第六話
「ちょっとお嬢さん!」
アパートをでて、すたすたと通りを歩いていくお嬢さんの後を、エルウィンは走って追いかけた。
「セレスティーヌへ発言なら撤回しないぞ。私は事実を指摘したまでだ」
「あのねぇ、君」
肩をいからせ、ふくれ面で歩くお嬢さんの隣で、エルウィンはため息をついた。
「私はああいう人間が嫌いなのだ」
お嬢さんがそっけなく言った。
「彼女たちは、十分な自由に恵まれているのにそれに気づかず、ただ漫然と日々を消費し、何にも取り掛かろうとしないくせにやりたいことがないだのなんだのと文句を言う。居場所を変えさえすれば、あとは何もせずとも周りが自分を変えてくれると思っている。そんなだから狡猾な人間の餌食になるのだよ」
「だからって、もう少し言い方があるでしょう」
エルウィンは呆れた。
「それで、これからどうするの。今夜警官を張り込ませるなんて言っていたけれど、今の段階じゃ事件が起きたわけじゃないから、警察は捜査なんて無理だよ」
「大がかりな捜査などしなくても、黒幕を捕まえれば済む」
「そんなこと、どうやって」
二人は警察署の前まで来ていた。お嬢さんは歩みを止めると、エルウィンを振り返る。
「作戦があるが、続きはマズルにも聞いてもらおう」
深夜。
月上りが薄く差し込むバルトハイム102号室で、実に気味の悪いことが起きていた。
クローゼットの扉が音もたてずにゆっくりと開き、なかから黒い目出し帽をかぶった男の顔が、ぬっと出てきたのである。男は初めのうち、クローゼットのなかから頭だけを出して、あたりの気配をうかがっていたが、やがてそっと出てくると、足音を立てずにベッドまで近づき、掛布団にすっぽりともぐって眠っているこの部屋の住人を見下ろした。そして、右手でポケットからハンカチを取り出し、左手で花柄の布団のはしをそっとつかむ。
「動くな」
男が布団をめくったのと同時だった。
ガスマスクをつけたマズル警部の声が部屋に響き、ぱっと部屋の明かりがつけられる。
突然の明かりに目がくらんだのだろう。男が右腕でとっさに顔をかばったところを、警部と同じガスマスクをつけたロビンソン巡査がのしかかって取り押さえた。そして拳銃を構えたままのマズル警部が、ロビンソン巡査の下でもがいている男の覆面をはぎ取る。
「署ですべて話してもらうぞ、ノーマン・クッシュ」
ノーマンは警部をにらみつけたまま、ぐったりと観念したのだった。
一方そのころ、バルトハイムの地下駐車場では、一人の女がなにかを待っていた。頻繁に懐中時計で時間を確認しているところを見ると、どうやら相手は、時間に遅れているようである。
やがて、一台の車が駐車場内に静かに滑り込んでくると、ため息をついてから、女は車に向かって片手をあげた。
女のそばに、車が止まる。
「ごめんなさい、こちらの用意がまだできていないの」
運転席から出てきた中折れ帽を被った男に、女は謝った。
「彼は来ませんよ」
男が言った。
「あなたの相棒は、先ほど警察が捕まえましたからね」
女は驚愕して、目の前の黒いスーツ姿の長身の男を見つめる。
「あなた、誰!?」
男は答える代わりに、ポケットから紺色の身分証を取り出して見せた。
「ソルテラン王国陸軍情報部……なぜ軍人がここに?」
そのとき、背後で足音がして、アネット・クッシュは振り返った。するとそこには、強面の大柄な男と、見覚えのある若い巡査に捕らえられている夫のノーマンがいた。
「状況は見ての通りだ」
冷たく整った顔立ちの少女が、男の乗ってきた車の後部座席から降りながら宣告した。見た目はまだ十代の少女だというのに、目の前の正義感の強そうな青い瞳の青年とは違って、アネットを見る彼女の瞳には相手を凍り付かせるほどの凄みがある。
アネットは憎々しげな視線をエルウィンとお嬢さんに送ると、警部に連行されたのだった。
クッシュ夫妻が逮捕されてから二週間ほど経ったあるお昼過ぎのこと。
カフェ『ピアニシモ』で、いつものように客席の食器やトレーを片付けていたイレーネは、入り口のガラス戸につけられた鈴が鳴る音がして、入り口のほうを見やった。
「あら、少尉さん」
入ってきたエルウィンに、にっこりとほほ笑む。
「奥のお席はいかがですか」
イレーネは日当たりのよい二人掛けの席を勧めるとメニューを手渡した。
「ランチの時間は終わってしまっていますが、何になさいますか?」
「今日は、この前イレーネさんが食べていらっしゃったサンドイッチにしようと思うんです」
エルウィンの答えに、イレーネはぱぁっと表情を明るくすると、
「それなら、こちらのセットがお勧めですよ」
と、『新メニュー』と書かれたローストビーフのサンドイッチセットをしめした。ドリンクに、コーンスープとポテトもセットでついてくる。
「そうしたら、このセットでお願いします。飲み物は」
「ホットコーヒーを食前、ですよね」
すっかり注文内容を把握されていることにすこし恥ずかしくなって、エルウィンは照れくさそうな笑みを浮かべながらお礼を言った。
「ところで少尉さん」
イレーネが、周りを気にして少し声を落とした。
「バルトハイムの事件のこと、真相を話してくれませんか。新聞で記事は読みましたが、なんだかよくわからなくて」
クッシュ夫妻の逮捕の後、ラジオや新聞、週刊誌は連日バルトハイムのことを報道している。なかには『人喰いアパートの真実』や『クローゼットの怪人』といったB級ホラー映画のタイトルのような見出しで、面白おかしくあることないことを書きたてているものもある。都会に夢と希望を抱いて出てきた少女を狙ったアパートを利用した狡猾な誘拐事件は、人々の関心をひきつけて余りあるものだった。
「イレーネさんは、お昼休憩はこれからですか」
「ええ」
「では、少し長くなりますから、ランチを食べながらにしませんか」
エルウィンの提案に、イレーネはにっこり微笑むと、ぱたぱたと厨房へ戻り、エルウィンの注文内容を伝えてから、ハムサンドの載ったお皿を片手に戻ってきた。
「結局、あのアパートは誘拐現場になっていたということですか」
向かいの席に座ってそう切り出すイレーネに、エルウィンはうなずいた。
「犯人のクッシュ夫妻は、あのアパートを利用して、地方からでてきた少女を誘拐し、闇市場で売っていたんです」




