第一話
ここ数年で急速に都市化した西ソテラノ地区の一角にある、格安アパート『バルトハイム』。南部ののどかな港町から『夢中になれること』を求めてやってきたセレスティーヌは、さっそく部屋を借りて住み始めたが、部屋に幽霊がいるのではないかと疑うようになる。家具付きの築浅アパートに隠された、恐ろしい真実とは。
*『被験者探偵S002』の二作目。
真夜中のこと。
褐色のショートヘアの少女が、ワンルームのアパートで目を覚ました。カーテンの隙間から、薄く月明かりが差し込んでいる。ベッドのそばの時計を見ると、午前1時を指していた。眠ってから、まだ1時間も経っていなかったらしい。
目を覚ました原因はわかっていた。悲鳴だ。ほんの一瞬だったが、隣の部屋から女の子の悲鳴がしたのだ。もう一度、注意深く耳を澄ましてみる。すると、しばらくしてからミシッミシッと何かがきしむ音がかすかに聞こえてきた。まるで誰かが階段を下りていくような音だった
――廊下の階段じゃないわ。だって、ここは一階だもの。
そうっと、ベッドから体をおこす。恐怖と緊張でがちがちになりながら、聴覚だけが、暗闇と静寂の中で研ぎ澄まされていくのを感じた。
ひとまず部屋の明かりをつけよう、とベッドから立ち上がろうとしたとき、ふっと足の力が抜けて、床に崩れ落ちた。体に力が入らない。
――眠い。
恐怖を上回る強烈な眠気に襲われる。
室内に再び、静寂が戻る。
日が昇るのはまだ数時間先である。
ソテラノ市内の一角にあるカフェで、深緑色の詰襟軍服を身にまとった青年が、眉間にしわを寄せてメニューを見つめていた。この春から『特別被験者S002』の護衛任務についている、エルウィン・シュティフター少尉である。
「今日はすこし遅いのですね」
エプロンをつけたブロンドの巻き毛の若いウェイトレスが、エルウィンを見つけると、にこにこしながらオーダー票を片手にやってきた。
「ランチの時間は終わってしまいましたけれど、何になさいます?」
エルウィンは悩んでいた。ランチタイムより二時間ほど遅く来たため、メニューに並ぶ料理はサンドイッチやケーキなどの軽食が中心になっている。店内も、ピークの時間帯が終わったからか、お客はまばらだった。
「じゃあ、このパスタセットで」
3ページほどしかないメニュー表を何度も往復したエルウィンは、結局、一番空腹が満たされそうなパスタを指した。
「かしこまりました。今日も、コーヒーは食前にされますか」
エルウィンからメニューを受け取りながら、巻き毛のウェイトレス――イレーネが確認する。目鼻立ちのはっきりとした、華やかな顔立ちである。
「食前でお願いします」
「かしこまりました」
とても感じの良い笑みを浮かべて、オーダー票の『飲み物』の行に『前』とメモをすると、イレーネはぱたぱたと厨房へ戻っていた。
時は、1933年代。
東欧の小さな国、ソルテラン王国は、国の南部を黒海に、北部を針葉樹林の生い茂る森に面した、ドイツ語圏の王国である。その首都ソテラノは、王立議会議事堂や王立軍本部など王国の中枢機能が集まっているだけでなく、ここ数年ほどの間で劇場や美術館、企業や流行の店なども集中するようになり、国内外から人が集まる大都市となっていた。
エルウィンがすっかり常連となったこのカフェ「ピアニシモ」も、流行の料理や飲み物、ワインなどをいち早く取り入れているお店である。
「お待たせしました」
オーダーしてから少しして、イレーネがにこやかにパスタセットを運んできた。トマトとズッキーニの彩がきれいなパスタだった。
「少尉さん、少尉さん」
空になったエルウィンのグラスに、ピッチャーからお水を注ぎながら、イレーネが話しかけた。ピッチャーの中にはスライスされたレモンが一切れ浮かんでいる。
「私、これから一時間お昼休憩に入るのですけれど、あの、お席をご一緒してもいいですか?」
「あなたもこれからなのですか?」
「ランチタイムは、お客さんがたくさんいらっしゃるので、いつも休憩をずらしているのです」
イレーネの言葉に、なるほどと納得した。たしかに、ランチタイムのこの店は、いつも満席で、決して広くない店内のフロアは、イレーネともう一人のウェイトレスが二人で回していた。
エルウィンが、どうぞ、と向かいの席を促すと、嬉しそうにイレーネは礼を言い、一度、厨房に向かった。それからすぐに、サンドイッチの盛られたバスケットを片手に戻ってくる。エプロンは外していた。
「おいしそうなサンドイッチですね」
レタスやアボカド、トマトがサンドされた、思いのほかボリュームのあるサンドイッチをみて、エルウィンが言った。パスタと同じように、彩が鮮やかである。
「まかないランチです。よかったら、少尉さんも今度頼んでみてください。ランチタイムだと、ローストビーフもサンドされていますよ」
「へぇ。いつもサンドイッチのページはあまり見ていなかったので知りませんでした。今度、もっとちゃんとメニューを見てみます」
エルウィンの生真面目な返しに、イレーネは、ふふふ、と笑みを返した。
「ところで」
イレーネが、話題を変えた。
「少尉さんは、警察にお知り合いがいるのですよね」
「えっ」
全く予想をしていなかった質問に、エルウィンは一瞬うろたえる。
「たまに、茶色いスーツの大柄な人と、うちにくるじゃないですか。あの人、警察の人ですよね」
イレーネの言う『茶色いスーツの大柄な人』は、マズル警部のことに違いなかった。たしかに、エルウィンは何度か、警部とこのお店に来ている。
「まぁ、そうですね」
敢えて隠す必要はないと思い、正直に答えた。するとイレーネは、やった、という表情を浮かべると、手に持っていたサンドイッチをバスケットに戻して、姿勢を正し、エルウィンに言った。
「実は、相談にのってほしいことがあるのです」




