでより遥かに不鮮明な黒い影が微かに映っていた。それが一気に覆いかぶさってきて、再び激しく機体が揺れていく。
「まず、い……!」
完全に敵機にマウントを取られた。何とかしなければと思うが、思考もままならない。脂汗がびっしりと顔を流れ、がむしゃらにレバーを動かすとまたガツンという音がした。どうやらオルカの腕が敵の腰の辺りを殴りつけたようで少し敵の影が傾いたが、逆に左腕も敵に掴まれ、そのままミシミシと音を立てて引きちぎられた。
再び、衝撃。コクピットの天井が音と共にひしゃげた。金属片がパラパラと頭上から降ってくる。幾らオルカのコクピット周りが頑丈とはいえ、あと一撃でも殴られれば――
「終わり、か……」
死の匂いがする。だが伊澄に恐怖はあまりなかった。こんな状況だというのにむしろまだ頭痛の方が気になるくらいだ。その事実が、自身がどこか狂っているのだと言っているようだった。
シルヴェリア王国では死にたくないと思った。だがそれは伊澄一人では無かったからだ。あの時はユカリがいて、彼女を死なせるわけにはいかないと思った。だから自分も死ぬわけにいかなかった。
しかし今は自分ひとりだ。バルダーも辞めた今、特に自分に期待などしていない。生きていたとしてもせいぜい世間より少しだけ良い給料をもらって毎日を忙しなく過ごすだけ。そしてその金もまた、実家へと送金して目減りする。所詮そんな人生である。
痛む頭でそんなことを漫然と考え、気づく。自分が生きることにさほど執着していないことに。
「なら――」
ここで終わるのも、それもまた良いのかもしれない。仕事中の死亡であれば労災も下りるだろうし、生命保険も家族に渡る。それで親も寿命いっぱい生きられるだろう。きしむ機体の中で伊澄は眼を閉じた。
だが――




