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被験者探偵S002  作者: 柏木弓依
~極秘手術を受けた少女(全13話)~
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第四話


 応接室には、クリストフ中尉の他に体格のがっしりとした男がいた。チョコレート色のスーツの下に、スーツとおそろいのベストとベージュのネクタイ、それに中折れ帽をかぶっており一見上品な紳士だったが、相手の心のうちを透視するような眼光の鋭さと、左頬のくっきりとした傷跡が、厳つく怖い雰囲気をかもしており、目が合ったエルウィンは思わず身構えてしまった。

「シュティフター少尉、こちらはソルテラン警視庁のマズル警部です。警部、彼が今の護衛係です」

 五十歳前後に見える警部は、とたんに、その強面の顔からは想像できないほどの笑みをエルウィンに投げかけた。

「あなたが今の『お嬢』の護衛ですか。これはまたハンサムな少尉さんでいらっしゃる」

 握手を求められた大きな右手に、エルウィンもあわてて応じる。

「彼女の護衛はなかなか大変でしょう」

「いえ、そのようなことは」

「おやおや、それは頼もしいですね」

「警部、そろそろ本題のほうに」

 中尉の言葉で、警部はまじめな表情に戻ると、エルウィンと中尉の顔を見ながら深刻な声で言った。

「この研究所に、どうやらスパイがいます」

「スパイ、ですか」

 エルウィンは驚いて、思わず警部の言葉を繰り返した。中尉は、冷静な表情を変えなかった。

「昨日、ロベルト・リーゼンという男を薬物の横流しで捕まえたのですが、彼の荷物からレポートの入った封筒が出てきましてね。中身がこちらです」

 警部は、皮のカバンから茶色い封筒を取り出すと、中身を出して、エルウィンと中尉に見せた。タイプライターで打たれた英文が、用紙いっぱいに敷き詰められている。

「ざっと読んだところ、この研究所の人間関係やら研究テーマやらが事細かに書かれています。研究所の人間でなければまず書けない内容です。それから気になったのがここ」

 警部は、レポートを2枚ほどめくると、末尾に添えられた文章を指で示した。


 <S002については、今はまだ報告できる段階ではない。引き続き、調査する。>


「ロベルト・リーゼンは、なにか言っていないのですか」

 警部は首を振った。

「レポートについては、黙りこくっています。もちろん、今も尋問しているところです。しかし」

 警部は茶色い封筒から、1枚、便箋を取り出すとテーブルにおいた。宛名と末尾に書かれた名前から、このレポートは『イアン・シュランク』なる人物が『N』宛てに作成したものらしい。

「この『N』という人物は、各国にスパイを送り込んでは情報収集をさせているスパイで、軍部もマークしている人物です。くれぐれも気をつけてください」

 エルウィンは激しく動揺していた。配属されてわずか一週間で発生した事件に、不安と恐怖を感じていた。

 研究所にやってきた日に、中尉から言われた言葉が蘇る。

――敵に奪われる前に、S002ごと記憶操作装置を破壊しなさい。

「我々も、内通者を極秘に調査します。シュティフター少尉、少尉!」

 中尉に強く呼びかけられて、エルウィンははっと我に返った。

「大丈夫ですか」

 中尉が、エルウィンの青白い顔を心配そうに覗き込んでいる。

「失礼しました。大丈夫です」

 エルウィンは、動揺を必死に隠しながら答えた。自分に向けられている中尉と警部の視線が、不安な心のうちを見透かされているようで、怖かった。

「とにかく、研究所のことは任せます。捜査で進展がありましたら、またご報告に上がります」

 警部は真剣な表情でそう言った。




 夕刻になり、警部を送り届けるよう中尉に言われたエルウィンは、銀色の鉄門まで警部を案内した。夕焼け色に染まりはじめた庭に出ると、いつもの噴水の前のベンチのところで、濃紺色のワンピースに身を包んだS002が、本を読んでいるのが見えた。警部は、暖かい笑みを浮かべて、S002に近づいていく。

「お嬢、元気か」

 呼びかけられたS002は、けだるげに膝の上の分厚い書物から、その恐ろしく整った顔を上げた。灰色の瞳が、夕焼けを受けていつもよりすこしだけ明るい。

「その呼び方はやめろと、何度も言っているが」

 年齢のわりにあまりに低い彼女の声を聞いたのは、エルウィンは初めてだった。とても女の子の言葉とは思えないつっけんどんな言い方だったが、警部は慣れているのか、陽気な声で話しかけ続ける。

「じゃあ、なんて呼んだらいいか教えてくれよ」

「むっ」

 S002はぎこちない表情を浮かべた。彼女が表情らしい表情を浮かべるところを見るのも、エルウィンは初めてだった。

「警部、君がここに来たということは、また事件がおこったのか」

 S002が、視線を書物に戻しながら、自分より何倍も年上の警部に尋ねる。

「いや、そういうわけでは」

「起きたのだな」

 ごまかそうとする警部を、ピシャリと遮った。そして書物に視線を向けたまま、まるで他人事のようにため息をつくと

「下手な嘘をついてまでごまかそうとするところをみると、おそらく、わたしが関係しているのだろう」

 図星をつかれた警部は、両手をスーツのポケットに入れて苦笑いを浮かべる。

「まったく、お嬢は相変わらず鋭いな」

 S002の隣にどすっと腰をかけると、本のページを抑えている彼女のその青白く華奢な手を、その大きく厚い両手で包むように握ると、優しく言い聞かせるように言った。

「事件は、俺が必ず解決する。だからお嬢は安心していい」

「ほう。事件がおきるたびに、『犯人が分からない』と言ってわたしのところにくるのに、か?」

「いや、それは、お嬢の顔がみたいからでさ」

 S002の無の顔に、また一瞬、今度はとても小さな笑みのようなものが浮かんだように、エルウィンには見えた。 

「読書の邪魔だ。帰れ」

「はいはい」

 よっこいしょ、と警部は立ち上がると、本の世界に戻ってしまったS002に『お嬢、またな』と声をかけた。




「あの子は、全く変わっていないのですね。いや、変われないというべきか」

 銀色の門のところまできたところで、ベンチのほうを振り返った警部が、悲しみを湛えた声で言った。その瞳には、誰かが置き忘れた人形のように未だベンチに座っている小さな姿が映し出されている。膝の上の本はもう、閉じられていた。

「警部は、彼女のことをご存知なのですか」

 エルウィンは、さっきまでの警部とS002の会話を思い返しながら訊いた。

 視線をS002に向けたまま、警部はエルウィンの言葉にうなずく。

「あの子の手術が行われたとき、ここの衛兵をしていましてね」

 それから、エルウィンのほうを見ると

「シュティフター少尉も、あの子のことをS(エス)と呼んでいらっしゃるのですか」

 エルウィンは、思わずうつむいた。中尉をはじめ、みんなが当たり前に彼女をS(エス)と記号で呼んでいることに、自分だけが、どうしても慣れることができずにいた。

「いえ、自分は、呼んでいません。その……人を、記号みたいな名前で呼ぶのにどうしても違和感がありまして」

 呆れられるかとエルウィンは思ったが、警部は静かにうなずいてくれた。

「それは普通の反応でしょう。彼女は物ではないのですから。どんな軍事装置が頭に入っていても、あの子は人間です。でも棟の研究員たちも今までの護衛係も、そうは思ってはいない。むしろ、未だに国の道具、貴重な被験者だと考えている者すらいるくらいです」

 警部は辛そうに吐息をつくと、エルウィンに言った。

「シュティフター少尉」

「はい」

「なにをもって、人間は人間であるといえるのでしょうか」

 エルウィンは、答えることができなかった。答えを必死に探すように、青い瞳が、地面をさまよう。

「あの子のこと、頼みますよ」

 日の沈んだ薄暗い道に溶け込んでいく警部の大きな後姿を見送ることしか、できなかった。

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