第七話
ヨハンの部屋から戻ってきたエルウィンとS002は、またバルコニーへ戻ってきていた。何事もなかったようにチェスをはじめるS002とは対照的に、エルウィンは少なからず動揺していた。花柄模様のカップに淹れられたコーヒーを飲みながら、放心したように外の景色を眺めている。
エルウィンには、どうしてもヨハンがスパイだとは思えなかった。カフェで人懐こく話しかけてきたヨハンとスパイという言葉とが、どうしても結びつかない。もちろん、スパイだと見破られないのが優秀なスパイなのだろうが、それにしても、だった。どうしても心のどこかで彼はスパイではないと異を唱える自分がいる。単に、エルウィンが勝手に、そう信じたいだけなのかもしれなかったが。
「なんでなんだろう……」
誰に言うわけでもなく、エルウィンは呻いた。
傍らで、無言でチェスボードの上で駒を動かしているS002が、エルウィンの言葉にチラッと視線を向ける。
「だって、あんなに裏表がなさそうだったのに。なのに、スパイだなんて」
はぁー、と重いため息をついて、頭を抱える。
S002が、白のクイーンを動かして黒のナイトを取っていた。そしてすこし考えてから、黒のビショップで白のルークを取る。白の駒を動かし、黒の駒を動かし……。どちらに肩入れするわけでもなく、あくまで両方互角で戦わせている。
「――彼はスパイではないよ」
唐突に、S002が言った。
えっ、と驚いて顔を上げると、灰色の瞳はチェスに向けられたままだった。
「スパイじゃないの?」
動揺するエルウィンとは対照的に、面倒くさそうにS002は口を開くと
「ああ、彼は嵌められただけだ。真犯人に」
とあくび交じりにそう答える。
「じゃあ、まだ本物スパイはこの研究所にいるってこと?」
「そういうことだな」
顔を引きつらせるエルウィンに対して、S002はどこまでも他人事だった。木の椅子の上で、まるで猫のようにしなやかに背伸びをするとテーブルの上に置かれたホットココアに手を伸ばす。さっき、エルウィンが淹れたホットココアだった。
「誰なの?」
けだるそうに紅茶を飲むS002に、エルウィンは詰め寄る。S002はうっとおしそうに眉間にしわを寄せた。
「さあ」
「そんな、だってこのままじゃヨハンの無実が……」
「しかたがないだろう。彼は嵌められたのだから」
突き放すような物言いに、エルウィンは驚愕の眼差しをS002に向けた。非難するようなエルウィンの青い瞳に、S002はすこしたじろぐ。
「なんだね。マズルが言っていただろう、『被疑者死亡で本部に報告する』と」
「そうだけど……」
「大体、誰がどこのスパイかなんて、わたしには関係ないし、興味もない。それに君だって、軍人であって刑事ではないだろう」
「でも、このままじゃヨハンが裏切り者のままじゃないか。それに、スパイがまだ生きているなら、お嬢さんにだって危険が――」
「もしも私の頭の中の物に危険が生じたなら」
S002は、小さな青白い右手で拳銃の形を作ると、それを自分の眉間にあてて言い放った。
「そのときは、ここを狙え」
とても自分自身のこととは思えない自暴自棄な言葉を、いとも簡単に言ってのける無表情のS002にエルウィンは愕然とした。これまでの護衛たちだけでなく彼女もまた、自分自身を『人間』ではなく『装置』としてみなしていることを、エルウィンは察した。手術を受けてから今日まで、『人間』としてではなく『軍事装置』としてただ日々を生かされてきた彼女にとって、そうすることでなんとか自分を守ってきたのだろう。無理にでもそういうふうに思わなければ、被験者にされた挙句に記憶を消され、自分の本当の名前も忘れたまま、いつ死ぬか分からない恐怖と独り孤独に戦い続けることは、できなかったのだろう。
けれど――。
「そんな悲しいこと、言わないでよ」
うつむきながら発したエルウィンの悲痛な声に、黒のクイーンに手を伸ばしていたS002が動きを止めた。困惑した表情を、軍服姿の『護衛』に向ける。
「お嬢さんは、物じゃないんだよ。どんな軍事装置が埋められていても、お嬢さんは、人間なんだよ」
S002は、なにも言わない。いや、言えないのかもしれない。うろたえた表情を浮かべて、隣に座る年上の軍人を見つめている。
「いつでも死ぬ覚悟ができているようなことを言うけど、本当は、まだまだ生きたいでしょう」
エルウィンの言葉を黙って訊いていたS002の表情に、やがて恐怖のような表情が浮かびはじめた。
「昔の新聞を読んでいるのだって、失った記憶を、必死に埋め合わせようとしているからなんじゃないの」
「やめろ」
それは、震える、とてもか弱い抗議の声だった。
エルウィンが顔を上げると、S002はただでさえ青白い顔を蒼白にし、真珠のように白い小さな歯をカタカタと鳴らしていた。こわばる自分の身を守るように、両腕を強く抱きしめている。めくれた袖口から見える細い腕には、昔の実験の痕跡と思しき無数の注射痕が残っている。
「わたしは『特別被験者S002』なのだよ。この王国の軍事装置なのだよ」
自分自身に呪文をかけるように、必死にそう繰り返す。
「ちがう、お嬢さんは――」
「それ以上知ったようなことを言うな!」
それは、S002が初めて他人に見せる、感情的な姿だった。
エルウィンの前で、灰色の瞳に涙をいっぱいに溜めるその様子は、片時も離れずにつきまとう死の恐怖と、一方的に架せられた不条理に怒る、年相応の女の子らしい姿だった。
「自分の親も、故郷も、名前すらも分からず、いつ頭の装置が壊れるか分からない恐怖と戦いながら、この棟に閉じ込められ続ける苛立ちが、君に分かるか! 君たち『護衛』に毎日毎日監視される不快感が、君に分かるか!」
泣きじゃくりながら、S002はずっと胸のうちに封印してきた感情を吐き出す。
――なぜ自分は両親を憶えていないのだろう。
――なぜ自分の名前すらも憶えていないのだろう。
――なぜ自分だけが自由に外に出られないのだろう。
――なぜ自分は被験者にされたのだろう。
――なぜ自分だけ死の恐怖と戦わなければならないのだろう。
――なぜ……。
どれも、ずっと誰かに言いたくて、言えなかった気持ちであり、そしてたとえ言ったところで、無意味なことだった。だからこそ、必死に気づかないふりをして、心の奥底に二度と浮かぶことのないよう沈めた気持ちだった。
目の前で初めて感情を爆発させて涙を流す少女を、エルウィンは静かに抱きしめた。記憶にある限り抱きしめられたことのない少女は、驚いて目を丸くしている。
エルウィンの両腕のなかで震えるS002は、本当に華奢だった。すこし力をいれすぎれば、バラバラに折れてしまうのではないかと不安になるほどに、か細く、儚い女の子だった。
「僕は、守るから」
『護衛』の言葉に、S002ははっと息をのんだ。記憶にある限り、彼女にそんな言葉をかけてくれた者は、これまで誰一人、いなかった。
「一人の女の子としてのお嬢さんを、絶対に守るから」
エルウィンは、灰色の髪の少女を抱きしめたまま続けた。静かな、けれど真剣な声で。




