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被験者探偵S002  作者: 柏木弓依
~極秘手術を受けた少女(全13話)~
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第九話


 薄暗い乱雑な部屋のなかで、男は一心不乱に、茶色の表紙の手帳を読んでいた。見慣れすぎたドイツ語の綴られたページを、目を血走らせてめくっていく。やがて、忘れもしない『あの日』のことが書かれたページに来た。日記帳の、最終ページだ。

『ビーダン・ハットのグリルチキンが、今日も美味しかった。もうちょっとだけ、今夜はデータ整理をがんばろうと思う。』

 白いページに書かれた文章は、たったこれだけだった。

 この文を書いたときには、彼はもう、自分の穢れた正体を知っていたはずなのに。それなのに、一言も書かれていない。

 きっとこれを書いたときには、まさか自分に殺されるなどとは思いも寄らなかったに違いない。

――どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 意に反してこの国に送り込まれ、周りと打ち解けられずに苦しかった日々に、心から楽しいと思える光をあててくれた人。そんな人をなぜ、殺めなくてはならなくなってしまったのだろう。

――いや、あの楽しかった日々は、偽りの日々なのだ。

 男はそう、言い聞かせた。

 五歳で戦争孤児となり、そしてイギリスのスパイだった『N』に拾われたあの日から、自分の生活は、いや、自分自身でさえも、嘘で塗り固められたものなのだ。国に利用されて生きる以外に、自分が生きられる術はなかったのだ。

 偽りに偽りを積み重ね、その上に危うく存在している『自分』という存在。

 育ての親代わりとなってくれた『N』と『自分』との日々は、所詮は『父子ごっこ』であり、『研究所の仲間』と『自分』との日々は、所詮は『研究者ごっこ』なのだ。

――いったい、自分は何者なのだろう。

 いや。

 男は頻繁に浮かぶ疑問符を胸の奥深くにしまいこむ。

 そんなことはどうだっていいのだ。いまさら、何者かなんてどうでもいい。これからも、こうして誰かを演じ続けるしかないのだから。

 翌日の昼休み、男は一般研究棟のそばにある食堂で、パスタを食べていた。

 食堂は、食券を購入してから、トレーを持って列に並び、ガラスケースに並べられているサラダなどのサイドメニューを選んでいくようなセルフサービスの食堂で、昼休みは研究所の職員たちで毎日ごった返していた。当然、座席も自由に選べるような余裕はなく、男が座っているカウンターの席も、たまたま運よく空いている席だった。

「――シュティフター少尉、それは証拠です。なぜ報告を怠ったのですか」

 黙って食べていた男の耳に、突然、後ろから聞き覚えのある声が飛び込んできた。おもわず後ろを振り返ると、見覚えのある深緑色の軍服を着た若い男と、コーヒー色のスーツを着た男が、なにやら声を抑えて話していた。軍服の男はよほど疲れているのか、それともよほど甘いものがすきなのか、苺のショートケーキをふたつもトレーに載せている。知らず、男の口元が緩んだ。

「すみません。内容をちゃんと確かめてから、警部にはお渡ししようと思っていたんです」

「まだ中身は読んでいないのですか」

「ええ。でも、引き出しの奥に、まるで見つからないようにしまわれていたので、たぶん、なにか重要な手がかりが書かれているのではないかと思いまして」

 二人の会話に、男は耳をそばだてずにはいられなかった。パスタを巻く手は、完全に止まっている。動機は激しくなり、身体中が、自然とこわばっているのが分かった。

 二人の男は、会話を盗み聞きされていることには一向に気づかないらしい。真剣な口調で、話しこんでいる。

「その手帳は、いまどちらに?」

「自分の部屋に置いてあります。夜は出かけなければならないところがあるので、明日あたり、読んでみるつもりです」

「そうですか。なにか手掛かりを見つけたら、報告してください」

「承知しました」

「さて、昼休みは終わりですね。早くそのケーキを食べて、お嬢のところに戻ってあげてください」

 顔に傷のある男が席を立つ音で、男は我に返った。

――証拠は、取り返さなくては。

 すこししてから、後ろで、軍服の男が席を立つ音が聞こえた。 

 この研究所には異質に感じられる、いかにも軍人らしい規則的な足音が、徐々に遠ざかっていく。

 軍服の男が席を立ってしばらくしてから、男はトレーを片付け、食堂を後にした。

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