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不可知犯罪捜査官 西園寺四郎  作者: 水浅葱ゆきねこ
柘榴石の涙

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■星 02

 僅かに顔を引いて、助手席の女性を見下ろす。

 実夏は僅かにこちらへ身を寄せ、右手を西園寺の肩に、左手を胸元に触れていた。

 薄いピンクの口紅を引いた唇が、小さく開いている。

「西園寺さん……、四郎さん」

 その、長い睫毛(まつげ)を伏せるかのように、やや目を細め、唇に笑みを浮かべ、見上げてくる。

 西園寺の無骨な手が、無造作に胸元に寄せられた手を引き剥がした。

「あんたは母親なんやろ。こんなことしとったら、あかん」

 ぶっきらぼうに告げられて、一瞬、実夏の表情が強張ったように、見えた。


「母親、ですか。……四郎さんのお母様はどんな方でした?」

「は?」

 しかし突然問いかけられて、間抜けな声を漏らす。

 実夏は変わらず微笑を浮かべているが、茶化すような雰囲気でもない。

「どんな、て……普通です」

「普通?」

 戸惑ったまま口を開くと、そのまま問い直される。少々むっとして、続けた。

「普通ですよ。普通に食わせてくれたし、普通に凍えさせられへんかったし、普通に家ん中にいられた。全部、普通のことやないですか」

「寄り添ってくれた? 受け止めてくれた? 尽くしてくれた? 愛して、くれたの?」

 西園寺の唇は、珍しく嘲りに歪む。

「母親に愛されてないか、なんて悩むんは、高校生までにしとくべきや」

 胸から引き剥がした実夏の手は、軽く掴んでいただけだった。彼女はそっとその手を外し、そして男の頬に触れる。

 愛おしげに。

「安らぎをあげる。寄り添ってあげる。どんな感情も受け止めてあげる」

 頬を撫で、指先が耳の縁をなぞる。

「……どんな、感情も」

 繰り返す声が、僅かに掠れた。

「どんな感情も」

 実夏は笑みを絶やさない。

 肩に置かれた手が、力を籠めた。

 逃がさない、と言うように。

「愛してあげる」

 するり、と言葉が流れ出た。

 指は、男のこめかみの髪に入りこみ、ゆっくりと撫でつけている。

 時折肌に触れる指輪から、金属の冷たさが滲む。

 じっとりとした熱がこもった吐息が、漏れた。


「あのこたちみたいに」



 バックミラーに、森の中からゆっくりと歩み出る人影が、映っていた。




 歩き方はどこかたどたどしい。

 一歩ごとに、上体が揺れ、ふらふらと危なっかしく動いている。

 両手はだらんと身体の横に垂らしたままだ。

 暗がりの中にいて、表情は、感情はよく判らない。

 その人影が、三体。いや、四体。五体。

「何も不安がることはないの。私が、守ってあげるから。誰も、あなたに触れさせない。誰も、あなたを連れていったりしない。私といれば、わたしとずっといれば、幸福(しあわせ)なのよ」

 西園寺が横目で周囲を伺っていることなど気にもしないのか。実夏はその胸にしなだれかかるように身を寄せた。

 どん、と車が揺れる。

 一人が、車のトランク部分に両手をついて、車内を覗きこむように身を乗り出していた。ぎし、ぎし、と、身体を揺らすたびに車が軋む。

 ばん、と他の一人が助手席の窓に手を押しつけた。

 べったりと、泥のような何かが付着して、掌とガラスの間を埋める。

 運転席の窓に。

 フロントガラスに。

 ルーフに何かが乗ったらしい音が響く。

 ここにきて、おおっぴらに西園寺は周囲を見回した。

 ……八体の、人影。

 月と星と夜景の光は、逆光となって、相手の姿は判然としない。

 その身体から何かが垂れ下がり、時折ぼたぼたと落下するのが視認できる程度だ。

「怖がることはないわ、四郎さん」

 その動きをどう思ったか、実夏は宥めるように告げた。

「みんな、優しいこたちだもの。優しい、寂しいこたちなの。あなたと一緒」

 鋭く、息が吐き出された。

 鼻で笑ったのだ、と、実夏は気づいただろうか。

 後ろ手でパワーウィンドゥを操作する。後部座席の窓が、ほんの一、二センチ開いた。

 瞬間、凄まじい臭気が流れこむ。

 西園寺は顔色一つ変えない。

 実夏も、陶然とした表情を崩さない。

 崩れるとしたら、それは。



「次郎五郎。九十郎。存分に、喰らえ」



 ルーフの上にうずくまっていた人影が、横合いから飛び掛ってきた黒い獣に、そのまま地面へと突き落とされた。


 水っぽい、何かが崩れたような、ぐしゃりという音が響く。

 鋭く、実夏が息を飲む。

 黒い獣は、大きく首を振って何かを喰い千切った。

 車を挟んで反対側にいた銀色の獣は、手近なものの脚の腱に的確にかぶりつく。

「いや……、いや、やめて! やめてぇえええええ!」

 目を大きく見開き、絶叫しながら、実夏は西園寺越しに手を延ばした。

 黒衣の男は、ただじっとそれを見下ろしている。

 一転して目の前の男への関心を失い、ただの障害物だと判断したかのように、実夏はくるりと身を翻した。

 がちゃがちゃと助手席の扉を開けようとノブを引き、ロックを外そうと視線を周囲に走らせる。

 だが、この車は特別だ。そう簡単に、ロックを外せはしない。

 その間も、一体、また一体と、人影は崩れ落ちていく。

「やめて、お願い! いや! いやぁ!」

 半狂乱になった実夏を、ただじっと見極める。

 あの二頭の犬は、西園寺が使役する犬神だ。

 彼の命令には絶対服従し、全力を行使し、そして、そう、酷く飢えている。

 実夏は叫び声を上げ、窓ガラスをその拳で叩いていた。

「私の、わた、わたし、の、子供が、坊やが、いや、あ、やああ!」

 そして、西園寺は、そっとその両拳を掴んで、引き寄せた。

「離し、て。たすけて……」

 ぼろぼろと流れる涙を拭うこともなく、弱弱しく呟く。

 西園寺は背後から身を寄せて、囁いた。


「落ち着いて。よぅ()ぃ。あれは、あんたの子供やないやろ?」


「わたし……わたしの、こども、が」

(ちゃ)う。あんたの子供は、ほんの三歳やないか。あんな、下手したらあんたよりも大きい子供やなかったやろう」

「わたしの……わたし、の」

 力なく、いやいやをするように首を振る。

「あんたのたった一人の子供は、どこにおるんや?」

「あのこ……は」

 実夏の両手から、力が抜けた。西園寺の手から離れ、ぱたり、と自分の膝の上に落ちる。


「……あのこは、し、死んでしまった、って」


「……死んだ?」

 かちかちと歯を鳴らしながら、実夏は頷く。

「お義母(かあ)様から電話がきて。預かっている間に、死んでしまったって。もうお葬式も済んで、お(こつ)も、向こうのお墓に入れてしまった、から、って。もう、わたしのところには、帰ってこない、って」

「ほんまなん?」

 拭うことのない涙が、頬をつたってぽたぽたと落ちる。

「ファックスが、お寺の方に、きた、の。し、死亡診断書、と、お葬式の写真と、お仏壇に、写真が飾っ」

 そこで、とうとう、実夏は号泣した。

 ただ一人の、小さくいとけない彼女の子供のために。

 流れ落ちる涙が、指に嵌められた石榴石の指輪に跳ねて、小さく光を反射した。







 母なんて、なにもしてくれなかった。

 吐き捨てるように、彼は答えた。



 お母さんがいたら、こんな感じなのかな。

 照れたように、彼は答えた。



 今更母親を求めるなんて、って怒られましたよ。

 寂しそうに、彼は答えた。



 だから。



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