是非欲しい
「どういうことか説明していただけるか――佐々成政殿」
躑躅ヶ崎館の一室。
苛立った様子で成政に詰め寄っているのは、北条家の使者である北条氏規だ。
一方、成政は至極冷静のまま「説明も何もありませぬ」と応じた。
「我が領地を整備しているだけですよ。別段、北条家にご迷惑をかけることはありません」
「整備? 軍備の間違いではないのか?」
関東武士の例に漏れず、月代を剃っていない髷は見る者をざわつかせるほど勇猛だったが、いかんせん線の細い若者である氏規には威厳がなかった。あと数年歳を取れば一廉の武将になれると成政は断じていた。今はまだ老獪さが足りない。
「甲斐国をより良くするには街道を整備する必要があります。それ以外の他意はございません。何度訪れようが、何度問われようが答えは一緒です」
「その街道とやらが明らかに関東――我らが領地に向かっているのだが」
「我が殿と氏規殿は駿府で交友されていました。つまり私にとって大事なお方ですよ」
あからさまな言い様に氏規はふん! と鼻を鳴らす。
どうやら内心では成政のことを信用していないようだった。
北条家の同盟国だった武田家の領地を奪ったのだからそう思われても仕方ないのだが。
「甲斐国が豊かになれば関東もまた潤いましょう。それに徳川家と北条家は今や同盟国。いきなり攻め込んだりしませんよ」
「はたして、信用できるかどうか。武田義信が謀反を起こしたのは貴様の扇動があったとの報告が上がっている」
「風魔衆ですね。良き忍びを抱えていらっしゃる」
「否定しないのか?」
「否定しようがしまいが意味はありません。何を言おうと――氏規殿は決めつけているご様子ですから」
暖簾に腕押しな反応に氏規はさらに苛立つ。
年下ではあるが北条家を代表する使者だ。そんな自分を小僧扱いしている。それが気に食わない。
無論、氏規が苛立って冷静な判断ができぬように成政は交渉している。
今までの経験から狡猾になってしまった。
「とにもかくにも、私の領地をどう整備しようが北条家には関わりないことです。お引き取り願いたい」
「……ご当主はあなたを信用していない。もちろん、この私もだ」
捨て台詞を吐いてゆっくりと立ち上がる氏規に「それは残念ですね」と成政は肩をすくめた。
「私は北条家の方々と仲良くしたいのです。甲斐国の安寧のためにね」
「貴様が余計な野心を抱かなければ――フリだけはしてやってもいい」
氏規が去ったのを確認すると成政は評定の間に戻る。
政務の途中だったからだ。中に入ると大蔵長安、可児才蔵、本多正信と井伊虎松が待っていた。
「殿。北条の方は何を言いに来たんですかい?」
長安が真っ先に訊ねると「因縁をつけに来た」と端的に言いながら成政は上座につく。
「街道の整備が北条家を攻めるためと。まったく目が利くお方だ」
「ひどいですね。私たちにそんな気はないのに」
虎松が甲高い声で非難すると、一同はどう反応したものかと黙り込む。
敏感に空気を察知したのか「ど、どうかなさいましたか?」と虎松は不思議そうな顔をする。
「お前は井伊家を継ぎ、徳川家家臣として働く身だ。ならば先のことを見据えなければならない」
「佐々様。それは分かっておりますが……」
「それを踏まえて、この状況を考えてみよ」
虎松が黙って考え込む――ハッとして目を見開いた。
「まさか、北条家を攻めるつもりですか!?」
「そうだ。しかしもう少し考えてみよう」
「……今ではなく、将来攻めるおつもりですか」
元服していないとはいえ優秀な頭脳を持つ虎松に「お前は賢いなあ」と才蔵は感心している。
「俺だって最近、気づいたんだぜ。まったく、殿は腹黒い」
「人聞きの悪いことを言うな。甲斐国を豊かにするのも整備の理由だが――いずれ北条家を攻めるときに必要になるだろう」
あっけに取られる虎松だが、戦国に生きる者として成政の考えは正しいと思い直した。
「信濃国がまだ上杉家の手中にありますから、北条家を攻めるのは後になるでしょうな。ただ下準備はしておきましょうということですね」
正信がそうまとめると成政は満足そうに頷いた。
「さて。今回集まってもらったのは他でもない。甲斐国と信濃国の国境で小競り合いが起こっている。おそらく武田家の残党だろう。治安が悪化する恐れもある。いい加減解決したい」
成政が議案に話を戻すと「黒羽組を使って制圧できないか?」と長安が才蔵に訊ねた。
「大蔵の兄さん、そいつは難しいぜ。そりゃ相手は二百ぐらいだけどよ。その分、行軍速度が違う。捕捉しようにもいつ襲ってくるか分からないし、こっちが出陣したときには煙のように去っていく」
「隊を分散させれば良いのですが、こちらの損害が酷くなります」
虎松も同意すると「ならば罠を仕掛けるしかありませんね」と正信が腕組みをした。
「敢えて隙を見せて誘い込み、一網打尽にする……」
「言うが容易く、行なうが難しってやつに思えるけどな。殿、どうしますか?」
「今、善兵衛に残党の首領が誰かと探らせている。もうすぐ報告が上がるはずだ」
成政がそう言ったと同時に天井から紙が舞い降りた。
才蔵と虎松が刀に手をかけるのを制して、成政はゆっくりと紙を開く。
「武藤喜兵衛……? 聞いたことないな」
「ああ。武藤喜兵衛殿ですか。あっし、知っております」
ぽん、と手を叩く長安は得心いったとばかりに頷く。
「あの方ならば簡単に襲撃を成功できますね」
「ほう。それだけの人物ということか」
「ええ。なにせあの真田幸隆殿のご子息ですから」
真田幸隆の名を聞いて成政は思わず立ち上がった。
一同は何があったのかと顔を見合わせた。
それほど成政は動揺していた。
「そうか、そういうことか。くそ、なんで気づかなかったんだ。武藤喜兵衛のことは知っていたではないか」
「と、殿。どうかなさったんですかい?」
長安の心配そうな声を余所に、成政はその場を歩き回る。
奇妙なふるまいに虎松は「どうしたんですか?」と才蔵に耳打ちする。
「たまにああいう風になるぜ。俺が初めて会ったときもぶつぶつ呟いていた」
「そうですか……」
成政は「その武藤喜兵衛と話がしたい」と皆に言った。
「真田家の人質はいるか?」
「武藤家ではなく、真田家ですか? ええ。先ほど名が挙がった真田幸隆殿の奥方がいます」
「解放しよう。路銀を持たせて信濃国へ向かわせろ。いや、その前に書状を書く」
正信は怪訝そうに「何をなさろうとしているのですか?」と疑問を呈した。
「もちろん、武藤喜兵衛殿を味方に引き入れる」
「そんなこと、可能でしょうか? 武田家に忠義が厚いと聞きますが」
「交渉次第では受け入れてくれるだろう」
何か考えがあるなと長安は思ったので「何か策でもあるんですか?」と問う。
「皆には悪いとは思うのだが……」
成政はバツの悪い顔になった。
いつもと様子が違うなと思う一同。
「関東へ攻め入るのは少し延ばすことになる。優先するべきは北信濃国だ」
「南信濃国ではなく? どういうことですか?」
「北信濃国の真田の領地を奪い、武藤喜兵衛をそこの領主とする」
これには一同驚いた。
そこまでして味方につける必要があるのだろうか?
「殿、本気なのですか?」
「ああ。真田の奥方にも説明しよう。筆と紙を持ってきてくれ。文面は私が考える」
まだよく分かっていない一同に対し、成政は「私を信じてくれ」と言う。
「武藤喜兵衛殿は私だけではなく徳川家に必要な武将だ。是非欲しい。何が何でも欲しい。さすれば天下は徳川家のものとなるだろう」




