第三話
エルウィンが王立科学研究所にやってきて、一週間が過ぎた。
護衛係として、お昼休み以外は、常にS002のそばにいなくてはならなかったが、彼女は一日のほとんどを、バルコニーか噴水のそばのベンチで、ラジオに囲まれて新聞や本を読むか、独りチェスをしてすごしていたので、エルウィンはいつも少しはなれたところで見守っているだけでよかった。
この一週間で、エルウィンにはS002について、いくつか分かったことがある。
まずS002は、脳内操作装置を脳に埋められる前の記憶――6歳以前の記憶を抹消されていた。したがって、彼女は、自分の出身地はおろか、両親のことも、自分の名前すらも知らなかった。「S002の本当の名前は、なんと言うのですか」
15歳の女の子を記号や数字で呼ぶことにどうしても抵抗を感じていたエルウィンは、あるときクリストフ中尉に尋ねたが、中尉は「それは知る必要のないことです」と、教えてくれなかった。そのためエルウィンは未だに彼女に話しかけることができないでいた。
そして装置の影響かはわからなかったが、彼女の記憶力は並外れており、一度読んだ本や新聞の内容は覚えてしまっているようだった。またドイツ語や英語のほかにもいろいろな言語を読めるようで、エルウィンには暗号にしか見えない言語で書かれた新聞や本も、難なく読みこなしていた。
軍事装置を移植されている彼女は、外出を制限されていた。彼女が特別研究棟の、銀色の門の外に出るには、必ずエルウィンがくっついていかなくてはならなかったし、王立科学研究所の金色の門の外に出るには、所長の許可が必要だった。もっとも、彼女に研究棟の外に出たいという気持ちがあるのかは疑問だったが。
S002は、遠巻きとはいえ常に自分を見ているエルウィンに一切の興味を抱いていなかった。この一週間、彼女がエルウィンに話しかけることはおろか視線を向けることもなかったのだ。
――もう少し、距離感を縮められないものだろうか。
休憩時間に、研究所のそばのカフェでコーヒーを飲みながら、いつものようにエルウィンが悩んでいたときのこと。
「あれ、あなたは」
聞きなれない声に呼びかけられて振り返ると、同じくらいの年頃の、白衣姿の青年が立っていた。荷物を持っているところを見ると、たった今、お店に入ってきたとこらしい。
「やっぱりそうだ。あなた、特別研究棟のシュティフター少尉でしょう。軍服だから、すぐに分かりました」
「ええと、あなたは」
「僕は、一般研究棟のヨハン・バイヤーです」
そう言いながら、ヨハンは人懐こい笑みを浮かべて、白衣の襟に留められた王立研究所の紋章のバッジを見せた。医療用ハサミとメスが交差している紋章が、店内の灯りをうけてきらりと光る。中尉の白衣にも、同じ紋章がついていたのを、思い出した。
「お隣、よろしいですか?」
どうぞ、とエルウィンが促すと、ヨハンはうれしそうにエルウィンの前の席に着き、英語訛りのドイツ語で、ウェイトレスにサンドイッチと紅茶を注文した。
「どうですか、特別研究棟でのお仕事は。慣れましたか」
運ばれてきたサンドイッチをもふもふとほおばりながら、ヨハンが聞いた。
「まだ全くです」
エルウィンもコーヒーを飲みながら、正直に答える。
「バイヤーさんは、どのようなお仕事を?」
「研究データとか実験データを取りまとめる仕事をしています。僕、もとはイギリスで研究者をやっていて、国費留学で三年前にここに来たんですけど、最初の頃はドイツ語が難しくて仕事どころじゃなくて。最近やっと、慣れてきたところです」
「ヨハンじゃないか」
話していたところに、また白衣姿の青年がやってきた。ダークブラウンの髪をした青年に
「ハンス」とヨハンが応じた。
「少尉、こちらは一般研究棟で、僕と一緒にデータのとりまとめをしているアンカーさんです。ハンス、こちらは特別研究棟のシュティフター少尉です」
「一般研究棟のハンス・アンカーです。よろしく」
「ハンスは、僕よりも二年ほど前から研究所で働いていて、僕がここにきたばかりの頃は、同じイギリス出身っていうこともあって、とても良く面倒を見ていただいたんです」
「ヨハン、またレポートの文章、スペルを間違えただろう。主任が呆れていたぞ」
ハンスがメニューを開きながら言った。
「あれ、またやらかしていた?」
「sch-で始まる単語が全部sh-になっていた。主語だって未だに全部大文字で書こうとするし。そろそろその癖、直さないと知らないぞ」
「努力はしているのですが」
ヨハンが肩をすくめる。
「ところで」
運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、ハンスがエルウィンを興味深そうに見つめて言った。
「シュティフター少尉は『彼女』の護衛係ですよね。どんな人ですか」
その言葉に、とたんにヨハンもエルウィンを見つめる。いかにも興味津々という目だ。
「それは、まぁ、その……」
エルウィンは答え方に詰まった。着任前までS002の存在すら知らなかったエルウィンとは違い、彼らは同じ敷地内にいるのだから、ある程度のことは知っているのかもしれないが、どこまでがいわゆる『公然の秘密』なのかはわからない。迂闊なことは言えなかった。
「正直、自分にもまだよくわかりません。まだ喋ったことすらないですから」
「え、護衛係で一日中一緒にいるのに、まだ一度も喋ってないんですか」
呆れた様子の二人の研究員を前に、エルウィンは逆に聞いた。
「お二人は彼女と話したことはあるんですか」
「まさか。僕らみたいな普通の研究員は、彼女には会えません。『灰色の髪の女の子が特別研究棟に匿われている』っていう話を、研究所に来た初日に先輩から聞いただけです」
ヨハンの言葉にハンスもうなずく。
「あまりに誰も彼女の姿を見かけないから、『本当は特別研究棟に女の子なんていないんじゃないか』なんて言われることもあるほどです。でも、そっか、存在はしていたんですね」
安心したようにうなずくハンスに、エルウィンは「ええ」と短く答えた。
昼食を食べ終えた三人は、店を後にし、研究所へと向かった。途中の道で、クッキーやグミ、ドライフルーツなどの量り売りをしている出店があり、ヨハンはそこで焼アーモンドを一袋買った。
「ここの焼アーモンド、とても美味しいんですよ。少尉も今度、試してみてくださいね」
「ヨハンはアーモンド好きで、しょっちゅうここの焼アーモンドを買っているんですよ」
金色の鉄門を通り抜け、一般研究棟の前でヨハン、ハンスと別れたエルウィンは、更に奥の、特別研究棟へと急ぐ。
「シュティフター少尉!」
いつものようにS002がいるバルコニーへ向かおうとしたところ、階段のところで中尉に呼び止められた。珍しく緊張している表情を見て、エルウィンはなにかが起こったことを察した。
「戻ってきたばかりのところすみませんが、来ていただけますか。少々厄介なことが起こりました」




