第十一話
S002の書いたノートの文章を、ハンスは大きく見開いた眼で見つめていた。その後ろから、覗き込むようにして文を読んでいたマズル警部も、そうか、と納得する。
「カシュニー主任の話によれば」
ノートをぱたりと閉じながら、S002は変わらない口調で話を続けた。
「彼の作成したレポートには、必ずこの間違いがあったそうだ。それに確認したところ、彼の日記にも、同様の癖があった。もし遺書を書いたのが本当にヨハンならば、あのような間違いのない文章にはならなかったはずなのだよ。そして、この遺書をヨハンの白衣に忍ばせることができたのは、君しかいない」
「俺がいつ遺書を仕込んだっていうんだよ」
苛立ちか、それとも焦りからか、貧乏ゆすりをはじめるハンスとは対照的に、あくまでもS002は平然と落ち着いている。
「君はヨハンの死体を見つけたあの日のことを、マズルにこう話したそうだな。『勤務時間になっても研究所にやってこないヨハンの様子を見に、カシュニー主任と一緒に部屋を訪れた。合鍵をつかって中に入ると、ヨハンが机に突っ伏しているのが見え、呼びかけたが反応がなく、カシュニー主任は人を呼びに部屋を出て行った』」
「それがなんだっていうんだよ」
「君が遺書を白衣のポケットに入れたのは、カシュニー主任が人を呼びに部屋を出て行き、君がひとりきりになったときだ。遺書を机の上に置けなかったのは、死体発見時に机の上に遺書がないことを、カシュニー主任も見ていたからだろう」
エルウィンは、目の前で淡々と種明かしをしていく灰色の髪の小さな後姿を、感嘆の気持ちで見つめていた。ハンスは悔しそうな表情で、S002を睨みつけている。
「事件の経緯はこうだ。まず事件の起きる前の晩、ヨハン・バイヤーはビーダン・ハットで、ロベルト・リーゼンが研究所の内部情報に関するレポートをイギリスに流していたこと、そして彼が君と関係のある人物だということに偶然気づいてしまった。ヨハンが店で目にした新ソテラノ新聞には、あの日、ロベルト・リーゼンの顔写真も掲載されていたからな。それで気がついたのだろう。彼はあわてて店を飛び出し、君の元を訪れた」
まるでその場に居合わせて見ていたかのような齟齬のない話に、ハンスの脳裏にあの夜のことが蘇った。
夜、何時になく血相を変えて自分の下へやってきたヨハン。彼がなにかやらかしたのかと思い、どうしたのかと問えば、返ってきた震える言葉は、予想だにしなかった言葉だった。
――この人と、どういう関係なの? この人と、よく会っているよね。毎週火曜日に、この人と会っているよね?
自分の顔から、血の気が引くのを感じた。緊張で急に指先が冷たくなり、手汗をかいた。なんと言ってその場を取り繕ったかは、もう覚えていない。自然を装って浮かべた表情が悉く、ぎこちない作り笑いとなって顔に刻まれていくのを嫌というほど感じていた。
「ヨハンにロベルト・リーゼンとの関係を問い詰められた君は、口封じに彼を殺すことにした。ヨハンの好物である焼アーモンドに毒物を仕込み、隙を見てヨハンの白衣のポケットに入っている焼アーモンドとすりかえたのだ。多少なりとも訓練された人間なら、素人のポケットの中身をすりかえるなど簡単なことだ。それに彼が白衣のポケットに焼アーモンドを入れていたことは、彼と一緒に仕事をしているものなら誰でも知っていることだったから好都合だったろう。準備をととのえた君は、あとは彼が毒入りの焼アーモンドを食べ、息耐えたときに第一発見者になり、遺書をどこか見つかる場所においておけばいいだけだった」
「……くそっ」
ハンスが憎々しげに悪態をついた。
「ところで『イアン・シュランク』という名前だが……」
また、S002が口を開いた。
「なぜこんな手がかりを残すような名前をわざわざ使ったのだ」
「手がかり? お嬢、どういう意味だ」
言っていることがわからない、という表情を浮かべる警部が口をはさむ。S002はマズルのほうを見ると、またノートに短く何かを書いた。その様子を、ハンスはただ怖い顔で睨んでいる。
「遺書やレポートに書かれていた名前がこれだ」
S002はペンで書いたEan Shrankという名前をマズルに見せた。
「このイアンの頭文字だが、ほとんどの場合はIanというつづりが普通だ。Eanと書くのはアイルランドにルーツがある人々に限られる。スパイとしての偽名ならば、割合の少ないEanというつづりよりも、圧倒的に割合の多いIanというつづりを使うほうが自然だろう。そのほうが印象にも残りにくいからな。しかし、ここではEが使われている。それはなぜか――それは、これがアナグラムになっているからだ」
「アナグラムか!」
エルウィンは考え付きもしなかった言葉に思わず叫んだ。S002はノートを少尉に渡しながら、
「そうだ少尉。ほら、確かめてみるといい」
エルウィンは、Ean Shrankの文字の下に、Hans Ankerと書き、二つの名前のアルファベットを照合していった。一文字も、余ったり足りなかったりする文字はなかった。
「――イアンは、俺の本当の名前だ」
不意に、イアンが観念したような声で言った。
S002が、興味を持ったような視線を向ける。
「ほう。君は、本名でスパイ活動を行っていたのかね。随分と無防備なスパイだな」
「……うるさい。それに、本名なのはイアンだけだ。俺の苗字は、シュランクでもなければ、アンカーでもない」
「なら、本名はなんというのだ?」
問いかけるS002に、ハンスはフッと荒んだ笑みを漏らす。
「そんなもの、言うわけがないだろう。俺は、中途半端だろうが、これでもスパイなんだ」
「そうか」
「……ねぇ」
突然、今度はエルウィンが口を開いた。青い瞳に困惑の色をにじませながら、ハンスに問いかける。
「どうして、簡単にヨハンの命を奪えたの?」
「身元がバレたからだよ」
短い答えには、苛立ち以外のなにか――やりきれない思いがにじんでいた。
「俺は……、スパイは、身元がバレたら終わりなんだ」
余りにも悲しい表情でうなだれるハンスに、エルウィンはかける言葉が見つからない。ふたたび、居心地の悪い沈黙が部屋に訪れる。
「よし」
終止符を打つように、警部がパン、と手を叩いた。
「これ以後の取調べはこちらで行います。立つんだ、ハンス・アンカー。知っていることは全て、話してもらう」
椅子の拘束を解きながら、警部がハンスの耳に顔を近づけて凄んだ。それから立ち上がらせると、中尉に声を掛ける。
「フランツ中尉、署までハンスを連れて行く間、見張りとしてシュティフター少尉をお借りてもかまいませんかね」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
首根っこを掴まれ、引きずられるようにして歩かされるハンスの横に、エルウィンは付き添う。悲痛な表情を浮かべたまま、警部やハンスと一緒に部屋を出て行くエルウィンを、S002はどこか気にかかる様子で見つめていた。




