第十二話
外に出ると、もうすぐ日が昇る時間帯なのか、星の散る夜空の向こうは薄明るくなっていた。外気は寒く、白衣を羽織っただけのハンスが冷たい風に身体をかすかに震わせる。
「シュティフター少尉」
研究所の金色の門に向かって歩きながら、マズル警部がエルウィンに声を掛けた。
「私は署に連絡してきますから、研究所の門のとこまで先に歩いていていただけますか。衛兵には、門のところで合流するよう、中尉が連絡しているはずです」
「承知しました」
姿勢を正して一礼するエルウィンに、警部は念を押すように忠告する。
「言うまでもないと思いますが、絶対にハンスから目を離さないでくださいね」
「はい!」
行こう、と言ってハンスの両手首を縛っているロープをしっかり握りなおし、歩き始めた。生真面目な顔で隣を歩くエルウィンの顔に、ハンスはふっと笑みをこぼす。
「あの女の子と、やっと話せるようになったんだな」
「え? ああ、はい」
不意に掛けられた言葉に、エルウィンは一瞬何のことかわからなかったが、S002のことだと思い当たり返事をした。
「『女の子』とはいえ、まさかまだあんな子供だったとはな」
「ええ」
しみじみとこぼしたハンスの言葉に、エルウィンも同調する。さっきまで一緒にいた、自分の肩にようやく届くかどうかという身長の華奢な後姿が脳裏に浮かんだ。
「少尉さんはさ、なんで軍人になったんだよ」
「それは……」
エルウィンの脳裏に、兄の後ろ姿が浮かんだ。
十八歳年上の、半分だけ血のつながったイヴェルト・シュティフター大尉は、シュティフター家に引き取られた身分の低いエルウィンに対し、本当の兄弟のように接してくれた兄だった。
クリスマスまでには戻るからね――まだ幼かったエルウィンにそう言い残して先の大戦に出征し、終戦間際の朝、ドッグタグと泥と血の滲んだ軍服の切れ端だけが戻ってきたのだった。
エルウィンはいまも、あの朝のことを夢に見ることがある。
「俺はさ、普通に、研究者になりたかったんだよな」
黙り込んだエルウィンをよそに、ハンスは静かに語った。
「病気を治す薬を開発したりさ、そういう、人の役に立つ研究を、純粋にしたかった。なのに、なんでこんなことになっちまったんだろうな……」
ひとりごとのように紡がれる言葉は、ハンス・アンカーとしてではなく、イアンとしての本心なのかもしれない。
特別研究棟を出たときはまだどちらかというと暗かった空が、さっきよりも明るくなり始めていた。夜空と朝日が半々で混ざり合った、なんとも言えない情緒的な空色の下、歩いていた二人の視界の遠くに、金色の門がぼんやりと見えはじめる。
「少尉さん」
またハンスが、話しかける。
「最後に一つ、頼みがあんだけどよ」
「なんですか」
「タバコを吸いたいんだ」
「タバコですか」
「俺はさ、こう見えても、ヘビースモーカーなんだよ。警察署に行ったら、もう吸えねえだろう? だからさ、最後に1本。白衣の胸ポケットに入ってるからさ」
後ろを振り返ると、まだ警部の姿は見えなかった。エルウィンはすこし悩んだ末、右手でロープをしっかりと掴んだまま、ハンスの胸ポケットからタバコケースとマッチ箱を取り出した。慣れない手つきで、タバコケースを開けると、茶色のタバコを1本とり、ハンスの口に咥えさせる。
「少尉さんよ」
「なんです?」
マッチに火をつけるのに苦戦しているエルウィンに、タバコを咥えたままのハンスがまた話しかける。
「『中途半端なスパイ』がひとつ、先輩として、心根の優しい少尉さんに忠告してやるよ」
まだ火の点かないマッチに一生懸命火をつけようとしているエルウィンに、いとおしそうな眼差しを向けながら、ハンスは真剣な口調で言葉を続ける。
「この先も軍人としてやっていくなら、誰にも気を許すな。少尉さんのその優しさは、長所には違いねぇが、場合によっては命取りにもなるぞ」
ようやく、ボッとマッチに火がともる。赤ともオレンジとも黄色ともつかない色の炎が、ゆうらゆうらと揺れる。
「そんなの、あなたに言われたくないです」
むっとするエルウィンに、ハンスは苦笑した。
「それもそうだな」
明け方のだいぶ白み始めた空に上っていくタバコの煙を眺めながら、ハンスが感謝の言葉を述べた。
エルウィンは炎のともったマッチを振って火を消す。
マッチ箱とタバコケースを、ハンスの白衣のポケットに戻そうと、手をポケットに掛けたときだった。
「ハンス!?」
突然、タバコを咥えたまま、ハンスの体が痙攣し始めた。
がくっと膝が折れて、地面に倒れこむ。
「ハンス、ハンス!」
――何が起きたのか、分からなかった。
突然焦点の合わないうつろな瞳で激しく身体を痙攣させているハンスに、エルウィンは動揺しながら必死に声を掛け続ける。
エルウィンの後ろのほうから、複数人が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
振り向くと、蒼白な顔の警部と中尉、そして表情のないS002がやってくるところだった。
「警部! ハンスが!」
息せき切ってやってきた警部は、既に息絶えたハンスの青白い顔を見ると、エルウィンのほうを振り返る。
次の瞬間。
バチーン!と警部の容赦ない平手が飛んだ。
「なんでとめなかったんですか!」
「と、とめるってなにを――」
「自殺です! なぜ彼が毒入り煙草を吸うことを許したんですか!」
警部の言葉で、混乱で頭がぐちゃぐちゃになっていたエルウィンは、ようやく何が起こったのかを理解した。そして、自分がやってしまったことの意味を悟り、呆然とその場に立ち尽くす。
「やはり、こうなったか」
いつの間にかエルウィンの隣にきていたS002が、地面に横たわるハンスの遺体を見下ろしながら静かに言った。そのひんやりとした端正な横顔には、なんの感情も表れていない。
「シュティフター少尉」
中尉が険しい表情でエルウィンに呼びかける。
「はい」
「ハンス・アンカーにタバコを吸わせたのは、あなたですか」
「自分です……。取調べが始まったらもう吸えないから、どうしても吸わせてほしいと頼まれました。それで、彼の白衣の胸ポケットにあるタバコを1本、言われるままに吸わせました。まさか、毒が入っていたなんて、思いも寄らなくて……」
「いざというときはいつでも死ねるように、持ち歩いていたんだろうな」
S002が冷たく言う。戸惑いを浮かべるエルウィンと目が合うと、その静かな低い声で続けた。
「スパイは、死ぬのも仕事だ。もし彼がこのまま生きていれば、間違いなく厳しい取調べを受け、知っていることを全て話させられていたことだろう。彼はそれを恐れて自ら死を選んだのだ」
「そんな……」
「自分の命よりも自分の持っている情報が優先される世界、それが、ハンス・アンカーの生きていた世界であり、君が生きている世界なのだ。分かったかね、陸軍情報部隊のエルウィン・シュティフター少尉」
エルウィンはなにも言い返すことができなかった。ただ、拳を握り締め、冷たくなったイギリススパイの顔を見つめていることしか、できなかった。




