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被験者探偵S002  作者: 柏木弓依
~極秘手術を受けた少女(全13話)~
14/21

第十三話


 ――その日の夕方。

 警察の取調べからエルウィンが解放されたのは、太陽も沈み、空がまた闇色に染まろうとしている頃だった。ハンスの自殺を止められなかったことを怒っていたマズル警部も、深く反省している様子のエルウィンを見て、最終的には許してくれたのだった。

 解放されたエルウィンは、まっすぐ特別研究棟のバルコニーへと向かった。思ったとおり、バルコニーにはラウンドテーブルにチェスボードを載せて黙々と駒を動かしているS002がいた。そしてそこからすこし距離をとったところで、クリストフ中尉がときどきS002に目を配りながら、なにやら書いていた。

「フランツ中尉」 

 エルウィンは遠慮がちに、報告書を書いていた中尉に声を掛ける。

「本当に、本当にすみませんでした」

 深く頭を下げて謝罪の念を精一杯にあらわす部下に、中尉は穏やかな眼差しをむけた。

「シュティフター少尉」

「はい」

「あなたは真面目で素直な、そしてなにより、優しい青年です。それが美点であることに、間違いはありません」

 中尉は落ち着いた声でエルウィンに語りかける。

「しかしあなたの優しさは、軍人という仕事からすると、諸刃の剣です。今回のように、国家に損害を与えることもある。あるいは、あなた自身を危険に晒すこともある」

「はい」

 エルウィンの脳裏に、ハンスの言葉が蘇る。

 ――少尉さんのその優しさは、長所には違いねぇが、場合によっては命取りにもなるぞ。

 中尉は、エルウィンの青い瞳を見て言った。

「その優しさを上手に扱いなさい。王国を、あなたの大切な人を、そしてあなた自身を守れるように大事にしなさい。それとすこしは人を疑うことも覚えなさい。悲しいことだが、わたしたちの仕事にはそれが必要です」

「はい。ありがとうございます」

 エルウィンは、暖かい言葉を掛けてくれた上官に、もう一度深く、礼をした。

「では、彼女のことはまた任せますよ」

 眉間にしわを寄せた真剣な表情でチェスの駒を動かしているS002に視線を向けながら、中尉は椅子を引いて立ち上がると、テーブルの上のものをまとめた。

 エルウィンは小さく一礼をして、S002の元に駆け寄っていく。

 レースのあしらわれた紺色のワンピースに身を包んだS002は、黒のポーンをどこに動かすか、思案しているところだった。

「左の頬が赤いぞ」

「あ、うん、これね。大丈夫」

 エルウィンは、今朝、警部にひっぱたかれた頬に手を当てながら、苦笑いを浮かべた。

 エルウィンの取調べをした警部は、思わずひっぱたいてしまった左頬の腫れが一向に引かないのを見て、いろいろと手当てをしてくれた。そのお陰で、なんとか警察署を出る頃には腫れは収まっていたが、まだ赤みは残っていた。

「ねぇ、お嬢さん」

 エルウィンは、隣で黙々と駒を動かす灰色の髪の少女に話しかける。

「僕は、まだまだ『中途半端な軍人』だけど――」

「そうだな、中途半端もいいところの、極めてお人よしな想像力の足りない軍人だな。なぜ君が少尉になれたのか、全く理解に苦しむ」

「すみません」

 遠慮のないズケズケとした言葉に、エルウィンはうなだれる。そんな護衛の様子にはかまわず、S002は白のナイトを動かして黒のポーンを取る。

「――で、続きはなんだ」

「え、あ、ええと」

 珍しく先を促されて、エルウィンは戸惑いながらも言おうとしていたことを言葉にする。

「僕、がんばるから。護衛係として、女の子のお嬢さんを、絶対に守るから。だから、一つ約束してほしいんだ」

 エルウィンの青い瞳と、灰色の澄んだ瞳が合う。S002の瞳を、エルウィンは以前、まるで人形のようになにもない空虚な瞳だと感じたが、今は、さまざまな感情を静かに押しとどめた瞳のようだと感じた。

 エルウィンは、その深遠な彼女の瞳をまっすぐに見て真剣な口調で懇願する。

「二度と、前みたいに僕の前で、簡単にその命を投げ出さないって約束して」

 以前彼女が見せた眉間に拳銃を向けるしぐさを、エルウィンはどうしても忘れることができなかった。命よりも、情報が優先される世界に生きているからこそ、いっそう、命を大事にしたいとエルウィンは思った。ましてや彼女の『護衛』である自分が彼女を手にかけるなどということは、考えたくもないことだった。

 それが甘い考えだということは十分自覚していたが、ソルテラン王国陸軍情報部隊の少尉という責任ある位に就いている今、なにかしら覚悟を決めなければならないのだと強く感じていた。そしてそれならば、守ると決めたものは最後まで守り通す覚悟を、エルウィンは決めたのだった。

 おそらくいままで誰からも言われたことがないであろう言葉に、S002は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 それから、視線をボード上に戻しうつむいた。グレーの瞳には白と黒の駒が映っていたが、彼女はそれらを見ているわけではなかった。

「……『お嬢さん』でいい」

 ポツリと落とされた言葉はあまりにも唐突で、そしてとても小さな言葉だった。S002は顔を上げると、呆気にとられているエルウィンと視線を合わせながら、

「わたしは自分の名前が分からない。だから……名前を思い出すまでは『お嬢さん』でいい」

 言い終えて恥ずかしくなったのか、青白い頬をほんのり紅く染めると、またチェスボードに視線を戻す。ぞんざいに白のキングを手に取り、ボードの角に、ポンと1マス、進めた。

「そっか」

 エルウィンは嬉しくなり、知らず、顔をほころばせていた。黒のルークを取ると、白のキングの2マス隣にポンと置く。

「チェックメイト」

「なっ」

 お嬢さんは悔しそうに、身動きの取れなくなった白のキングを見つめた。それから、むむむ、と低い声で唸っていたが、やがて顔を上げると、

「もう一度、ちゃんと初めから勝負だ」

「えっ!?」

「当たり前だ。途中参戦した挙句にわたしから勝ち逃げなんて、ゆるさん」

「でもこの後まだ始末書が……」

「少尉……」

 凄みのある瞳で睨まれる。

「わかったよ」

「うむ。わかれば良い」

 エルウィンは優しい笑みを浮かべながら、仕切りなおされたボード上から白のルークをとり、3マス進めた。お嬢さんは難しい顔をして、黒のビショップを動かす。

 中尉はそんな二人の姿を見て思わず暖かい笑みを浮かべた。S002が少女らしい表情を浮かべているのを、愛おしそうに、そしてどこか辛そうに見ている。

 しばらく二人の様子を見守っていた中尉はやがて、のどかなひとときを過す二人の邪魔をしないよう静かに、執務室に戻っていったのだった。


―完―

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