第二話
特別研究棟の鉄の門を通ったエルウィンは、目前に広がる光景に、思わず目を見張った。入り口中央には、大きな噴水。その両脇には、手入れのされた色とりどりの花が咲く花壇。噴水のむこう側は小高い丘になっており、丘の斜面には赤やピンク、オレンジのバラが艶やかに咲き乱れている。そしてその丘の上に建つ豪奢な洋館――特別研究棟は、赤みを帯びた石造りの古城風の建物で、両翼には、左右対称に三角形の屋根がつけられており、中央の二階には、バルコニーが設けられている。庭の雰囲気とあいまって、研究所というよりは貴族の屋敷に紛れ込んだような錯覚を、エルウィンは感じていた。
「エルウィン・シュティフター少尉ですね」
想像していた無機質な建物のイメージとはかけ離れた様子に戸惑うエルウィンに、白衣を纏った研究員らしい男が話しかけてきた。清潔感漂う手入れのされた口ひげには、すこし白い髭が混じっている。
「わたしは陸軍情報部隊中尉兼王立科学研究所統括主任研究員の、クリストフ・フランツです」
相手の名前を聞いて、エルウィンはよりいっそう表情を硬くして、姿勢を正した。
「本日付で『特別被験者S002護衛係』に任命されました、陸軍情報部隊少尉のエルウィン・シュティフターです」
がちがちに固まって挨拶をするエルウィンの緊張を和らげるように、中尉はポンポンとエルウィンの肩を叩いた。
「あなたの任務を説明しましょう」
研究棟の内部は、一面に上等な絨毯が敷かれており、壁には植物文様の壁紙が貼られていた。中尉はエルウィンを、バラ模様のシャンデリアのかかった応接室に案内すると、高級絹の織られた椅子に座るように促し、自分もテーブルを挟んでエルウィンの向かいに座った。
「お父上はお元気ですか」
コーヒーをすすめながら、中尉が尋ねた。
「ええ」
「それはよかった。先の大戦のとき、わたしはお父上の部下で、随分お世話になりました。ですから、今度はご子息のあなたとこうやって一緒に任務に就けることを、嬉しく思いますよ」
「ありがとうございます。精一杯任務に当たらせていただきます」
「期待していますよ。さて、その任務ですが」
懐かしそうな表情が、きりっとした上官の表情になる。
「軍事装置である脳内操作装置の移植手術を受けた、王国内ただひとりの人物、通称『S002』を護衛するのがあなたの任務です」
「脳内操作装置?」
「脳内に移植することで、その人の記憶の一部を消したり、全く新しい記憶を植え付けたりすることのできる装置のことです」
はじめて聞く空想のような話に、エルウィンは戸惑いを覚えた。
――記憶を消したり、新しい記憶を植え付ける、だって?
中尉はそんなエルウィンにはかまわず、淡々と説明を続ける。
「脳内操作装置の研究は、先の大戦が終結した後、この研究所のリーヴェン所長を中心に、極秘かつ迅速に進められました。あの頃は、戦争で精神的なダメージを受けた兵士たちが今よりも大勢いましたからね。戦争期の凄惨な記憶を消し、代わりに幸福度の高い記憶を新たに植え付けることができれば、心を壊してしまった彼らを治療することができると、医学界や研究者たちは考えたのです。これは『ソルテラン計画』と呼ばれ、マウスをつかった動物実験が行われた翌年に、一人の被験者――S002に対する実験が行われました」
「まってください」
エルウィンは動揺をあらわにしたまま中尉の話を遮る。
「この国では、人体実験は法で禁止されているはずです」
「そのとおりです。だからこそ、S002の移植手術はかつてない情報統制のもと、極秘に行われました。手術が成功し、その後も問題がなければ、体制を整えて世間に発表することになっていたのです」
中尉の表情が曇った。
「移植手術は成功しました。術後の経過も安定していたため、S002の手術から三年経ったころ、研究所と政府は実用化に向けて制度改革に動き出し始めました。当然反発も受けましたが、官僚や政治家たちの根回しを念入りに行っていたため、順調に実用化へ向けて体制は整えられていったのです。しかし、実用化まであと一歩という時期に、マウスが突然死んでしまいました」
えっ、と思わずエルウィンは息を呑んだ。
「原因はなんだったのですか」
「装置の故障による脳の壊死です。この事件により装置に対する信頼は揺らぎ、それまで実用化に賛成だった者たちのなかにも反対派に転じる者が次々に出始めます。当然、倫理的側面からも問題視され、研究所は猛烈な批判を受けました。結局、研究は中止に追い込まれ、装置に関わる研究・実験データもほとんどが処分されることになります。しかし、唯一処分できなかったもの――それが、『特別被験者S002』なのです」
中尉は、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
「S002の脳内には今も、移植された脳内操作装置が残っています。もしこの装置が、反政府組織や他国のスパイの手に渡ったらどうなるか……あなたにもわかりますね」
「はい」
「そこで、S002が生存しているうちは、陸軍情報部隊が護衛につくことになりました。つまりあなたの任務は、軍事装置である脳内操作装置を有しているS002を国内及び他国の敵から守ることです」
「承知しました」
「一つ、大切なことを伝えておきます」
中尉の表情が、今まで以上に重々しくなった。
「もし万が一、S002が敵の手に渡ることが避けられなくなった場合には、敵に奪われる前に、S002ごと装置を破壊してください。それも、あなたの任務です」
衝撃的な中尉の言葉に、エルウィンの青い瞳が同様で揺らいだ。
「それは、つまり、……」
言葉が、続かなかった。
「もちろんわたしは、そうならないことを祈っていますよ」
任務の話が済むと、中尉はエルウィンをバルコニーへ案内した。
「彼女がS002です」
S002と初めて対面したエルウィンは、その光景の奇天烈さに唖然とした。
フランスのデザイナーが考案して以来、ヨーロッパ中の女性に人気だという濃紺色の襟付きワンピースに身を包み、長袖の袖口からは青白く細い手がのぞいている。
そして彼女の前のラウンドテーブルには、いくつもの新聞が広げられており、そのなかにはロシア語や英語で書かれた新聞も混じっていた。さらに、彼女を中心として半円を描くように床に置かれた4台のラジオは、それぞれが違う番組を流している。
視覚と聴覚が悲鳴を上げそうなほどの情報が飛び交うなか、まだ十代半ばほどの少女が、平然とホットココアを片手に座っていた。
「S、S」
中尉が何度か呼び掛けてやっと少女は、気だるげに顔をこちらに向けた。
「彼が、エルウィン・シュティフター少尉ですよ」
エルウィンは、彼女の顔立ちに思わずどきっとして、一瞬声を発するのを忘れた。柔らかくウェーブした色素の薄い灰色の髪に包まれた小さな顔に、すっと通った鼻筋。唇は、桃のようなやわらかいピンク色をしている。怖くなるほどに整った顔立ちであったが、病人のような青白い肌と、感情のないガラス玉のような灰色の瞳が、彼女が単なる美少女ではなく、軍事装置を移植された『特別被験者S002』であることを証明していた。
人形のような瞳に戸惑いながら、エルウィンはS002に「よろしくおねがいします」と挨拶してお辞儀した。
S002は、無表情ですこしの間じっとエルウィンを観察していたが、すぐにまた、手元の紙面に視線を戻す。
「さあ、あなたの部屋を案内しよう」
その場に居続けることがいたたまれなくなったエルウィンは、中尉に促されるままに、バルコニーを後にしたのだった。




