飯田城攻めの不穏
徳川家が信濃国の飯田城を攻め始めたのは、織田家が木曽福島城の攻城をするより前のことだった。
織田家と異なり農兵を用いているので農閑期でしか戦はできないという理由からだった。
総大将は徳川信康だった。嫡男として箔をつけたいという家康の狙いでもあった。
その補佐として甲斐国から成政が派遣された。総勢一万五千の兵を率いて岡崎城に集結した。
信康が率いる一万の兵と合わせて二万五千で飯田城を攻め落とす。
農繁期までには落とせるだろうと成政は思っていた。
「なるべく兵の数を減らさずに飯田城を攻め落としたい」
諸将が並ぶ軍議にて信康は真っ先に言う。
正しい判断なので成政は口を挟まなかった。
「飯田城の兵糧は少ないようだ。ここは兵糧攻めにしたい」
成政の傍で同席していた武藤喜兵衛は少しだけ感心した。
大軍に任せて一気呵成に攻め落とそうと思わないのは、先ほどの発言と合わせて道理であると思ったからだ。若さゆえの焦りも感じられないのも高評価だった。
「若様。それは少し慎重すぎませぬか?」
苦言を呈したのは石川数正だった。
西三河衆の筆頭である彼は成政が甲斐国にいる間、信康を支えていた。
「飯田城は山城でこれから寒くなる。身体が冷える故、兵糧以外も消耗するだろう。ゆえに兵糧攻めが適していると思うが」
「二万五千の兵を維持するのに多くの兵糧が要ります。それを考えますと力攻めをしたほうがこちらの損害も少ないでしょう」
信康は顎に手を置いて考え込む。
それから「成政。お前はどう考える?」と訊ねた。
「石川殿のお考えはもっともです。しかし若君の兵の消耗を抑えたいというお考えも道理でございます。ならば積極的な兵糧攻めをしてみるのはいかがでしょうか?」
「積極的な兵糧攻め?」
「伊賀者を使い敵の兵糧庫を焼きます。また遠くから矢と鉄砲で斉射して敵方を威圧します」
信康は「なるほどな」と頷いた。
「では明日の朝方から行なおう。成政、忍びの手配を頼む」
「かしこまりました」
「数正、現場の指揮はそなたに任せる」
石川が頷くと「これにて軍議を終わりとする」と信康は宣言した。
諸将が解散する前に「成政と数正、そなたらは残れ」と信康に呼び止められた。
武藤が気を利かせて去ろうとするのを成政は「あなたも残ってくれ」と言う。
「若様。こちらの者を紹介してもよろしいでしょうか?」
「ああいいぞ」
「武藤喜兵衛殿です。信玄公にも認められた戦略眼を持つ優秀な武将です」
武藤は「お初にお目にかかります」と頭を深く下げた。
「成政が認める男だ。良き武将なのだろう。励んでくれよ」
「お任せください」
「それで我らを呼び止めたのは何用でしょうか?」
数正の問いに「少し気になる噂を聞いた」と信康が困惑した顔になる。
「私が上杉家と通じているという噂だ」
「なんですと? そのような虚言、誰が流しているのでしょうか?」
「出処は分からぬ。しかし織田家には広まっているようだ」
成政は「明らかに上杉家の策略でしょう」と断言した。
「気にする必要はありません。むしろ弁明などしたら余計に疑われます」
「私もそう思う。だがこういう虚言があると伝えておきたかった」
信康は改まって成政たちに言う。
「上杉家は姑息な策略を使う。軍神と名高い謙信だが……さほど上品ではなさそうだ」
「ははは。そのとおりですね!」
成政は笑い、石川も同様に笑ったが、武藤だけは神妙な顔をしていた。
信康の冗談がつまらなかったわけではない。
虚言が織田家に広まっているということが気にかかったのだ。
もしも徳川家と織田家の仲違いを狙っているのであれば、今のところ成功していると言える。それ自体は脅威ではあるが順当な結果である。
しかし織田家に虚言が広まっているという事実を信康が知っていることが問題なのである。
普通は信康の耳に入れない。弁解ができるからだ。
考えられるのは信康の耳に入るほど織田家で広まっているか、わざと信康の耳に入るようにしているのか……前者はありえない。信康は岡崎城主であり普段は後方支援に徹しているから織田家と接触する機会が少ない。であるならば誰かが意図的に流したのだ。
「…………」
ここで武藤が陪臣であることが悪い結果をもたらした。
徳川家の次期当主である信康に話しかけることができないのである。
よしんばできたとしても問い方が難しい。うわさは誰から聞いたのかと率直に言えればいいが無礼に当たる。
武藤は後で成政に話そうかと思案した――けれども、その考えが吹き飛ぶことが起きた。
「御免! 一大事でございます!」
本陣の中に伝令の声が響く。
信康が「何事か!?」と甲高い声で言う。
「北方から軍勢が来ております!」
「敵の援軍であろう。別段、騒ぐほどでは――」
「旗印を見るかぎり、上杉家本軍でございます!」
その言葉に全員が立ち上がった。
「本軍!? つまり、あの男が来ているのか!?」
信康の顔が真っ青になる。
成政と石川、武藤もまた血の気が引いてしまう。
「軍神上杉謙信が、この飯田城に迫っていると申すか!?」
◆◇◆◇
飯田城は今、かつて信濃国を支配していた小笠原の一族が守っていた。
その城主に据えたのは謙信である。救援を求められれば助けないわけにはいかない。義に厚い武将ならば尚更だった。
「あの武田信玄と渡り合った謙信が来る……成政、どうすればいい!?」
初陣を果たしているとはいえ、まだ経験の浅い信康は目に見えて動揺していた。
成政は「まずは状況を確認しましょう」と静かに応じた。
「敵の軍勢や編成、率いる武将の数、兵糧の備え。私の忍びで調べさせます」
「頼むぞ……!」
信康は落ち着かない様子で親指の爪を噛んだ。
家康の同じ癖だ――成政はなんだか嬉しくなった。
「武藤。忍びたちに指示を出せ。私が言った以外の事柄でも必要だと思えば追加で出していい」
「承知しました」
武藤が陣中から出て行くと「よほど信用しているのだな」と石川が不思議そうな顔になる。
「お前は人を信用しないと思っていた」
「ははは。そう思われますか?」
「自分より上か下かで判断するとも思っていた……まあいい。それよりもだ、この状況どうする?」
情報を得る前に成政の考えを知っておきたいのだろう。
別段、せっかちというほどでもなかったので「おそらく大物見だと思われます」と成政は答えた。
「越後国は雪で行軍ままならぬはず。であれば信濃国から集めた兵で進軍しておりますが、未だ心服していないので軍勢は少ないでしょう」
「おお、そうか。ならば良い」
話を聞いていた信康が安心したようにため息をついた。
「しかし相手は上杉謙信。油断は禁物でございます。兵を手足のように操るのに長けている男ならば少ない軍勢でもかく乱することは可能です」
そこまで言ったとき「御免」と武藤が陣中に入ってきた。
「どうした? もう分かったのか?」
「何故か上杉家が引き上げたとの知らせが入りました。今、それを確認するようにと指示を出しました」
「なんだ……驚かせおって」
信康は喜んでいるが、成政は少し違和感を覚えた。
大物見にしては意味がなさすぎる。
もしかして、軍神には別の思惑があるのかと疑いを持ってしまう。
それから何度か上杉家本軍の旗印が現れたが、結局は戦うことはなかった。
初めのうちは警戒していた信康も次第に慣れていく。
一方、成政だけは神経をとがらせていた。油断を誘う策かもしれなかったからだ。
結局のところ、飯田城が落城するまで上杉謙信は現れなかったのである。
しかしこの一連の出来事は徳川信康を追いつめることになる。
そして成政もまた、地獄を見ることになる。




