第九話
薄暗い乱雑な部屋のなかで、男は一心不乱に、茶色の表紙の手帳を読んでいた。見慣れすぎたドイツ語の綴られたページを、目を血走らせてめくっていく。やがて、忘れもしない『あの日』のことが書かれたページに来た。日記帳の、最終ページだ。
『ビーダン・ハットのグリルチキンが、今日も美味しかった。もうちょっとだけ、今夜はデータ整理をがんばろうと思う。』
白いページに書かれた文章は、たったこれだけだった。
この文を書いたときには、彼はもう、自分の穢れた正体を知っていたはずなのに。それなのに、一言も書かれていない。
きっとこれを書いたときには、まさか自分に殺されるなどとは思いも寄らなかったに違いない。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
意に反してこの国に送り込まれ、周りと打ち解けられずに苦しかった日々に、心から楽しいと思える光をあててくれた人。そんな人をなぜ、殺めなくてはならなくなってしまったのだろう。
――いや、あの楽しかった日々は、偽りの日々なのだ。
男はそう、言い聞かせた。
五歳で戦争孤児となり、そしてイギリスのスパイだった『N』に拾われたあの日から、自分の生活は、いや、自分自身でさえも、嘘で塗り固められたものなのだ。国に利用されて生きる以外に、自分が生きられる術はなかったのだ。
偽りに偽りを積み重ね、その上に危うく存在している『自分』という存在。
育ての親代わりとなってくれた『N』と『自分』との日々は、所詮は『父子ごっこ』であり、『研究所の仲間』と『自分』との日々は、所詮は『研究者ごっこ』なのだ。
――いったい、自分は何者なのだろう。
いや。
男は頻繁に浮かぶ疑問符を胸の奥深くにしまいこむ。
そんなことはどうだっていいのだ。いまさら、何者かなんてどうでもいい。これからも、こうして誰かを演じ続けるしかないのだから。
翌日の昼休み、男は一般研究棟のそばにある食堂で、パスタを食べていた。
食堂は、食券を購入してから、トレーを持って列に並び、ガラスケースに並べられているサラダなどのサイドメニューを選んでいくようなセルフサービスの食堂で、昼休みは研究所の職員たちで毎日ごった返していた。当然、座席も自由に選べるような余裕はなく、男が座っているカウンターの席も、たまたま運よく空いている席だった。
「――シュティフター少尉、それは証拠です。なぜ報告を怠ったのですか」
黙って食べていた男の耳に、突然、後ろから聞き覚えのある声が飛び込んできた。おもわず後ろを振り返ると、見覚えのある深緑色の軍服を着た若い男と、コーヒー色のスーツを着た男が、なにやら声を抑えて話していた。軍服の男はよほど疲れているのか、それともよほど甘いものがすきなのか、苺のショートケーキをふたつもトレーに載せている。知らず、男の口元が緩んだ。
「すみません。内容をちゃんと確かめてから、警部にはお渡ししようと思っていたんです」
「まだ中身は読んでいないのですか」
「ええ。でも、引き出しの奥に、まるで見つからないようにしまわれていたので、たぶん、なにか重要な手がかりが書かれているのではないかと思いまして」
二人の会話に、男は耳をそばだてずにはいられなかった。パスタを巻く手は、完全に止まっている。動機は激しくなり、身体中が、自然とこわばっているのが分かった。
二人の男は、会話を盗み聞きされていることには一向に気づかないらしい。真剣な口調で、話しこんでいる。
「その手帳は、いまどちらに?」
「自分の部屋に置いてあります。夜は出かけなければならないところがあるので、明日あたり、読んでみるつもりです」
「そうですか。なにか手掛かりを見つけたら、報告してください」
「承知しました」
「さて、昼休みは終わりですね。早くそのケーキを食べて、お嬢のところに戻ってあげてください」
顔に傷のある男が席を立つ音で、男は我に返った。
――証拠は、取り返さなくては。
すこししてから、後ろで、軍服の男が席を立つ音が聞こえた。
この研究所には異質に感じられる、いかにも軍人らしい規則的な足音が、徐々に遠ざかっていく。
軍服の男が席を立ってしばらくしてから、男はトレーを片付け、食堂を後にした。




