第十話
――満月の明るい夜。
研究者用寮の一階の、一番端にあるエルウィンの部屋に、エルウィンとS002は本棚の影にしゃがんで隠れて真犯人がやってくるのを待っていた。隣の部屋には、クリストフ中尉とマズル警部も待機している。
「本当に来るかな」
エルウィンは、昼間の食堂での会話を思い返しながら不安げに、隣にいるS002に訊いた。
「だって、食堂でふつう、あんな大事な会話はしないよ。ちょっと考えれば罠だって気づくと思うけれど」
「もし犯人に少しでも冷静さが残っていれば、罠かもしれないと疑うだろうな」
緊張と不安でいっぱいのエルウィンと対照的に、あくび交じりのぬるい声でS002が答えた。目じりに浮かんだ涙をその青白く細い手でそっとぬぐうと、確信があるように断言する。
「だがそれでも、必ず来るよ」
「どうして」
「どんな些細なことでも、自分に関する情報・痕跡を残すことを、スパイは極度に恐れるからだ。とくに、『彼』のような中途半端なスパイは、な」
「中途半端?」
「ああ」
灯りを消した暗い部屋のなかで、S002の低い、静かな声が続く。
「偽の遺書をポケットに入れたことといい、焼アーモンドに毒を仕込んだことといい、引き出しにレポートを残したことといい、『イアン・シュランク』などという名前を使ったことといい、『彼』の工作は悉く中途半端で雑だ」
言い終えてから、ふわぁ~っ、と猫のようにしなやかな背伸びをした。
この部屋に潜んでかれこれ二時間が経とうとしている。影などで犯人に部屋に潜んでいることがばれないよう、窓のカーテンも締め切り、室内は完全に暗闇に包まれていた。
――トントン。
突然、静寂に満ちていた部屋に、ドアをノックする音が響いた。暗闇に眼が慣れてきていたエルウィンとS002は、思わず二人顔を見合わせる。S002が小さくうなずく気配を感じた。
――トントン。
もう一度、相手はドアをたたいた。まるで、様子を伺うかのように。
それから一分ほどしたころ、今度はカチャカチャ……という訊きなれない音が聞こえてきた。
「ねえっ」
思わず小声で言いかけたエルウィンの口元を、S002の小さな手が塞ぐ。
カチャカチャカチャ……カチャリ。
僅か十秒ほどだった。
ゆっくりと静かにドアが開けられ、廊下の明かりが部屋に射し込む。
足音を立てないよう静かに一歩一歩部屋に入ってきた侵入者は、ドアを閉めると、懐中電灯の灯りをつけた。再び闇にしずんだ室内に、オレンジ色の灯りがぼうっとつく。
そして、室内を探るように電灯の明かりをあちこちに当てると、左脇に置かれていたエルウィンの机に近づいていく。
カラカラ……。
そっと引き出しが開けられる。
なかに整頓されてしまわれているノートやら本やら地図帳を、一つ一つパラパラと中を確認しながら、侵入者は目的の物を探した。ノートも本も地図帳も、空っぽだった引き出しに、エルウィンが午後のうちに入れておいたものだった。当然、ノートには何も書かれていない。
ガサガサ……。
引き出しを探る侵入者は、そうとは知らず必死に、しかしあくまでも静かに手帳を探している。そしてやがて、はたりと一瞬、侵入者の動きが止まった。どうやら、見つけたようだ。
フッ、と侵入者が笑みをこぼすような気配を、本棚の影に潜むエルウィンとS002は感じた。エルウィンたちの眼前で、侵入者は手帳だけを机の上に残し、あとのものは元通りにしまっていく。
そして、手帳をポケット入れ、部屋を出ようとドアへ向かったとき――。
「そこまでだ」
誰もいないはずの闇のなかから突然聞こえてきた女の子の低い声に、驚いて侵入者は振り返る。それとほぼ同時に、エルウィンが部屋の明かりを付けた。
パッ――と突然明るくなった部屋に、眼をくらませながらもエルウィンが見たのは、蒼白な顔をして立ち尽くしている、白衣姿のハンス・アンカーだった。
正体の明かされたハンスは、急いで部屋から逃げていこうとしたが、隣の部屋に待機していた中尉と警部に捕まった。最大限の抵抗を試みたものの、男二人をふりきれるはずもなく、手近にあった椅子に拘束されたのである。
ハンスが盗もうとしたネイビー色の手帳は、S002が罠で用意したものだった。
椅子に黙って縛り付けられているハンスを、エルウィンは戸惑いを超えて唖然とした表情で見つめていた。なぜ彼が――その言葉しか、頭に浮かばなかった。
「ねぇ」
深刻な表情をしている警部や中尉と違い、退屈そうに机に寄りかかっているS002の肩をエルウィンはつつく。
「なんで彼がスパイだって分かったのか、お嬢さんの解説がほしいんだけど」
そんなことか――とS002が大きなあくびを隠さずにしながら言った。目じりにまた、透明な涙が浮かぶのを、すっと手の甲でぬぐう。
「少尉、もともとは君が解決したがっていた事件だ。君が解説しろ」
「え! いや、そんな無理だよ……」
「なぜ無理なのだ。君だって情報部隊の人間だろう。それにこれは士官学校の卒業試験レベルだよ」
エルウィンは絶句した。救いを求めて警部のほうを見ると、警部はエルウィンと視線が合わないように眼を伏せがちにしながら、ポケットからタバコを取り出し、火をつけていた。
「ええっと……」
エルウィンはとりあえず何かの言葉を発しようとした。けれど、なにを話したらいいのか、さっぱり分からない。
「少尉、君……」
隣でもごもごしている、自分よりもずっと背の高いエルウィンにS002は遠慮のない驚愕の眼差しを向けた。
「もしかして、本当にわからないのか」
あきれるような瞳に見据えられて、沈黙すること、数秒。
「……すみません」
はぁ――とS002はかったるそうに大きなため息をついた。
それから机に寄りかかるのをやめて、椅子に縛られ黙ってこちらを睨みつけているハンスの前までとことこと近づいて言った。
「君は四つ、失敗を犯した。一つ、自殺に偽装するための遺書を、机の上ではなく白衣のポケットに入れたこと。一つ、毒を飲ませる手段に焼アーモンドを利用したこと。一つ、鍵のかからない引き出しに、レポートを残したこと。そして――あと一つがなにか分かるか」
「なんだっていうんだよ」
「あの遺書の文章だよ」
獣のようなハンスの瞳にもひるまずに、S002は答えた。
「遺書?」
S002はくるっと振り返ると、机の引き出しを開けてノートとペンを取り出し、まるで穏やかに水が流れるような美しい筆記体で、なにか書き始めた。
<Ich habe Sorteland verraten also büße ich meine Schuld. ――Ean Shrank>
書き終えたノートのページを掴んで、S002はハンスに見せる。
「ハンス・アンカー、これは君が書いたものだろう」
「違――」
「この文章は、ヨハン・バイヤーには絶対に書けないものなのだよ」
否定するハンスの声にかぶせるようにして、S002ははっきりと断言した。それから、またペンを持ち、書いた文章の下に、またなにか書き始める。
「ヨハンには、ソルテランへ来て三年経った今も英語の癖が残っていた。主語を文の途中でも大文字にして書く癖、そして接頭辞Sch-をSh-と書いてしまう癖……」
話しながら、ペンで文章を書いていく。
隣で覗き込んでいたエルウィンは、完成した新たな文章を眼にして思わずはっと息を呑んだ。
S002は、完成した文章をまたハンスに見せる。
<Ich habe Sorteland verraten also büße Ich meine Shuld. ――Ean Shrank>
「ヨハンの遺書に見せかけるなら、こう書くべきだったな」




