記憶だ
その頃、カルマはフィルスの元を離れ、森の奥地へと足を踏み入れていた。
そこには、幾重にも積み上がった魔獣の屍。その頂に立つ、小さな影。
返り血に濡れた少年――カルマだった。
「……もう少しなんだ」
フィルスに言われた“剣の重さ”を掴むため、カルマはただひたすら魔獣を斬り続けていた。
恐怖も、躊躇も、迷いも――すべてを振り切るように。
だが、身体は限界を迎えていた。
何度目かの眩暈が視界を揺らす。
「……っ」
足元の屍に踏み外し、身体がぐらりと傾いた。
「うわっ――」
視界が反転する。
血の匂いと、冷たい空気。
そして、闇。
******
目を開けると、そこは見覚えのある家の中だった。
懐かしくて、どこか遠い場所。
「よう」
声に顔を上げる。
そこに立っていたのは、自分と同じ顔をした青年。
前と同じ空間。だが、あの優しく笑う女性の姿はなかった。
「……思い出したか?」
「いや……わからない」
「そうか」
青年は小さく息を吐く。
「君の名前は?」
「俺か?」
一瞬、言葉を探すように視線を落とし――
「……リョウタだ」
「リョウタ……?」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
知っている。
何度も呼ばれた名だ。
忘れていたはずなのに、消えなかった名。
「リョウタ……君は、一体誰なんだ?」
「もうわかるはずだ」
青年は、まっすぐカルマを見る。
「俺が、誰なのか」
「……君は」
喉が震える。
「僕、なのか?」
その瞬間。
視界が白く弾けた。
流れ込んでくる記憶。
自分であって、自分ではない日々。
見知らぬ街。高い建物。夜でも明るい道路。
制服。電車。スマートフォンの光。
そして――
小林涼太という少年の人生。
__________
雨の音が、静かに部屋を打っていた。
「涼太、ご飯できたよ」
優しい声。
「いらない」
短く、冷たく返す。
「今日は涼太の好きなおかずなんだけどな」
「いらないって言ってるだろ」
少し強くなる声。
母は怒らない。
責めない。
ただ、微笑むだけだった。
「そっか」
その声音には、責める色がひとつもない。
まるで、全部知っているかのような穏やかさ。
「最近、学校大変?」
「別に」
「そっか」
それ以上踏み込まない。
問い詰めない。
「涼太が元気なら、それでいいよ」
胸の奥がざわつく。
「分かったようなこと言うなよ」
本当はそんなこと言いたくなかった。
けれど、素直になれなかった。
母は、ほんの少しだけ目を細める。
「うん。分かってないよ。
だから、いつか教えてね」
急かさない。
縛らない。
ただ待つ。
その優しさが、どこか怖かった。
母は優しかった。異常なほどに。
怒らない。否定しない。
どれだけ冷たくしても、受け入れてしまう優しさ。
だから甘えた。
時間はまだあると、勝手に思っていた。
――あの日を最後に。
その声を、二度と聞くことはなかった。
言えなかった言葉。
返せなかった想い。
それだけが、胸の奥に焼きついている。
*******
カルマは目を覚ました。
森の地面に膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「……僕は、生まれる前……」
違う世界にいた。
それは確信だった。
だが、妙に冷静だった。
小林涼太の記憶は確かに自分の中にある。
だがそれでも――
今の自分は、カルマだ。
ただひとつ、強く残っているものがある。
後悔。
夢の中で優しく笑っていたあの人は――
自分の、母だった。
胸が締めつけられる。
不意に、バトロフとティリエの顔が浮かぶ。
「……ちゃんと、親孝行しないとな」
ぽつりと呟く。
それは過去への悔いであり、今を生きる決意だった。
冷たい地面が、熱を奪っていく。
カルマはそのまま、静かに目を閉じる。
血と土の匂いの中で、深い眠りへと落ちていった。




