第一章 結 7話 初めての夜?!
がたん、ごとんと揺れる馬車での移動中、御者席に座ったデルが淡々と語った「おとぎ話」は、いつしか全員を黙らせていた。
最初は軽い気持ちで耳を傾けていたけれど、次第に結は目を閉じて夢中になっていた。
揺れる馬車の音と、彼の低く澄んだ声だけが胸に響いていた。
窓の外が暗くなり始め、話が終わった頃には、夜の帳が森を覆っていた。
馬車を止め、丘の上で焚き火を囲む。ぱちぱちと爆ぜる音だけが静かな夜に響いた。
胸の奥では、さっきの物語がまだ熱を持って渦巻いていた。
翔が両手を広げ、大げさに言った。
「いやぁー、長かったけど最高!映画にしたら絶対売れるって!」
「……ほんと、何でも軽く言うのね」
朱里が小さくため息をついた。けれど、その横顔はどこか優しい。
亮は顎に手を当て、真面目に言う。
「悲しいけど、筋が通っていた。ああいう選択が積み重なって、物語は心に残るんだと思う」
「……わ、わたしも……そう思います……」
静香は膝の上で本を抱きしめ、消え入りそうな声で言った。
「……忘れられないお話……です……」
私は皆の言葉を聞きながら、焚き火の炎をじっと見つめていた。
――どうしてだろう。あの話を聞いていたら、胸がぎゅっと痛くなるのに、不思議と温かい気持ちにもなった。
――私も……誰かを守れる人になりたい。病院のベッドの上では、ただ願うことしかできなかったから。
気づいたら、私はぎこちなく笑って言葉をこぼしていた。
「えっと……私も……うまく言えないけど……。誰かを守れる人に、なれたらいいなって……」
「おー、それいいじゃん!」翔がにやりと笑う。
「俺も守る守る! モテそうだし!」
「バカじゃないの?」
朱里の即答に、みんなが小さく笑った。
――あぁ、なんかいいな……こうしてみんなと笑えるの。病室の白い天井ばっかり見てた日々とは全然違う。こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
焚き火の輪の中、重かった空気は次第に和らいでいった。
デルは少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。
誰も、自分が語ったのがただの“物語”ではないことを知らぬままに。
焚き火の炎がゆっくりと小さくなり、夜の静けさが戻ってきた。
翔はもう寝袋に潜り込み、すぐに寝息を立てている。
「ほんと、子どもみたい……」
朱里が苦笑しながら彼を見やる。だが、その表情はどこか柔らかかった。
亮は持ってきた外套を静香に差し出した。
「夜は冷えるから、これを掛けて」
「……あ、ありがとう……」
小さな声で受け取る静香の頬が、焚き火の残り火に赤く染まっていた。
――みんなの顔が、穏やかだ。こうして寄り添って眠れるなんて、夢みたい。
そんな初めての夜に目が覚めてしまいふと視線を焚き火の方に向けると、デルの姿があった。
彼だけは夜空に視線を向けたまま、眠ろうとしなかった。
「……デルさん、まだ起きてるの?」
結がおずおずと声をかけ、毛布を肩に寄せて近づいた。
デルは振り返り、にこりと笑う。
「おやおや、お嬢さん。おやすみになられたのでは? 眠れませぬか、安らげませぬか、落ち着けませぬか?」
柔らかな口調だが、その笑みには底知れないものが漂っていた。
「う、うん。外で寝るのって慣れてなくて……」
結は少し照れくさそうに答える。
デルは焚き火に視線を戻し、炎を弄ぶように言葉を紡いだ。
「なるほどなるほど、初めての経験でございますか。人は弱く、脆く、儚い生き物。だからこそ寄り添い、だからこそ縋り、だからこそ裏切る。いやはや、実に面白き種族でございますなぁ」
――……やっぱり、胡散臭い。でも、不思議と目が離せない。
結は勇気を振り絞り、問いかけた。
「……デルさんは、人を信じないの?」
デルは一瞬だけ目を細め、口角を上げた。
「信じる、とは便利なお言葉。信頼・信用・信心。三つ揃えば強き力にもなりましょう。されど同時に、滑稽・愚劣・脆弱――そうもなり得るのです」
難しい言葉が並ぶ中、どこか楽しげに喋るデル。その様子に結は苦笑した。
「……難しくて、ちょっと分かんないな。でも……誰かを信じたいって気持ちも、人間らしさだと思う」
デルは肩をすくめ、わざとらしく大袈裟に手を広げた。
「ははぁ、なるほどなるほど。お嬢さんは純真無垢でいらっしゃる。理想的、模範的、そして――少々無防備ですな」
――無防備……。うん、確かに私はそうかもしれない。でも、それでも……。
結は焚き火の炎を見つめたまま、小さく笑った。
「……それでも、私は信じたいな。デルさんのことも」
その言葉に、デルは一瞬だけ表情を止めた。
次の瞬間にはまたあの胡散臭い笑みを浮かべて、夜空を仰いだ。
「いやはや……お嬢さん、実に恐ろしい方だ。人を疑わぬ心ほど、扱いやすく、そして壊しやすいものはございませんぞ」
結は意味を測りかねながらも、その言葉の奥に微かな寂しさを感じ取っていた。
焚き火の火はさらに小さくなり、赤い熾火が闇に揺れていた。
結はしばらくの間、炎を見つめながらデルの言葉を反芻していたが、やがて大きく瞬きをして小さく欠伸をした。
「……ふぁ……ごめんなさい。ちょっと眠たくなっちゃった……」
デルはにこりと笑い、どこか芝居がかった口調で言う。
「おやおや、無理をなさっては身体に障りますぞ。お休みなさいませ、お嬢さん。夢見心地、安眠安穏、安らぎを」
「……ふふ、言葉が難しいよ……」
結は目を細めながらも、小さく笑って寝袋に潜り込んだ。
やがて穏やかな寝息が焚き火の音に混じる。
デルはしばらくその姿を見下ろし、静かに息を吐いた。
にこやかな表情の裏で、瞳には鋭い光が宿る。
「……愚かでございますな。こんなにも容易く人を信じるとは。無邪気、無警戒、無防備――まさしく人間の欠点でございます」
口調は相変わらず丁寧だが、吐き出された言葉には冷ややかさが滲んでいた。
それでも、ふと結の寝顔に視線を戻すと、言葉が止まる。
――……馬鹿者め。なぜ、そんな顔で眠れる……。
その一瞬だけ、デルの声から敬語も仮面も消えていた。
だがすぐに口元を歪め、また胡散臭い笑みを浮かべる。
「さてさて、夜は長うございます。眠らぬ者には、考える時間もまた豊富豊潤、豊かなものでございますなぁ」
デルは再び夜空を仰ぎ、火の粉が星に紛れるのを眺めていた。
彼の心中に去来するものを、誰も知る由はなかった。




