10-1.既存表現方法の可能性
コメント欄、感想欄を始めとして、読者の皆様からとても刺激的かつ示唆に富んだヒントの数々をいただきました。読んで下さいました皆様へ、そしてご意見を寄せて下さった皆様へ、感謝を込めて。
仮想現実(VR:Virtual Reality)と拡張現実(Augmented Reality)を用いた“電脳化”の進む先――その未来。
そこで提供されるエンタテインメントに潜む問題とは――? エンタテインメント作品の明日はどっちだ!?
ここに、興味深い問題提起があります。
エンタテインメント(特に実写)にVR技術を導入しようとすると、カメラや撮影者、スタッフが観客から丸見えになってしまうではないか――という話(※1)。
ここでは、今までの表現手法がほぼまったく通用しなくなるのではないか――そういう懸念が挙げられています。
考えてみるに、映画も漫画も“不自由”なエンタテインメントです。なぜなら、観客が視点を自由に変えることできないからです。
では、視点を自由に変えられるというVRエンタテインメントに既存のエンタテインメントは立ち向かうことができるのか? あるいは“電脳化”世界の最先端エンタテインメントはいかなる形であるのか? 今回はそこのところを模索する思考実験。よろしくお付き合いのほどを。
まず先に述べました通り、映画も漫画も視点を自由に選ぶことのできない“不自由”なエンタテインメントではあります。これまでに培われてきた表現技術はその“不自由”さを逆手に取った“魅せ方”の手法の数々であったように思われます。
対して“自由”なエンタテインメントはというと。実は、限定的ながらすでに登場していると、私は考えています――3Dゲームという形を取って。日本におけるその先駆けはアルシスソフトウェアの『ウイバーン』(1986年)『スタークルーザー』(1988年)辺りではないでしょうか(※2、※3)。
その3D空間は中毒者続出、その“自由”さだけで虜にされるファンがいたものです。私もその例に洩れませんが。
その行き着く先、一つの到達点がCrytekの『FarCry』『Crysis』辺りではないかと愚行します(こちらは残念ながら未プレイではありますが)。ある程度のストーリィを持ちながら“自由”をもまた併せ持ち、リアルな3D空間をしゃぶり尽くせるというそのプレイアビリティは、当時の私としては垂涎モノでありました(※4、※5)。
で、それで映画や漫画が滅んだかというと。
4DXであるとかの“リッチ”化という方向性もさることながら(※6)、“不自由”を逆手に取った演出(“魅せ方”)の妙は、トップを走る作品群においてはむしろ冴え渡っているようにさえ思われます。
要は、“無数にある視点・行動の中でもベストの魅せ方はこれでしょう!”という方向性です。逆に、それを提示できない作品は文字通りB級C級と化して凋落の一途を辿っているように思われます。アニメーションを除いた一部の邦画なんかはその極みかと。そのアニメーションにしたって厳しい淘汰に晒されていますが、細田守監督であるとか新海誠監督であるとか、希望を感じさせる才能が台頭してきているのもまた事実です。
ただ、“自由”(プレイアビリティ)に負けまいとする“不自由”(演出)という構図は、互いに切磋琢磨の行き着く果て、累々たる死屍の上に燦然と輝く表現手法を手にしているのではないかと思われます。
……というのも、映画や漫画がこれほど溢れ返っている中でなお、輝きを失わない小説作品があることもまた事実だからです。
小説やエッセイなんて、映画や漫画に比べれば“不自由”なことこの上ありません。ですが、だからこそできることがあるのもまた事実。
例えば、映画化もされた『ジュラシック・パーク』は原作小説の方が間違いなく面白かったと言い切れます。ただし、作者のマイケル・クライトンは自ら映画の監督や脚本を手がけたこともあるという、猛者の中の猛者です(※7)。
映画という比較的“自由”な表現手法を知り尽くした、あるいは深く研究した者だけが到達できる、小説という(“不自由”な)“魅せ方”、という捉え方もできますね。
日本人で同様の例を挙げるなら、例えば福井晴敏先生がそれに当たるのではないでしょうか(※8)。
『亡国のイージス』、『終戦のローレライ』、『戦国自衛隊1549』など映像化作品を数多く描いてきた方ですが、生粋の映画マニアであることはエッセイ『テアトル東向島アカデミー賞』からも明らかです。その中でも群を抜いていると思われる例が『機動戦士ガンダムUC』(※9)。
アニメーション化もされましたが、両方を拝見した私からすれば面白いのは間違いなく小説版の方です(断言)。
“不自由”な表現手法がその“不自由”さを意識した上でベストな“魅せ方”(つまり描写)を模索したなら、下手に“自由”な表現手法に負けずとも劣らないという、これは好例だと思うのです。
ただし、VRやARを意識した小説の表現手法となると、これまた書き応えがありそうですね(笑)。もちろんその代償として、トップを走る作品群の足下に横たわる死屍の数は増えるでしょうが。
そして未来を夢想するのは何も作家だけの特権ではありません。最前線の技術者や学者もまた同類なのです。彼らは今できることを漁りながら、ブレイクスルーを常に模索し続けています。漫然としていたら出し抜かれる点では条件は同じ。いずれも常に切磋琢磨の只中という捉え方もできましょう。
「敵を知り、己を知れば百戦これ危うからず」とは孫子の兵法にある教訓ですが、累々たる死屍の上に立たんとするなら、常に最先端の動向に目を光らせるべきという、これは恐らく教訓ですね。
では、VRとARを駆使したエンタテインメントとはどういう形になるのか。仮想敵とするべきエンタテインメントはどんな姿をしているのか――それについては次項で考察してみましょう。
【脚注】
※1 https://www.noma-film.com/column/767/
※2 http://aaaa8801.fc2web.com/88/88-003.htm
※3 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC
※4 https://ja.wikipedia.org/wiki/Far_Cry
※5 https://ja.wikipedia.org/wiki/CRYSIS
※6 https://ja.wikipedia.org/wiki/4DX
※7 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%B3
※8 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E6%99%B4%E6%95%8F
※9 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%95%E6%88%A6%E5%A3%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0UC
著者:中村尚裕
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