凱旋
「成政! ようやってくれた! これで徳川家は救われた!」
武田信玄を討ち取った翌日、家康自ら成政を浜松城にて出迎えた。
家中の危機を救ったとはいえ、この対応は度が過ぎていた。
しかしそれを諫める者はいない。それほど武田信玄の首は価値がある。
「もったいなきお言葉。恐悦至極でございます」
対して成政は沈着冷静だった。
というより大きなことを成した後の虚脱感が強かった。今すぐにでも休みたい気分でいた。
だが休んでいる暇はない。武田家に奪われた城や砦を取り返す必要があった。
「殿、私は急ぎ武田家の兵を追討したいと思います。混乱している今が好機でございます」
「ああ。酒井に任せている。そなたはゆっくり休んでおれ」
「良いのですか?」
家康は「当たり前だろう」と鷹揚に笑った。
「信玄入道を討つことより大きな手柄はない。それにこれ以上の手柄を立てられたら、褒美を払いきれぬ」
「ふふ、それは殿を困らせることになりますね」
言葉に甘えて成政は城内で休むことにした。
黒羽組の面々に労いの言葉と彼ができる限りの褒賞を渡した後、城の一室で休んでいると「佐々殿! やりましたな!」と榊原康政が興奮した面もちで入ってきた。その隣には本多忠勝もいた。二人とも具足姿だが怪我はしていないようだ。
「おお。榊原殿、本多殿。ご無事でしたか」
「俺らの心配より、自分の成したことを誇ってください! 本当に、凄いですよ!」
康政の様子が上向きにおかしいのに苦笑して、成政は「ありがとう」と礼を言う。
「あなたたちのおかげでもある。黒羽組の編成を手伝ってくれなかったら、とてもじゃないが討てなかっただろう」
「そう言われると照れますね……ほら、忠勝も何か言えよ!」
ずっと黙っている忠勝を康政は促す。
すると忠勝は「……どうしてだ?」と静かに訊ねる。
「うん? どうしてとは?」
「あの状況で武田信玄を討てたことだ」
康政は質問の意図は分からなかったが、成政は忠勝が抱いている疑念を理解できた。
「あらかじめ、知っておかねばあの武田信玄の背後は突けない。佐々殿はどうやって知った?」
「忍びを使った……そうは考えられないか?」
康政は言ったものの自分でもおかしいと思っている。
何故なら武田家も忍びを使う。だからこそ、忍びを警戒するに決まっている。それは康政も重々承知していた。
そう考えると成政が信玄のいる本陣を捕捉できたのはおかしい――
「……全ての策を教えるわけにはいかない、という答えは不満か?」
「ああ、不満だ……不自然とも言える」
忠勝の返答に眉をひそめる成政。
「不自然ってどういうことだ?」
「今までの佐々殿なら丁寧に教えてくれるはずだ」
「私にも説明できることとできないことはある……」
不穏な空気が部屋に広がる。
見かねた康政が「もういいじゃないか、忠勝」と待ったをかけた。
「佐々殿にも言えないことがあるのだろう。それを無理やり聞くのはどうかと思うぞ」
「……佐々殿。俺はあんたのことを信じたい」
無口な忠勝が言葉を尽くしていた。
その事実は成政も重く受け止めている。
「同じ主君に仕える身だ。隠し事はやめてほしい」
「ならば本多殿。あなたは私が何を隠していると思うのだ?」
その言い方は何か隠していると誤解されてもおかしくない。
それでも成政が言ったのは――忠勝に対する誠意だった。
「それが分かれば苦労は要らない。だが……もし佐々殿が支えきれないほどの隠し事ならば、一緒に背負わせてほしい」
「な、なにを……?」
その言葉は成政に衝撃を与えた。
もしも他の徳川家の武将――本多正信や榊原康政、家臣の大蔵長安や可児才蔵から言われても衝撃はそこまで受けなかっただろう。
だけど、無骨な三河武士である忠勝から言われたのだ。
それは妻から悟られたと思っている成政の弱った心をすくい上げるものだった。
「俺なんかでは、不十分だとは思うが……」
「すまない。本多殿には言えぬ。それどころか誰にも言えぬことなのだ」
拒絶したわけではない。
自身の秘密である未来知識を持っていることは絶対に明かせない。
しかし忠勝の男気に報いるにはこちらも心を尽くさなければならないと成政は思ったのだ。
「武田信玄を討ったことに関して、徳川家の不利益になるような事実はない。だが偶然ではなく計算だったことは認めよう」
「佐々殿……」
「すまない。私が言えることはそこまでだ」
その一連の話を聞いていた康政は「もういいだろう、忠勝」と彼の肩に手を置いた。
「佐々殿が武田信玄を討ったのは事実。そして大手柄を立てたことも事実。それ以上、追及しても意味はない。むしろ無礼に当たるだろう」
「……分かっている。俺も自分が恥ずかしいことをしているとな」
そんな二人に成政は微笑んだ。
それは存外、たおやかな笑みだった。
「二人とも、私を気遣ってくれているのは分かる。本多殿が言うことも、榊原殿が押さえてくれることも、ありがたく思っている」
居ずまいを正して成政は「私の隠し事は口が裂けても言えないが、お二人に約束しよう」と宣言した。
「私は徳川家を天下に誇れる武家にする。つまり我が殿を天下一の主君にする」
「て、天下一……」
「そして私は天下一の家臣となる……少し言い過ぎたかな?」
忠勝と康政は息を飲んだ。
徳川家は駿遠三を治めているとはいえ、天下を望むまでは考えていない。
だが成政は天下を見据えて動いている。
その度量の大きさに驚いていた。
「……悪かった。佐々殿を疑うようなことを言って」
忠勝は頭を下げた。
それどころか自分が恥ずかしくなった。
徳川家のために一所懸命に働いている成政に疑念を抱くのは間違いだと思った。
「俺は佐々殿と一緒に戦う。徳川家の天下のために」
「おいおい、忠勝。一人で格好つけるな。俺も一緒に戦うさ」
康政もまた成政の在り方に感動していた。
隠し事に興味はあったが、それを聞く気はもはやなかった。
「ありがとう。御ふた方、本当にありがとう」
成政は穏やかな笑顔で頷いた。
これで万事上手くいくと思った。
◆◇◆◇
「なに? 武田家の残党が三河国で騒ぎを起こしていると?」
一夜明けた後、成政の元に報告が入った。
何でも五百の敗残兵が城下町を荒らしているとのことだった。
すぐさま岡崎城主の信康が鎮圧したが、思いのほか被害が出てしまったらしい。
「殿、どうする? 俺が様子見てこようか?」
可児才蔵が気を遣って言うが「私が見に行く」と成政は腰を上げた。
「少し気になるしな。それに信康様の手柄も称えねばならぬ」
「じゃあ俺も行くよ。噂の組頭補佐の顔も見たいし」
「そうか。では行くか」
軽い気持ちで三河国に行くこととなった成政は、家康の許可を得て出立することにした。
黒羽組も率いての凱旋も兼ねていた。道々で百姓が彼らに感謝していた。武田家の狼藉を防いだのもある。
「ようやく平和になったなあ。みんないい顔しているぜ」
百姓に貰ったお礼の団子を食べつつのん気に笑う才蔵に「ああ、百姓が国を支える基礎だ」と成政は同意する。
するとこちらに馬で迫る者がいた――大蔵長安だ。
黒羽組は警戒するが「安心しろ、私の家臣だ」と言う。
しかし何故か長安は供を連れずに焦った表情だった。
「殿! 良かった、行き違いにならなくて!」
近くまで来た長安は馬を止めた。
挨拶が無くどこか余裕のない顔をしている。
「どうした長安。お前、三河国で――」
「殿! 屋敷が襲われました!」
その言葉に成政は目を剥いた。
隣の才蔵も息を飲む。
「屋敷は、私の屋敷か!?」
「そうです! 奥方が――」
胸騒ぎがした。
そしてそれは的中することになる――




