自分がいた証
「若様はとても優秀なお方だ。徳川家の未来は明るいぞ」
「へえ。てめえが褒めるなんてよほどの出来物なんだな」
利家が岐阜城に訪れたとき、つまり戦勝祝いで成政と会った際、徳川信康について話を聞いていた。二人は森乱丸が出した茶菓子をつまみながら渋茶を啜っている。他には誰もいない。森長可は所用があると言って出て行き、乱丸は外で控えていた。
「不敬な言い方だが、私が育てたと言ってもいい。そのくらい愛情を注いできた」
「愛情ねえ……主君の息子にそこまで入れ込むのか。らしくねえんじゃねえか?」
「ふん。主君から託された若君に入れ込まないのが私らしいのなら、喜んで否定させてもらおう。文武両道、品行方正のご立派な方だ。岡崎城主としても十二分に努めていらっしゃる」
ゆったりとした仕草で渋茶を飲む成政に「らしくない、って言うのはそういうことじゃない」と利家もまた否定した。
「なんつーか、昔からそうなんだが、お前は人を軽んじているところがある」
「そうか? あまりこういうことを言いたくないが、お前のことすら軽んじたことはない」
「その前置き要るか? ……どうも人を俯瞰して見ている気がするんだよ」
その指摘に成政は「俯瞰?」と繰り返した。
「ああ。将棋の駒のように人は一定の方向にしか動かないと決めつけている感じがしたんだ」
「……それはない。人は将棋の駒より複雑怪奇だ」
「今のはたとえだ。だけど……うまく言えねえや。悪りぃな」
やや乱雑に利家は茶菓子を食らう。
そんな彼の言葉に心がざわつくものを成政は感じた。
「お前だって人だ。他人に無条件で愛情を注ぐこともあるだろう。それが敬愛している主君から託された息子だったら尚更さ。だけどよ、過度に入れ込むと――とんでもないことになりそうな気がするんだ」
「それはお前の勘か?」
「俺の勘だ」
「お前の勘はよく当たるからなあ……」
利家は「別に入れ込むなって話じゃねえんだ」と首を振った。
「育ての親として応援したい気持ちもあっていい。だけど――俺はちょっとだけ恐れているんだ」
「聞こうじゃないか」
「何があってもおかしくない戦国乱世で、もしも徳川家の若君が戦で命を落としたら、お前はどうなるんだろうな」
その言葉を噛み締めて、ゆっくりと頷き、それから成政は「そんなことはさせない」と決意に満ちた顔になった。
「若様は後方支援の岡崎城にいる。戦場に出ることはない」
「……そうだな」
「それに私が阻止する。若様を戦場の露になどさせるか」
覚悟と決意に満ちた言葉だったが、利家の心は不安が募っていく。
勘でしかないが、成政が信康を大切に思えば思うほど、危ういことが起きそうだ。
どうしてそう思うのか、利家はその理由を知らなかった――
◆◇◆◇
加賀国を平定した柴田勝家が率いる北陸方面軍の一部が、信濃国を攻めることになった。
春を過ぎた頃である。北陸はまだ積雪があり進軍はできないが、美濃国と接している信濃国の木曽福島城は攻められる。信濃国における上杉家の勢力が弱まれば今後の北陸への侵攻を容易くできるだろうと信長は考えたのだ。
それと前後して武田家当主だった武田勝頼が死んだ。
名も無き雑兵に殺されたらしい。下手人もその場で殺されたので誰に命じられたのか、それとも当人の判断なのかは不明である。おそらく上杉家の策略であると断定されたが、真偽は分かっていない。
また武田家家臣団は混乱のさなか、討たれた者も多かった。行方が不明な者もいる。
勝頼に殉死した者もいる。以前、成政と交渉した長坂釣閑斎である。奸臣ではなく忠臣として名を遺した。
さて。信濃国を攻める北陸方面軍の一部に利家も加わっていた。前田家の家臣団と共にまず、岐阜城に集まり攻め入る準備をしていた。その面々には佐脇良之もいた。
利家は佐脇に挨拶でもしようかと彼に宛がわれた城内の部屋に向かった。他家へ行ったとはいえ、血のつながった弟である。
「良之、いるか?」
「ああ、利家さんか。入っていいぜ」
佐脇は折り目正しく書見台で本を読んでいた。
利家は「読書していたのか」とふすまを閉めて無造作に座った。
「孫子だよ。それより何の用だ?」
「一緒に上杉家攻めるから挨拶に来たんだよ。最近話せてなかったからな」
「そうか。ありがとう」
利家はそこで違和感を覚えた。
こちらから出向くのは珍しいことではない。
しかしその度に「わざわざ来ても何出ないぞ」と皮肉を言うのが常だった。
「……昔から読書好きだったな」
「うん? そうだな……」
どこかうわの空だなと利家は思いつつ、外にいる佐脇の小姓に白湯を持ってきてくれと頼む。
小姓がいなくなると「どうかしたのか?」と利家は訊ねた。
「別にどうもしない……いや、もう読書やめるよ。すまなかった」
「お前が俺に謝るのも珍しい。調子でも悪いのか?」
心配する声に佐脇は「良かろうが悪かろうが戦には集中する」と本を閉じて利家に向かい合った。
どこか成政のような雰囲気を利家は感じた。
まるで汚い仕事をしようとするような――
「そういえば、殿が新しい城を建てるそうだ」
佐脇が話題を出してきた。
「へえ。どこにだ?」
「近江国。それで岐阜城はご嫡男の信忠様にお譲りするそうだ。家督も譲るらしい」
「本当か? 隠居……しないよな?」
「今まで通り、殿が差配する。家督を譲るのは武田家のことを鑑みてだ」
せっかちな殿らしいなと利家は苦笑した。
数瞬、間が開いてから佐脇が「なあ利家さん」と切り出した。
「あんたは織田家のためなら――どんなことでもするのか?」
「やるだろうな。本当に織田家のためになるのなら」
「ずいぶんと含みのある言い方だな」
佐脇は少しずつ、険しい顔になっていく。
「もしも織田家のためにならないとなれば、俺はしないだろうな。たとえ殿の命令でも」
「切腹になってもか?」
「お前も知っている通り、俺は十阿弥を斬って死罪になりかけた。だけど殿の恩情によって追放で済んだ。だから殿の信頼は裏切れない」
「さっきの返答と矛盾すると思うが」
「まあ待て。俺が納得できない主命だったら、殿を諫めるために切腹する。ま、やりたくないと言って取り下げてくれたのなら生き続けるけどな」
佐脇は複雑そうな顔になる。
はたして自分は信長にそこまで信頼されているのか。
そして自分がそこまで信長を信頼しているのか。
「なあ良之。何に悩んでいるのかは分からねえが……」
「いや。大丈夫だ。確かに俺は悩んでいるが、やるしかないことはやる。それしかない」
利家はその物の言い方にも違和感を覚えた。
「おいおい。変な覚悟決めているわけじゃねえよな」
「実を言えば殿に主命を授かっている。正直、気が進まない。でもやるしかないと分かっている」
「それは織田家のためか?」
「出世のためでもある。俺はな利家さん。一国一城の主になりてえんだ。偉くなって佐脇良之って男が戦国乱世で確かに生きていたって証を残したいんだよ」
一概には笑い飛ばせない佐脇の野心。
それが痛いほど伝わった利家は何も言えなかった。
兄としてやめろと言えたら良かっただろう。
しかし今は立場がある。幼い頃とは違うのだ。
「これだけは言っておくぞ、良之」
利家はいつかの成政を思い出しながら佐脇に助言した。
「織田家のため、出世のため、一所懸命に働くのは悪いことじゃねえ。人の道にさえ外れなければな」
「…………」
「外道になっちまったら何にも残らねえ。それだけ覚えておけ」
佐脇は何も言わずに頷いた。
それで分かってくれたと利家は信じた。
◆◇◆◇
利家は己の家臣と木曽福島城を攻めた。
総大将は織田信忠である。定石を守りつつ無理攻めしない攻城をした。
だからしばらくの間、利家は戦場に釘付けとなった。
木曽福島城の城主が降伏したのはその三か月後である。
その後、岐阜城に凱旋した利家の耳に驚愕の知らせが届いた。
徳川家が織田家との同盟を破棄するとのことだった――




