不穏な主命
「婿殿は優秀な男だった。徳川家の将来は安泰だな」
成政と信康が帰った後、信長は朗らかに感想を述べた。
それを聞いているのは利家と数名の小姓だ。
「まあ成政の野郎が教育したと聞いています。あいつは性悪だけど教え方は上手ですから」
「素直に褒めれば良いではないか」
「これでも褒めています……それで殿。主命は何でしょうか?」
上座にいる信長は上機嫌そうに「そう急かすな」と笑った。
「早くまつの元へ帰りたいのは分かるがな」
「それもそうですが……焦らされるのはあまり好きじゃないんですよ」
「越前国を制圧した後は加賀国を目指す。その戦略を話したい」
「はあ……今この場でですか?」
柴田勝家がいる場ではないのに、話していいのかと利家は首を傾げた。
信長は「府中三万三千石を治めるのだ」と改まった口調になる。
「勝家の与力ではあるが、独自の判断を任されるときもある。知っておくべきだろう」
「なるほど……」
「当面の敵は上杉家だ。かの家は信濃国を獲ってから勢いづいている」
かつての信濃国の大名である小笠原家や村上家を再興し、信濃国の支配を進めている。
武田勝頼がが南信濃国の諏訪に勢力を保っているが、風前の灯火と言ってもいい。
「織田家の方針として、北陸と信濃国を同時に攻め込む。利家、お前は大名となった身だ。活躍を期待したい。勝家を助けてやってほしい」
「……そのぐらいなら手紙でも済んだ話ではないですか?」
信長はにやりと笑って「そうだな」と認めた。
何が何だか分からない利家。
すると「席を外せ」と小姓たちに信長は命じた。
疑問を挟まずに素早く退座する小姓たちがいなくなったのを見計らってから信長は「実のところだが……」と話し出す。
「俺の婿、徳川信康……あれは出来た男だ。流石に成政が鍛えただけはある」
「それは先ほど――」
「いずれ、織田家にとって厄介な存在となるだろう」
唐突な発言に利家は何も言えなくなってしまった。
信長はにこやかだった顔を引き締めて「我が嫡男、信忠よりも器が大きい」と言う。
「徳川家は今や四カ国を治める大大名だ。その上信濃国まで獲られたら手に負えん」
「……俺に何をしろって言うんですか?」
「汚い仕事を頼みたい。内容は引き受けた後に申す」
利家は一瞬、何と応じればいいのか分からなかったが、次に思い浮かんだのは卑怯という言葉だった。
「殿。それは道理にそぐわないことです。俺は軽々に頷けません」
「……まあお前ならそう言うだろうな」
「俺以外の武将に命じてください。それは止めません」
「止めないのか?」
ゆっくりと腰を上げながら「何を考えているのかは分かりませんが」と険しい表情を利家はした。
「俺も大名になる男です。汚い仕事は好みませんが、綺麗事を言えるほど純粋じゃないんです」
失礼します、と利家は言ってその場から去った。
しばらく一人っきりで考え込んでいた信長だったが、柏手を打って小姓を呼んだ。
「誰か、佐脇良之をここへ――」
◆◇◆◇
「まつ。越前国へ向かう準備は整ったか?」
「ええ。万事問題ありません」
岐阜城の城下、前田家の屋敷にて移転の準備をし終わった利家とまつは、庭先で家臣と共に遊んでいる嫡男の犬千代の様子を見ていた。
まだ十三才の子供だが体格は大きく、幼いときの利家を感じさせる。
精悍な顔つきから良い武士になるだろうと利家は思っていた。
「まつ。例えば知人が大事にしている子供を殺せと言われたら、お前はどうする?」
「……誰に命じられたかによりますね」
夫婦の会話として相応しくない内容だった。
しかしまつは、どうしてそんなことを聞くのだろうとは言わなかった。
「もしも、人質を取られて命じられたのであれば従うでしょう。利家や犬千代、他の子供たちの命が危うければ――私はやります」
「…………」
「利家はきっと、やらないでしょうね。私や子供たちの命と引き換えでも」
非難しているわけではない。
冷たい男だとなじっているわけでもない。
真っすぐに生きている利家にはできるわけがないとまつには分かっていた。
「俺はまつたちのためなら何でもする覚悟はあった。でもな、俺にもやっちゃいけねえ一線があるんだ。はっ、さんざん人を殺してきた分際で何を言っているんだと思うんだけどな」
「利家らしいですよ。だから私は惚れたんです」
「……ありがとうな。こんな俺にここまでついてきてくれて」
利家は他の武将と違って、妻への感謝を常日頃から口にしていた。
しかし、何故かこの時の感謝は痛みを伴うものだった。
賢妻であるまつは気づいていた。だから、利家の手を握った。
暖かな体温は冷え切った利家の心をほぐすようだった。
利家はこのとき、成政に忠告することができた。
信長が信康を排除しようとしていると手紙に書くことも、直接言うこともできた。
しかしそれをしなかった――自分が断った時点で思いとどまってくれたと判断したからだ。
今までの経験上、信長はできると見込んだ者に主命を下していた。
おそらく利家以外にできないと踏んで、主命を下そうとした。
そう考えてしまったのだ。
もちろん、主命の内容を知らされる前に断ったことで、具体的に何をすればいいのか利家自身分かっていない。そんな状態で成政にどう忠告すればいいのか判断がつかなかったこともある。
加えて信長の信康に対する害意を成政に伝えるのは、今後の関係にヒビが入るとも考えた。
だから言わずにおこうと利家はまつの手を握り返しながら決めた。
けれども、その決断が今後の織田家、いや利家と成政の運命を決めてしまうことになる。
そうとは知らずに、利家は「父上! 見てください!」と寄ってきた犬千代の相手をしていた。
「おお。大きな虫だな。よく見つけたじゃねえか」
「母上も見てください! 立派なコオロギですよ!」
「私は虫が嫌いなので……」
戦と戦の合間、穏やかな家族の時間が流れる。
時が緩やかになればいいのにと利家は静かに思う。
これから激動の時代が起こることを利家は知らない。
そのきっかけは放たれた矢のように進んでいることも。
的中すれば火薬庫に引火するが如く、皆を巻き込む爆発になることも。
利家は知らないのだった――




