第八話
夜ご飯のあと、S002とエルウィンは、再びヨハンの部屋に来ていた。マズル警部も一緒である。
遺体や遺書、デスクに散らばっていた焼アーモンドなどは、すでに警部と中尉によって片付けられており、さっき来たときよりもよりいっそう、殺風景な部屋になっていた。
「でもどうして、お嬢さんは、ヨハンがスパイじゃないって分かったの」
本棚に並べられている本を手に取りながら、エルウィンがS002に尋ねる。コートや帽子が掛けられている玄関周辺を念入りに調べながら、S002は
「少尉、君はあの状況を見て、変だと思わなかったのかね」
と逆に聞き返した。
「違和感って」
「まず、自殺する人間が、わざわざ焼きアーモンドに毒を仕込むなんて面倒なことをすると思うか」
「……しないな」
腕を組んで、部屋の隅に寄りかかっていた警部が答えた。S002もうなずく。
「それに引き出しの奥から見つかったレポートも実に妙だ」
調べ終わったS002は、ヨハンが突っ伏していたデスクのところまでくると、一番下の引き出しをガラッと開けた。澄んだグレーの瞳が、空になった引き出しの中をじっと観察している。
「少尉、君がスパイだとして、わざわざレポートを二部用意して、一部をこんな鍵もついていない引き出しに無防備にいれておくか」
エルウィンははっとした。
「ううん、見つかったら嫌だし、僕ならそもそも一部しか作らない」
S002は引き出しを閉める。
「それから最も妙なのは遺書だ。マズル、あの遺書は白衣のポケットに入っていたというが」
「そうだが」
「君は、これから死ぬというときに、タイプライターで打ったばかりの遺書を、わざわざポケットに入れて死ぬのか」
「……」
おかしいことに、警部も気づいたのだろう。真剣な顔をして黙り込んでしまった。
「つまりヨハン・バイヤーの自殺には、不自然なことが少なくとも三つもあるってことか」
「いや」
納得するエルウィンにS002が小さく首をふる。
「四つだ。あの遺書の文章も、ヨハンが書いたものにしては不自然極まりない」
「え、どういうこと?」
S002は、答えなかった。ベッド脇の本棚の前に来て、じっとある段を見つめている。
「お嬢、どうした」
本棚の前に立ったきり、動かなくなったS002のそばに、警部もエルウィンも集まった。その本棚は、先ほど彼女が読んでいた日記帳のあった棚だった。
「誰か、この本棚の本を触ったか?」
「いや」
S002の端正な顔の眉間にしわがよる。
「本の並び順が、さっきと異なっている」
「えっ」
エルウィンも注意深く本棚を見るが、びっしりと手帳が敷き詰められており、とても一冊なくなっているようには見えない。
「気のせいじゃないの?」
「いや……」
S002の灰色の瞳が、右から左に並ぶ背表紙を注意深く追っていく。まるで、感知器のような視線だった。
「これだ」
やがて、そうつぶやいて、ベージュの背表紙の手帳を抜き取る。中を見ると、まだ何も書かれていなかった。
「このベージュの手帳は、さっきはなかったものだ。そしてさっきまであった、茶色い表紙の日記帳がなくなっている。犯人は、一度この部屋に戻ってきて、茶色の日記帳をもっていったのだろう。マズル、合鍵を持っている人間はチェックしているのか」
「ああ、この部屋の合鍵はカシュニー主任が持っている。ここの研究所の主任はみんな、自分の研究チームの研究者が住む寮の合鍵を、持っているものらしい。だが、カシュニー主任が犯人なら、こんなふうに自分が最も疑われる方法はとらないだろう」
「同感だな」
エルウィンはヨハンと話した日の記憶に思いを馳せた。天真爛漫な、屈託のない笑顔を浮かべていたヨハン。焼アーモンドが好きだといっていたヨハン。
「……好きな食べ物で殺されちゃうなんてなぁ」
つい、心の声を口に出てしまう。
「好物だったらしいですね、あの若い研究者は、焼アーモンドが。ほかの研究者たちの話では、彼の白衣のポケットには、いつも小袋にはいった焼アーモンドがあったそうです。かわいそうに。真犯人にすり替えられたのでしょう」
警部の言葉で、焼アーモンドの入った小さなビニール袋を握り締めたまま絶命していた姿を思い出したエルウィンは、脳裏にフラッシュバックした記憶をかき消すように首を振った。太陽のように輝く短い金髪が、さわさわと揺れる。
「好物といえば――」
警部が思い出したようにまた口を開く。
「バイヤーは、この近くにいきつけの洋食屋があったようですね。店主の話じゃ昨日の夜も、その店でいつも注文するチキンを食べたそうです。それで、食べ終わった後しばらくして、なにやら血相変えて、普段は見もしない新聞を熱心に読み始めたかと思えば、真っ青になって店を飛び出していったとか」
「彼が読んだのは、『新ソテラノ新聞』か? それとも『ソルテラン政府機関誌』か?」
S002が尋ねた。
「『新ソテラノ新聞』だよ、お嬢」
警部の言葉に、S002は「ふむ」と短く答えただけだった。世界各国の新聞を毎日読んでいる彼女の脳内には、おそらく昨晩の『新ソテラノ新聞』のページが、鮮明に蘇っているに違いなかった。
「しかし『イアン・シュランク』っていうのはどこの誰なのだか」
タバコの煙を吐きながら、警部は苛立たしそうに言った。
「『イアン・シュランク』か」
低い小声でぶつぶつとくりかえしながら、S002はまた考えに耽りはじめる。
「たしか、『イアン』はつづりが珍しいほうだったよね」
S002の肩越しにのぞき見た遺書に綴られていた名前を思い出しながら、何気なくエルウィンは指摘した。その言葉に、思考の沼に落ちていたS002がふと顔を上げる。
「珍しい?」
「うん。あの遺書に書かれていたのは、IanじゃなくてEanだった」
「イアン。Ianではなく、Ean」
エルウィンも警部も、考え込むS002を静かに見守る。
「イアン・シュランク。Ean Shrank。そうか、もしかしたら」
はたから見ているエルウィンにはなにが『そうか』でどのあたりが『もしかしたら』なのかがさっぱり分からない。ふと、警部のほうを見やると、傷跡のある強面の顔で静かにうなずいて見せた。
「こういうときのお嬢は、もう少しでなにか掴むところまできています。邪魔をしてはいけません」
「そうなんですか」
「ええ」
S002は、レースの施されたワンピースのスカートを花のように広げてしゃがんだまま、その場から動かずにただ名前を繰り返していた。ときおり、床に指でなにかを書いてみては、違う、とか、うーん、とかうなっている。
そして5分ほどしたころだろうか。
「そうか、そういうことか」
突然、すっくと立ち上がった。
「え、なに、なにか分かったの?」
「ああ。今回の事件の犯人は、分かった。『イアン・シュランク』の正体も」
「誰なんだ?」
マズルが興奮を隠し切れない太い声で訊く。
S002は首を振ると
「まだ、言うべきときではない。なぜなら証拠がないからだ。証拠のない推理は、どんなに論理が通っていても結局はあてずっぽうに過ぎない」
「じゃ、その証拠みつけなきゃ」
「待て」
今にもどこかに駆け出そうとするエルウィンを、S002は静かに制する。
「おそらく、犯人は証拠を残すような真似はしていない。曲がりなりにもイギリスから送り込まれたスパイだからな」
「だから?」
先の言葉を促すエルウィンに、S002はそのあまりに整いすぎた顔に冷たい笑みを浮かべると答えた。
「罠を張ろう」




