第六話
ヨハン・バイヤーの部屋は、こぎれいに片付けられていた。小さなタンスとベッドが部屋の隅に置かれ、その隣から壁を埋め尽くすように置かれている天井まで届く高い本棚には、どの棚にもぎっしりと本が敷き詰められている。タイトルから察するに、物理学や化学の本もあったが、圧倒的に多いのは生物学の本のようだった。
ちょうどエルウィンの目の高さくらいの本棚には、敷き詰められた本の前のすこし余った場所に、故郷と思しき時計塔の映る町並みの写真や、友人や家族と思しき者たちと一緒に映っている写真が立てかけられていた。
そして――玄関から入ってすぐのところに置かれているデスクに突っ伏す形で、白衣を羽織ったヨハンは苦痛に目を見開き、死んでいた。デスクの上には、タイプライターや、倒れて中身のこぼれたペンたて、時計が置かれており、その周りには彼が生前好物だと言っていた焼アーモンドが散らばっている。
「死因は毒物による中毒死です。おそらく、この焼アーモンドに毒が仕込んであったのでしょう」
手袋をはめたマズル警部が、デスクに散らばっている焼アーモンドを指して言った。
「彼は、どういう人物だったのですか」
中尉が、ヨハンの遺体を発見したというカシュニー主任とハンスに尋ねる。ヨハンの研究チームの主任を務めていたカシュニー主任は、信頼していた者に裏切られた怒りに、一方ハンスはスパイだったという事実を受け入れられない戸惑いに、表情を歪めていた。
「熱心な研究者でした。国費留学で来たと言うのも頷けるほどに、真面目な研究者でした。ドイツ語の間違いだけは直りませんでしたが……。でも、きっと全て彼の演技だったのでしょう」
「正直未だに、私は信じられません」
「この男がスパイだったという証拠はあるのか」
重たい雰囲気の漂う部屋で、ふいに、S002が極めて冷静な口調で訊いた。カシュニー主任とハンスが一瞬、声の主を探した。そして、噂でしか聞いたことのない特別研究棟の女の子に驚いて、彼女に注目する。
「白衣のポケットから、遺書が見つかっている。ほら、お嬢」
警部が、ビニール袋に入った遺書をS002に手渡した。
<Ich habe Sorteland verraten also büße ich meine Schuld. ――Ean Shrank>
「『わたしはソルテラン王国を裏切ってしまった。その罪を償う。イアン・シュランク』」
S002の隣で、すこし膝をかがめてエルウィンがタイプライターで打たれた遺書を読み上げる。
「ほんとに、スパイだったんだ……」
「机の引き出しの奥からも、『N』宛のレポートがいくつか見つかっています。ヨハン・バイヤーがロベルト・リーゼンとつながっていたスパイ『イアン・シュランク』だと見て、間違いないでしょう」
S002から遺書を受け取りながら、警部は断定的に言った。ハンスはショックが大きいのだろう、顔を蒼白にしてうつむいている。
「この男を発見したとき、部屋はどういう状況だったのだ」
S002が本棚の低い段に詰められていた茶色い皮の手帳に目を通しながら、また尋ねた。小柄な背の後ろからエルウィンも膝をかがめてのぞきこむ。手書きのドイツ語がびっしりと綴られているそれは、どうやらヨハンの日記帳らしかった。
「ドアには鍵が掛けられていた。そして窓も、内側から施錠されていた。ピッキングの痕跡も調べたが、鍵穴は傷一つない綺麗な状態だ。カシュニー主任が合鍵でこの部屋を開けるまでに、だれかがこじ開けた形跡もない。争った形跡もない。よって自殺だ、お嬢」
そうか……とS002は低い声でつぶやいた。
警部は、中尉に向き直ると
「本部へは被疑者死亡で報告しますが、よろしいですね、フランツ中尉」
「ええ、問題ありません。軍へはわたしから報告します」
中尉の言葉に、警部は頷く。それから、パンとその分厚い手を叩くと、
「では、後はこちらでひきとります。カシュニー主任とアンカーさんは、お戻りください。お嬢とシュティフター少尉も、戻っていただいて構いません」
気まずく、重たい雰囲気を背負ったまま、カシュニー主任とハンスは無言で部屋から出て行く。
「お嬢さん、僕たちも戻ろう――お嬢さん?」
S002は、難しい顔をしてヨハンの日記帳をぐいぐい読み飛ばしていた。エルウィンの声は、届いていないらしい。
「お嬢さん」
「――ああ」
日記帳に没頭していたS002は、エルウィンに肩をポンポンとたたかれてようやく顔を上げた。それから、手帳を本棚に戻すと、エルウィンに促されるままに、部屋を後にしたのだった。
「あの少尉は、頑張っていますか」
エルウィンたちが部屋を出て行った後、遺体とともに部屋に残った警部が中尉に話しかけた。タイプライターや焼アーモンドなどの証拠品を、手袋をはめた手でビニール袋に入れていく。そしてそれを、中尉がやはり手袋をはめた手で、押収用のバッグにしまっていた。
「彼は、真面目で熱心な軍人です」
「さすがは、シュティフター中将のご子息、ですね」
警部もうなずいた。
陸軍のエドムンド・シュティフター中将といえば、先の大戦を経験した人間なら誰でも名前を知っている。オーストリア=ハンガリー帝国軍を相手に激しい戦いを強いられた、エヴァンの戦いの功労者だった。
ソルテラン王国では、士官学校を卒業した後の階級は本人の家柄の階級と士官学校での成績によって決められている。先の大戦でソルテラン王国を勝利に導いたシュティフター中将は、その功績が認められ、戦後、伯爵の位を国王から賜った。エルウィンは、首席卒業という成績に加えて、父親のその身分により、一等兵ではなく少尉の位を与えられている。
「確か、シュティフター中将にはもう一人ご子息がいらっしゃいましたよね」
「イヴェルト・シュティフター大尉です。大変勇敢で聡明な軍人でした」
「では彼は、優秀な軍人一家の将来有望な次男というわけですね」
「ええ」
言葉とは裏腹に、中尉の表情はどこか浮かない顔つきである。
「なにか問題でも」
先ほど、生真面目な顔つきでS002に寄り添っていた軍服姿を思い出しながら、警部は尋ねた。
「彼は、少々優しすぎるところがあります」
「優しすぎる?」
「ええ」
押収用バッグに全てを詰め終えた中尉は、すっと立ち上がった。
「彼は、どうも『S』に寄り添いすぎるところがあるようです。ここへ来てから、彼は一度も、S002をその名で呼んでいません。おそらく、少女である彼女を記号名で呼ぶことに抵抗があるのでしょう」
「わたしからすると、簡単にあの子を記号で呼べるほうがおかしいと思いますがね」
警部はすこしむっとしたようで、素直に気持ちを言葉にした。
中尉苦笑いを浮かべると
「あなたはそうおっしゃるでしょう。でも我々は、あなたとは違います。軍人です。それも、情報部隊の人間です。使い方次第で800万人の国民の命を脅かすことのできる『S』の脳内の装置と、ひとりの少女である『S』の命とを、天秤に掛けなくてはなりません。だからこそ、わたしも護衛たちも、みな『S』とは距離を保って接してきました。少女を守るのではなく、あくまでも『軍事装置』を守るのだと自らに言い聞かせてです」
移植手術の後からずっと護衛係に就いている中尉の表情に浮かんだ苦悩の表情をみて、警部はむっとした表情を緩め、代わりに、やれやれと重たいため息をついたのだった。




