第五話
白衣姿の男は、いつもの店で、夕食をとっていた。
その店は、チキンのグリルを一番の売りにしており、男の周りの席で食事を取る人々も、ほとんどがグリルを食べていた。
男は、お気に入りのソースのかかった大きなチキンを、丁寧にナイフとフォークで切り分けながら、黙々と口に運んでいく。口の中いっぱいに広がる甘辛い味が、大好きだった。
グリルを食べ終わり、満ち足りた気持ちを噛み締める男は、店内の端に置かれている雑誌やら新聞やらが置かれている棚から、やはりいつものように旅行の情報誌を一冊手に取ると、席に戻りぱらぱらとページをめくり始めた。研究所に戻ったらもう数時間作業をしなければならなかったので、このひと時は、貴重な休憩時間だった。
仕事終わりの人たちでにぎわう店内には、ラジオからニュースが流れていた。女のアナウンサーの流れるようなドイツ語が、ラジオを通してBGMのように流れている。
「……次のニュースです。昨日の午前0時過ぎ、ソテラノ市内で逮捕されたロベルト・リーゼン容疑者が、先ほど警察の取調べの最中に、死亡したことがわかりました。警察によりますと、隙を見て隠し持っていた毒薬で自殺したとのことです。なお、男の手荷物からは、ソルトラン王立科学研究所の内部資料と思われる報告書が見つかっていることから、警察は引き続き……」
『この夏のロンドン旅行』のページを懐かしげに眺めていた男は、ラジオスピーカーから発せられた聞きなれた単語を耳にすると、思わず顔を上げた。あわてて棚のところへ行き、一番上に無造作に置かれていた夕刊を手に取る。『反乱軍、アンダルシアへ侵攻』の見出しが一番上に踊っている一面を、隅々までざっと見たあと次の紙面をめくり、目的の記事を探していく。
やがて、探していた記事を見つけると、男は食い入るように文面を読み始めた。新聞記者が気合を入れてつけたと思われる大仰な見出しのすぐ下には、ロベルト・リーゼンの顔写真も載っていた。
男の顔から、血の気が引いていく。
記事を読み終わった男が真っ青な顔で店を走り出ていくとき、男の着ている白衣裾がひらっと翻り、ポケットの中で小粒の何かが振られるような軽い音がした。
――翌日。
朝食を済ませたエルウィンは、いつものように、赤い絨毯の敷かれた階段を上がり、S002のいる二階のバルコニーへと向かった。S002は朝食を食べ終わったばかりらしく、可憐な花柄模様のティーカップに入ったホットココアを飲みながら、手に持っているなにかの写真をぼんやりと眺めていた。ときおり、朝のひんやりとした風が吹いて、彼女の色素の薄い灰色の髪や、刺繍の入った白いブラウスの襟を揺らしている。ラウンドテーブルには、ソルテラン、ソヴィエト、ドイツ、フランス、イギリスの新聞が置かれており、日付はどれも1920年7月11日付だった。
「お嬢さん」
エルウィンは、彼女のそばやってくると、遠慮がちに話しかけた。『お嬢さん』という呼び名は、エルウィンが必死に考え抜いた末のものだった。
「ここ、座ってもいい?」
「……かまわないが」
灰色の瞳が、一瞬だけエルウィンにむけられる。警部のときのように呼び方を嫌がられるかと思ったが、彼女はとくに何も言わなかった。エルウィンは静かに椅子をひくと、すこし緊張しながら隣に座った。
S002が見ていたのは、飼育ケースに入れられたネズミのモノクロ写真だった。大人の拳大のネズミが、ガラスケース越しにこちらを向いているところを撮ったものだ。
「それ、なに?」
エルウィンは、じっと写真を見つめている少女に、遠慮がちに話しかける。
「見れば分かるだろう、ネズミだ」
写真を見つめたまま、そっけなく少女は答えた。どうやら、警部だけでなく誰に対してもぶっきらぼうな話し方らしい。
S002はしばらく黙っていたが、ふとエルウィンの視線がずっと向けられているのに気づくと、ゆっくりとエルウィンのほうを見てその精巧な西洋人形のように美しい顔を、不快そうにゆがめた。
「なんだ」
「いや、あんまり真剣にその写真をみているから、大事なネズミだったのかなぁとおもって」
エルウィンの言葉に、S002は小さな吐息をついた。
「これは実験体のネズミだ。ほら、よく見ろ」
エルウィンは、S002から写真を受け取ると、赤黒いつぶらな両眼をこちらに向けているネズミを見た。ガラスケースのすみには『S001』と書かれたシールが貼ってある。
「これって……」
「わたしと同じ手術を受けたネズミだよ。もう死んでしまったがな」
エルウィンから写真を返してもらいながら、S002は感情のこもらない淡々とした声で答えた。それから視線を、バルコニーの向こうの景色に向ける。彼女の視界の先には、話の内容とはかけはなれて鮮やかな、明るい色とりどりのバラや草花、噴水などの庭の景色が広がっていた。
S002は、写真を丁寧に四つ折にすると、ドレススカートのポケットに入れた。
「わたしの頭のなかにも、このネズミと同じものが入っている。手術を受けてからすでに8年も経っているから、いつ装置が壊れてもおかしくない」
ガラス玉のような瞳が一瞬だけとても不安げに揺れたのを、エルウィンは見逃さなかった。
街に出れば、何の悩みも抱えずに毎日過ごしている彼女と同じくらいの年頃の女の子が大勢いる。好きなものを食べ、好きな場所へ行き、好きな人と話す――そんな当たり前の日々を過ごしている女の子が、大勢。彼女も、被験者にさえならなければ、今頃はソテラノの街で自由に過ごしていただろう。こんなふうに自分の命のタイムリミットを意識することなどなく……。
「ねぇ、マズル警部は君のことを『お嬢』って呼んでいたけれど、他の護衛の人たちは、君のことをなんて名前で呼んでいたの」
重苦しい空気を変えたくて、エルウィンは話題を変えた。それに、なんとかして彼女の呼び名を知りたかった。
しかし、S002の言葉は、変わらずそっけなかった。
「なんとも」
「え、じゃあほかの護衛は君と話すときになんて呼んでいたんだよ」
あわてるエルウィンに、S002は心底不思議そうな表情で言葉を返す。
「なにも話さなかったが」
「ほ、ほんとに?」
エルウィンは絶句した。
前任の護衛係たちは、一体、会話無くしてどうやって任務にあたっていたのだろう。隣で悩み始めるエルウィンの空気を察したのか、やや不機嫌そうにS002は口を開いた。
「君、何か勘違いしていないか。君たち護衛の任務は、私の話し相手になることではなく、私の頭の中の装置を守ることだろう」
それまでまくし立てるように喋っていた彼女が、急に口をつぐんだ。そして、ぽつんと言い放った。
「それにわたしも『護衛』に興味などない」
そのあまりに寂しげな言葉に、エルウィンはどう言葉を返したらいいのか戸惑わずにいられなかった。
黙ったままのエルウィンの隣で、S002は新聞を読み始めた。文字の形をみると、どうやらソヴィエトの新聞らしい。エルウィンには記号の羅列にしか見えない文章を、S002は瞬く間に理解し、読みすすめている。
「ねぇ、お嬢さん」
S002の返事はない。完全に、1920年7月11日のソヴィエトの世界に意識が行ってしまったようだった。けれどエルウィンは続けた。
「僕は、装置と一緒に、君のことも、守るからね」
S002に向けた言葉というより、自分自身に誓うような言葉だった。
「シュティフター少尉!」
もうすぐ昼食の時間になりそうだという頃。
静かに黙々と新聞を読み続けるS002のとなりで、すこしうとうとしかけていたエルウィンは、廊下のほうから聞こえてきたクリストフ中尉の切羽詰った声にはっとなり立ち上がった。
「自分はここです!」
階段を駆け足で上ってきた中尉は、S002と一緒にバルコニーにいるエルウィンを見つけると、すこし息を荒げながら近づき、言った。
「スパイが分かりました。イギリス人です。先ほど、自室で亡くなっているのが見つかりました」
中尉の言葉に、エルウィンは息を呑んだ。この研究所に、イギリス人は片手で数えるほどもいない。
「誰ですか」
「ヨハン・バイヤーという若い研究員です」
「そんな……」
おととい一緒にお昼を食べたことを思い出して、エルウィンの声が震えた。
あんな無邪気そうで善人そうな人がスパイだったなんて――エルウィンには信じられなかった。
「ひとまず、バイヤーの部屋まで来てください」
「はい」
ふとS002のほうを見ると、彼女は新聞を綺麗にたたんで、椅子から立ち上がっていた。灰色の物静かな瞳と、目が合う。
「お嬢さんも、一緒に行く?」
エルウィンの問いかけに、S002はうなずいた。
「行こう」
中尉はすこし顔をしかめたが、S002がエルウィンのすぐ隣にちょこちょことやってきたのを見て、彼女を引き止めることはしなかった。




