紅蓮の炎
成政が武田信玄を討った――その知らせを聞いた織田家が驚天動地する中、利家はやったなあいつと感慨深くなった。
当たり前だが討ち取るとは思いもよらなかった。けれどもできるわけがないとも思わなかった。複雑な感情だが、成政ならば何か大きなことをやるだろうと予感はしていた。周囲が真実かどうか議論しているが、利家は確信を得ていた。
「利家さん! あんたの好敵手、とんでもないことしやがったな!」
ざわつく岐阜城の廊下で利家に話しかけたのは佐脇良之だった。
その隣にいる毛利新介と服部小平太はやや興奮した面持ちで何度も頷いている。
「ああ。すげえよ。正直、震えが止まらねえ」
「これで織田家も安泰だな! 窮地から逃れられる!」
今まで不安だったのだろう。森可成などの名将や兵力を失っているのもあり、織田家には不安が広まっていた。それを吹き払うように武田信玄の死が知らされたのだ。
「あの成政が大手柄を上げるなんてな!」
「若い頃から知っている俺たちにしてみれば感慨深いぜ……」
新介と小平太は遠い昔を思い出している。
利家もまた、尾張国統一を目指していたあの頃を懐かしく思っていた。
「失礼します。殿が前田様をお呼びでございます」
皆で騒いていると信長の側近である堀秀政が現れ、利家に告げる。
利家が怪訝そうに「殿が俺を?」と問う。
「さっき兵の調練の報告を済ませたばかりだぜ?」
「言い忘れたことがあるとのこと。急ぎ来てください」
ああ、殿も成政のことを聞いたのかもしれねえなと利家はにやりと笑った。
あの成政が大手柄を上げたのだ。そのことを語りたいのかもしれない。そう思った利家は「分かった。行こう」と皆と別れて堀と共に向かった。
部屋まで通された利家は、堀が作法に則って開けたふすまから入る。
しかし信長はおらず、どういうことだと堀を見ると「しばらくお待ちください」と言われた。
まあ俺もまだ興奮しているからちょうどいいなと利家は座って待つ。
「利家。呼び出して悪かったな」
さほど時間も経たずに信長は奥の間から現れた。
落ち着いた利家が平伏すると「楽にしていいぞ」と上座から信長は言う。
「他の者は下がれ」
そばにいた堀と小姓たちは指示通りに部屋を出る。
利家はここで何か胸騒ぎがした。
信長の表情が険しかったからだ。
成政が信玄を討ったことが吹き飛ぶような重要なことを言われそうな予感――
「成政が信玄入道を討ったことは聞いているな」
「ええ。城内それで騒いでいますから」
「お前だけには話しておかねばならぬことがある」
信長は意を決したように、あるいは迷いを振り払うように、存外爽やかな口調で利家に言う。
「俺は比叡山を討とうと思っている」
「…………」
「将軍の義昭が裏で糸を引いているようだ。しかし今将軍と敵対するわけにはいかない。それに将軍を廃位するのも多くの血が流れる。協調するしかないのだ」
「それが、比叡山を討つ理由になると?」
「ああ。信玄が死んで将軍は頼る者はいない。順々に敵を倒していけば、いずれ歯向かうことはなくなるだろう」
「成政が信玄を討った今だから、動くのですか?」
「そのとおりだ」
そう言われても、信長の考えは、利家にはよく分からない。
とんでもない内容を、覚悟を決めた男の顔で宣言した。
それだけで、利家は――
「俺は、殿に従います」
「であるか。お前は俺の非道な行ないを許すのだな」
「許すとかではありません。比叡山を討つということは、僧を斬ります。はっきり言って俺はそんなことをしたくないです」
利家の脳裏に親しい間柄の僧である沢彦の顔が浮かんだ。
以前、かの僧から人を殺すことの罪深さを学んでいる。
懐かしさを胸に秘めて、利家は信長に応じた。
「それでも、殿のためなら、この手が汚れても構いません」
「……俺はお前が反対すると思っていた。僧侶を斬るなどいけないことだ、良くないことだと説得するのだと思っていた。どういう心境の変化だ?」
「可成の兄いのため……とか言ったら怒られますかね?」
信長は目を細めて「あやつは比叡山の僧に攻められて殺された」と事実を述べた。
「その復讐というわけか?」
「そんなんじゃありません。殿が天下を取るためなら、どんな犠牲を払っても成し遂げなくちゃいけないんだと思ったんです」
利家は渇いた笑顔のまま、言いたいことを言う。
「俺は馬鹿だから比叡山を討つってことの重大さは分かりません。でも僧兵もいるけど真面目な僧もいる……そのくらいは分かっています。だけど討たなければ天下が取れないのなら討つべきです。そうじゃないと兄いの死が無駄になります」
「だからこそ、可成のためにと言ったのか」
「理由にしたら兄いに怒られそうですが……あの世で怒られればいいです」
信長は目の前の利家を一人の男として再評価した。
いつの間にか、猪突猛進の侍大将ではなく、立ち止まって考える思慮を見せるようになった。こちらの意図を汲んで言葉を選んでいるのも印象深かった。
「利家、戯けたことを申すな。怒られるのはお前だけではない」
「殿、それはどういうことですか?」
「怒られるときは一緒だということだ」
信長の険しい顔が徐々にほころぶ。
最後にはいつかのガキ大将のときのような爽やかな表情になった。
「覚悟はとうに決まっていたが、それを確固たるものにしてくれた。感謝いたす」
◆◇◆◇
それから一か月後。
信長は三万の軍勢を率いて出陣した。
美濃国からの道中、一向一揆の拠点を制圧していく。そして比叡山の南方の麓に陣を敷いた。
出陣の理由は伏せていたが、付きそう武将たちは察していた。
比叡山を討つのが目的だと、皆が分かっていた。
横山城の城番である木下藤吉郎もまた従軍していた。
赤母衣衆を率いている利家に「それがしたち、地獄に落ちるのかな」とこぼした。
「さあな。地獄が本当にあるんなら落ちるんじゃねえか」
「利家は……本当に強いな」
「強がっているだけだぜ。それに震えるより奮ったほうがマシになるしよ」
柴田勝家に言われたことを思い出す。
大事な人の顔を思い出して、身体の震えを消して心を震わす。
「安心しろよ。俺がお前の分までやってやる。後方で――」
「馬鹿なことを言うな。それがしもまた、武士になったのだ。殿の命令には従う」
藤吉郎は笑った。
虚勢に過ぎないのだけれど、利家はやっぱり藤吉郎はすげえなと思った。
「それにだ。友に負担をかけるわけにはいかない。それがしも直接指揮を執る」
「お前には敵わねえな、藤吉郎」
さて。信長が諸将を集めて本来の目的、つまりは比叡山を討つということを告げると当然反発が起きた。
誰だって僧は斬りたくはない。ならばと信長は交渉に現れた僧を自ら斬った。
「皆の者。俺が最初に僧を斬った。そして命ずるのもこの俺である」
信長は血に濡れた刀を比叡山に向けた。
その迫力は覇王に相応しい。
「全ての罪を俺は背負う。だから安心して――殺せ」
兵はその言葉を信じた。
諸将もその言葉に騙されようと思った。
利家は元より一緒に背負うつもりだ。
狂気が煮詰まった殺戮が行なわれた。
悪僧はもちろん殺された。
善僧も無抵抗に殺された。
女子供も無慈悲に殺された。
比叡山全ての人間は命を落とした。
その中で利家は多くを殺した。
率先して兵たちよりも殺した。
赤母衣衆の誰よりも殺してしまった。
本堂で読経している僧たちがいると兵に報告された。
利家が何かする前に、藤吉郎が命じた。
外から火をつけろと――
紅蓮の炎が人々を焼く。
利家は美しいとも穢れてるとも思わなかった。
この光景を生み出したのは自分だと分かっていた。
だから最後まで見届けようと思った。
こうして比叡山は滅んだ。
信長は天下布武を進めることができた代わりに、魔王と呼ばれるようになった――




