第七話
クッシュ夫妻は、もともと四棟のアパートを経営して細々と暮らしていたが、先の大恐慌で夫のノーマンが保有している株が大暴落し、多額の負債を背負ってしまった。そしていよいよ、持っているアパートと土地を売り払おうかというところまできたとき、ノーマンは行きつけの飲み屋で、ある男から今回の計画を持ち掛けられたというのである。
賃料を周辺の家賃相場の半額ほどにし、年齢制限を設ければ、地方から無計画に出てきた若者はまるで自分のために用意されたアパートだと信じて疑わない。それにのどかで平和な田舎町で育った彼らには、まさか人身売買が横行しているなどとは思いつきもしないだろう――計画を持ち掛けた男は、そう言ってぞっとするほど冷たく笑ったという。
借金の取り立てに絶望していたクッシュ夫妻は、結局、この悪魔の計画に乗ることにした。男の指示に従い、男の資金で持っているアパートに改修工事を施し、各部屋に隠し扉を設置して自分たちが人知れず出入りができるようにしたほか、偽の換気口を作り、自分たちが部屋に侵入するときにはアパートの住民が起きないよう、甘い匂いのする睡眠ガスを四部屋すべてに送り込んでいたのである。また住人がしっかりとガスを吸い込むよう、ベッドは換気口の真下から動かせないように固定していた。
「隠し扉は、あの部屋のクローゼット中にあったのですよね」
イレーネの言葉に、エルウィンはうなずいた。
「クローゼットの中の壁が、実はある一点に力を加えると上下にスライドするようになっていました。そしてそこは、アパートの地下駐車場とつながっていたのです。夫妻はいつも、部屋の少女をガスで眠らせた後にクローゼットから部屋に侵入していたんです。それに、誘拐を実行する前にも何度か忍び込んで、部屋の状態や住人の生活リズムを探っていました。そして実行のときは身動きが取れないように拘束して、またクローゼットを通って地下駐車場にいき、引き取り役の男に引き渡していたのです。そのあとは、部屋の物をすべて処分し、退去申請書を偽造する。偽造といっても、彼女たちの筆跡に似せたサインを書くだけですが。夫妻に支払われる報酬は、少女の買い取り額の60パーセントほどだったそうです」
「まるで怖い映画のようだわ。それにしても、どうしてあのお嬢さんは隠し扉に気づいたの?」
イレーネは不思議そうな表情を浮かべた。
セレスティーヌの話もあるが、一番のきっかけは彼女のコートについていた動物の毛だよ――とあの夜、西ソテラノ署でお嬢さんはガーゼのハンカチに挟んだ白い猫の毛を見せながら警部たちに説明した。
「この毛がついていたコートには、クリーニングのタグが付いていた。つまりセレスティーヌが外に着ていったときについた毛ではない。そしてセレスティーヌは猫を飼っていない。ならば猫と日常的に接触している誰かが、あのコートに触れたときについたということになるが、人の家のクローゼットに入る人間は、普通はいない。そのとき、あそこが実は隠し扉ではないかと思いついたのだよ。イレーネは、セレスティーヌのクローゼットの中の物の位置が変わっているのは、彼女自身がそれを動かしたことを忘れていると言っていたが、そうではない。あのクローゼットを出入りする人間が、邪魔になるから物を動かし、そのまま戻すのを忘れたのだ」
実際のところ、クッシュ夫妻は白猫を二匹飼っていた。
「まだわからないことがあるのだけれど」
セレスティーヌが遠慮がちに尋ねた。
「あの部屋で誘拐が起きるのが、あの夜だってわかったのはどうしてですか?」
「それは、誘拐の決行日が月に一度の地下駐車場の清掃日と同じだったからです。アパートの入り口の白い看板に書いてあったでしょう。清掃日は、夫妻を除いて誰もあの駐車場には出入りできません。だから、彼らにとっては誰にも見られずに人を運んだり、部屋の借主の持ち物を処分するのに都合がよかったのです」
「本当にぞっとするわ」
イレーネは蒼白な表情で肩を震わせた。
「ええ、恐ろしい話です。もっと恐ろしいのは、これがバルトハイムだけでなく、ほかの三棟のアパートでも起きていたということで、いま警察は総力を挙げてアパートを借りた後行方不明となった少女たちを探しています。それと、夫妻に話を持ち掛けた男についても」
エルウィンは少しぬるくなってしまったコーヒーを一口飲んだ。それから、イレーネにずっと気にかかっていたことを聞いてみることにした。
「ところで、セレスティーヌさんは、その後どうされていますか」
心配そうなエルウィンに、イレーネはにっこりと笑ってから
「先週、運よく劇団のオーディションに受かったんです。以来毎日、稽古をしたり、舞台道具や照明のアシスタントをしたりしています。お金のために映画館の売り子はなんとか続けているけれど、前みたいに目的もなくデパートに行ったり、カフェをはしごしたりすることはやめたみたいです」
「そうですか、劇団ですか」
エルウィンはほっとした表情を浮かべた。
「あのお嬢さんに言われたことが相当悔しかったようです。自分が誘拐されるかもしれなかったというのに、落ち込むどころか毎日劇場をはしごして自分を売り込みに行っていたのですから。セレスティーヌにあんな行動力があったなんて、知らなかったわ。でも」
イレーネは姿勢をすっと正すと、そのぱっちりとした瞳でエルウィンを見つめて
「あの探偵のお嬢さんに、私や両親が言わなければならなかったことを代わりに全部あの子に言ってくれて、本当にありがとうございましたって伝えてください。それに、今回の事件のことも、もうなんてお礼を言っていいか……本当に、ありがとうございます。お二人は恩人です」
「いえ、こちらこそ、本当によかったです」
そのとき、カウンターに置かれた鳩時計が、ポッポーと三時を知らせる音が聞こえてきた。
「あら、ごめんなさい、そろそろ時間が。戻らなくちゃ」
イレーネが申し訳なさそうに言った。そして、エルウィンの伝票をさっととると
「少尉さんたちにしていただいたことのお礼には全く足りませんが、ここはごちそうさせてください。あ、あとお渡ししたいものがあるので、少しだけ待っていてください」
と、ぱたぱたと厨房の奥へ戻っていき、すぐに両手で四角い箱を抱えて戻ってきた。
「来週から新しくメニューに加わる、新作のフルーツタルトです。あのかわいらしい探偵さんに。それと、これはセレスティーヌからです」
イレーネが渡したのは、一枚の劇団のパンフレットだった。裏に、団員たちの名前の一覧があり、劇団のメインとなる役者たちが顔写真付きで載っている。そしてその末尾の、とても小さな文字で書かれた名前の羅列の最後に、セレスティーヌの名前があった。
「『いつか絶対に顔写真付きでこのパンフに載るから、そのときは劇を見に来てほしい』と」
イレーネはにっこりと笑う。
「彼女に伝えます。劇もきっと、見に行きます」
エルウィンも精一杯笑みを返したのだった。
「お嬢さーん、戻ったよー」
エルウィンが特別研究棟に戻ると、紅色の生地に金色の糸で蝶の刺繡があしらわれた襟付きワンピースを着たお嬢さんは、いつものようにバルコニーの椅子に座り、エルウィンの読めない言語で書かれた分厚い本を読んでいた。そばには、湯気をほくほくと立てるホットココアがある。
「イレーネさんから、今度の事件のお礼にって、新作のタルトをいただいたよ。君、食べない?」
『タルト』の言葉に、お嬢さんが読んでいた本をぱたりと閉じた。いつもは冷めた瞳が、らんらんと輝いている。
「あとね、セレスティーヌさんは、劇団に入ったんだって」
エルウィンは繊細なバラ模様の描かれたプレートに、宝石のような色とりどりのフルーツが輝くタルトをのせると、セレスティーヌの劇団のパンフレットと一緒にお嬢さんに渡した。
「それはなによりだ。しかし……」
お嬢さんがパンフレットのスタッフ一覧の行を、目を細めてみている。
「彼女の名前は文字が小さすぎて全く目立たないが」
「まだ入団したばかりだからだよ。その……」
エルウィンはその先の言葉をためらった。
「なんだね」
促されて、意を決し、努めて明るい口調で続ける。
「『いつか絶対に顔写真付きでパンフに載るから、そのときは劇を見に来てほしい』ってさ」
「そうか」
お嬢さんの返事は短かった。
「それはぜひ行かなくてはな」
寂しそうなほほえみを薄く浮かべると、パンフレットが汚れないよう、タルトから少し離れたところにそうっと置き、フォークを手に取る。
「どう、お口に合う?」
お嬢さんは答えなかった。その代わり、黙々とフォークを口に運んでいき、あっという間に食べ終わってしまった。
満足そうな表情で、ホットココアを一口飲む。
バルコニーの外の庭園のどこかで、小鳥が鳴くのが聞こえてきた。
―完―




