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被験者探偵S002  作者: 柏木弓依
~極秘手術を受けた少女(全13話)~
2/21

第一話

あらすじ:

東ヨーロッパの小さな国、ソルテラン王国の研究機関で、一人の外国人研究者が亡くなった。白衣のポケットには遺書らしき手紙。果たして自殺か、それとも他殺か。『特別被験者』として国家の監視下におかれている少女と、彼女の護衛係の新米少尉が事件の真相にせまる。

*『被験者探偵S002』の一作目。

 人間とは、自分の運命を支配する自由な者のことである。

 ――『経済学・哲学草稿』 カール・マルクス




 薄暗い部屋のなかに、男がいた。

 あちこち皺のはいった白衣を羽織っているその男は、分厚い本やレポートの束やらが一面を覆っているデスクの、僅かに空いている場所にタイプライターを置き、なにやら必死に文字を打ち込んでいる。どうやら、『N』という相手に報告書を作っているようだ。

 チャッチャッチャッチャッ、というキーを打つ音と、シャッ、という改行の音だけが、乱雑な部屋に響き渡る。

 用紙がびっちりと文字で埋め尽くされたところで、男は左手で、タイプライターから用紙を抜き取った。思いつめた表情で、たった今、作り上げた報告書を読み返す。そして、忌々しそうにクシャッと両手で握りつぶすと、苛立ちをぶつけるように、デスクを拳でガツンと叩いた。その拍子に、かろうじてデスクの上に載っていたレポート用紙の何枚かが、はらはらと床に落ちる。

「ちくしょう」

 誰に言うわけでもなくそう吐き捨てた男は、また、タイプライターに向き直った。

 チャッチャッチャッチャッ。

 キーを打つ規則的な音以外には、もうなにも、聞こえない。 




 時は、1933年、春。

 東欧の小さな国、ソルテラン王国。

 国の南部を黒海に、北部を針葉樹林の生い茂る森に面した、ドイツ語圏のソルテラン王国は、長らくオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったが、先の世界大戦で独立を果たした。独立直後の王国はやや混乱していたが、王国の象徴として国民から慕われている国王や、国民の高い支持を得ている首相のもと、他に類を見ない早さで体制が整えられ、今では他のヨーロッパ諸国にとっても無視できない存在にまで成長していた。

 王国の中心からやや南寄りに位置するソテラノは、王立議会議事堂や王立軍本部、王立科学研究所など王国の中枢機能の集まる首都であると同時に、人々の活気の集まる中心地でもあった。街のあちこちで、肉屋や魚屋、八百屋などの売り子の快活とした声が聞こえ、休日には街の中心にあるソテラノ広場で披露される大道芸や、広場の周囲の出店に大人も子供も群がった。


 さて――。

 綿菓子をすこしだけちぎったような薄い雲の散らばる、澄んだ青空の下。

 軍服姿の一人の青年が、石畳の続くソテラノの街を、カッカッカッと足音を響かせながら、異常なまでに背筋を伸ばして歩いていた。

 深緑色の詰襟軍服の両肩には、王国陸軍少尉の位を示す紅色の肩章。腰よりすこし高めの位置に締められた黒いベルトには、支給されたばかりの傷一つないサーベルをさげている。ベルト上には、7個の真鍮製のボタンが二列に整列していた。

 詰襟服と同じ色の軍帽から、まぶしいほどの金髪をすこしのぞかせた王国北部出身の青年、エルウィン・シュティフターは、先月、士官学校をトップの成績で卒業したばかりの新米少尉だった。陸軍情報部隊に配属されたエルウィンは、今日から、ソルテラン王立科学研究所で『特別被験者S002護衛係』として任務に就くことになっている。

 ガーンッ!!

 突然、青空いっぱいに響いた、聞きなれない仰々しい鐘の音に、エルウィンは驚いて立ち止まり、辺りをキョロキョロと見渡した。石畳をちょこちょこと歩いていた鳩たちも、鐘の音に驚いたのか、いっせいに飛び立つ。

 ガーンッ、ガーンッ、ガーンッ……!!

「お母さん、あの音は?」

「あれは、ソテラノ大聖堂の鐘の音ですよ」

 聞こえてきた母子の会話から、エルウィンは少し安心してまた歩き始めた。19世紀初頭に建てられたソテラノ大聖堂の鐘の音については、すでに話に聞いていた。大聖堂の鐘の音が、一度も途切れることなくソテラノの人々に時刻を伝え続けてもうすぐ100年。先の大戦の戦火もまぬがれ、今や、街のシンボルとしてなくてはならないものとなっていた。

 黙々と、ソテラノ中央駅から歩いて30分ほどしたころ。

 エルウィンはようやく、ソルテラン王立科学研究所にたどり着いた。17世紀後期に小さな医学研究所としてはじまったこの研究所は、今では165ヘクタールほどの広大なL字型の敷地を有していた。およそ3メートルの高さの煉瓦塀で周囲をぐるっと囲われたこの研究所は、王国の最高研究機関であるとともに、欧州でも指折りの研究機関として名を馳せ、僅かながら海外からの研究員も受け入れるようになっていた。

「身分証を」

 金色の門の両脇に控えている衛兵に、エルウィンは士官学校を卒業するときに与えられた身分証を提示した。

「本日付でこちらに配属されました、陸軍情報部隊少尉のエルウィン・シュティフターです」

「どうぞ」

 緊張と不安の入り混じった表情のエルウィンとは対照的に、紺色の制服を乱れなく着こなし、着剣前の銃剣を構えた軍人のごとき強面の衛兵二人は、エルウィンの身分証を確認すると、にこりともせずに、門を開けてくれた。

 豪奢な金色の門を通ったエルウィンは、左右にずらっと連なる建物の間の広い道を、また黙々と進む。手に広げている研究所の地図を見ると、左右の建物は研究者の寮であるらしく、寮の玄関からは研究所へ向かう白衣姿の研究員たちがひっきりなしに出て行った。たまに、衛兵服とは違う軍服姿のエルウィンにものめずらしそうな視線を向ける者もいたが、すぐに視線をそらして自分の持ち場へと向かっていった。

 やがて寮の連なりが途絶える頃、エルウィンの正面に、ギリシア建築風の建物が現れた。玄関がコリント式の円柱で支えられていたこの建物は、地図によると、文書館らしい。そして文書館の奥に構えるこれまた大きな建物が、生物学や医学、物理学等の研究が行われている、一般研究棟である。

 エルウィンは、文書館のある角を右に曲がり、ときどき立ち止まって地図を確認しながら『特別被験者S002』のいる特別研究棟をめざした。すでに、研究所敷地内に入ってから20分ほど歩いている。

 『特別被験者S002』が何者なのかについて、エルウィンは「国防に関わる重大な実験を受けた人物である」ということ以外には、なにも知らされていなかった。配属が知らされるまで、そもそも『特別被験者S002』の存在すら知らなかったエルウィンにとっては、これからの任務の内容についてはもちろん、そもそもS002が男なのか女なのか、年齢はいくつなのか、一切の想像がつかなかった。

 ときどき何かが爆ぜるような音や、焦げ付いた匂いの漂う実験場の脇を歩いていると、おぼろげに特別研究棟の鉄門が見えてきて、より一層、エルウィンの顔に、緊張と不安の色が浮かんだ。

 歩みを進めるに連れて徐々にはっきりと見えてきた鉄門を見て、思わずエルウィンは立ち止まる。研究所の入り口と同じように衛兵が二人、銃剣を手に控えていた。研究のなかでも極秘の研究が行われる場所であり、所長のほかには、許可されたごく僅かな者しか立ち入ることのできない場所――それが、特別研究棟であった。

『王国のためにしっかりやりなさい』

『くれぐれも、身体には気をつけるのですよ。いつでも、あなたのことを想っていますからね』

 緊張と不安で胸いっぱいのエルウィンの脳裏に、陸軍中将の父と聖母のようにやさしい義母(はは)の言葉が蘇る。一度深呼吸をして自分を鼓舞するようにぐっと拳を握り締めると、意を決したようにずんずんと研究棟にむかったのだった。

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