092.絶望と抗う力
ヘルゲ・リエッキネンが配属されたノーテボリ砦は、カレリア建国戦争の折、英雄の一人がこの地で奇襲を受け命を落としたカレリアにとっては縁起の悪い土地である。
建国伝承はこの事件で、敵の卑劣さと不運な英雄を美しく物語っているが、地政学的に考えればこの地で奇襲を受けることはそれほど不自然ではない。
西方への見張りとしての機能を持つノーテボリ砦であるが、周辺地形の関係上、どうしても視界の確保が難しく、そこら中に死角ができてしまうのだ。
もちろんそれがわかっているからこそ、砦を中心に各所に見張り塔を建て監視網を作り上げてあるので、これをきちんと運用すればそうそう奇襲は受けないだろう。
祖父の死に落胆するヘルゲであったが、この砦に配されるとすぐにこの見張り塔を確認し、最低限の仕事は当たり前にこなしてみせる。
ヘルゲはこの地に来るのは初めてで、それでも来る前より監視塔が重要であることは知っていた。
それだけでも賞賛に値しよう。
監視体制に漏れが無いことを確認したヘルゲは、執務室として割り当てられた部屋で一人、この砦の前の長の残した書類に目を通す。
だが、どうしても書類に意識が向いてくれない。
手が震えるのが、自分でもわかる。
いつもついてくる取り巻きは、二人共置いてきた。
ヘルゲにもわかっている。
ドーグラス元帥が失われたヘルゲを守るものは最早無く、イェルケルたち第十五騎士団がヘルゲを殺すための条件は、既に整っていることを。
ヘルゲはリエッキネン家の人間ではあるが、イェルケルたちは相手が侯爵家だろうと子爵家だろうと引きはしない。
邪魔をするというのならば平然と家ごと叩き潰しにかかる。
だからこそ、ヘルゲは絶対に実家は頼れない。
取り巻きも護衛も居るだけ無駄だ。あの連中を防ぐだけの兵力を、ヘルゲは揃えることができない。
そも、暗殺に動かれたらどうしようもないのだ。
ヘルゲにできるのは、これまで世話になった者たちに残せるだけのものを残し、自らは誰にも迷惑をかけぬよう静かに終わるのみだ。
こうなるとわかっていた。
こうなるとは思っていなかった。
どちらも真実だ。
ヘルゲが最も頼りとする友にして配下である二人は、闘技場の後、イェルケルとの和解を何度も勧めてきた。
それを受け入れなかった理由は、ヘルゲ自身にもわかってはいない。
表面的には、アレに頭を下げるのが絶対に嫌だったというものだ。
だが、頭を下げる程度のことが、どうしてイェルケルに対しできないのかがまったくわからない。
騎士学校を出て、隊長に怒られ、それ以外のたくさんの人たちに教わり、導かれ、ヘルゲは他者に頭を下げることもできるようになっていたはずだ。
なのに、イェルケルにだけは絶対に、そうしたくないのだ。
理由もわからぬままずるずるとそんな状態が続き、今、こうして絶体絶命の状況にある。
己の余りの愚かさに乾いた笑いすら出てくる。
イェルケルならば、ヘルゲを見逃すという選択もありえるかもしれない。
だがいざそうなった時を想像すると、ヘルゲの体内から押さえきれぬほどの憤怒が湧き上がってくるのだ。意味がわからないにも程がある。
これまで生きてきて、こうまで自分がわからなくなるのはこれが初めてだ。
何が恐ろしいかといえば、そんな色んなことがわからぬ自分に、何故か納得してしまっていること。
わからぬが、これでいい。
ドーグラス元帥の期待に応えられず、これまで目をかけてくれた人たちに背を向け、命をすら失おうというのに、いったい何がどう良いものか。
「……イェルケルの奴に聞けば、答えはわかるのかね」
だがきっとイェルケルは来ないだろう。
ヘルゲを殺すのは暗殺が最適だ。
ならば三人の騎士のどれが来てもいいが、単身でそうするのが一番見つかり難いだろうから。
今、ヘルゲの心中にあるのは、重く深い敗北感だ。
ヘルゲ・リエッキネンは、イェルケルに敗れたのだ。
それを認めるのに少し忍耐が必要であったが、認めたのなら後は、己の矜持に賭けこれを受け入れるのみだ。
祖父のもとにすぐに行くことになろうが、その時祖父に対し胸を張れぬような死に方だけはすまい、と自らに言い聞かせる。
ヘルゲの思考がそこで止まったのは、部屋の扉を叩く音のせいだ。
入室を許すと、兵士の一人がヘルゲに報告してきた。
「見張り塔の一つから、定時の連絡が来ないのですが」
思わず舌打ちする。
見張り塔の兵士たちには、役目を正確にまっとうせよとヘルゲが直接言ってきたばかりだというのに、すぐにこれとは。
「すぐに?」
ヘルゲの言葉を聞いた兵士たちの顔を覚えている。
訓練でも手を抜きさぼるような馬鹿共ではない、彼等は立派な兵士の面構えをしていた。
ヘルゲの背筋に冷たい何かが滑り入る。
「他の見張り塔は?」
「え? あ、いえ、まだそちらは定時ではないので……」
「一応だ、全ての塔に向け狼煙を上げろ」
「す、全てですか?」
「いいからさっさとやれ!」
「はいっ!」
兵士の後を追うようにしながらヘルゲも砦の城壁に登る。
全ての見張り塔に向かって、返信求むの狼煙を上げる。昼日中のことでもあり、狼煙を見逃すことはありえまい。
ここまで来て、兵士達もようやく事態の深刻さに気付いた。
ただの一つも、返信の狼煙が上がらない。
ヘルゲが叫ぶ。
「伝令を出せ! 現状を伝えるだけで将軍たちはわかってくれる! 急げ!」
手紙だのなんだのもなく、着の身着のままの兵士が馬に飛び乗り、城門より外へと駆け出していく。
これを城壁上からじっと見守るヘルゲと兵士たち。
地平線の彼方に消えていこうとする小さな小さな騎馬は、皆が見守る中コテンとその場に倒れ動かなくなった。
「総員戦闘準備! 既に包囲は済んでいる! すぐにここまで辿り着くぞ! 全周警戒! 羽虫一匹見落とすな!」
怒鳴るヘルゲに従い兵士たちは一斉に動き出す。
騎馬が倒れた場所を睨み続けるヘルゲ。
その目に、兵士たちがわらわらと現れてくるのが見えた。
数百。そんなところだ。
だが、ヘルゲはそんなものではないと考えている。
程なく各所から報告があがってくる。
ヘルゲが最初に怒鳴った通り、敵は既にノーテボリ砦を包囲しており、これを突破して伝令を走らせるのは不可能だろう。
見張り塔をこちらに悟られず全て同時に無力化し、こちらに気付かれぬままに砦を包囲し終える。
そうできる兵力を考えるに、敵は最低でも千は超えていよう。
対するノーテボリ砦の兵士は三百。
篭城すればどうにか戦える数だ。
まるで予想外のことで動揺する兵士たちであったが、ヘルゲは自信を持って彼らに命令を下す。
若年ながらその動じぬ態度に、そしてドーグラス元帥の孫という触れ込みに、兵士たちは次第に落ち着きと戦意を取り戻していく。
「ふん、これもまた宰相閣下の予定の内よ! ならばこそ! 俺がこの地に派遣されたのだからな!」
そう誇らしげに叫ぶと、兵士たちは歓声を上げる。
強がりでもなんでも、力強い言葉はそれだけで意味があるものだ。
皆をそうやって鼓舞しながら、ヘルゲは思考を進める。
いやこれは、既に出ている答えを確認する作業だ。
この地、ノーテボリに多数の兵を派遣するには、地形から言ってもイジョラ魔法王国の領土を通過しなければならない。
千を超える兵力となれば尚更だ。
つまりこれは、イジョラが認めている軍であるということ。
先の戦の追加の二万といい、最早言い逃れはできまい。
敵はイジョラだ。イジョラはカレリアを裏切った。
こうして包囲したのは、この報せを少しでも遅らせるためだろう。
このノーテボリ砦を落とし侵攻の足がかりとした場合、カレリア国内の南部なり西部なり、どちらにも動くことができる便利な場所なのだ。
だからこそ、イジョラは決してこの砦を見逃しはしないだろう。
そしてそろそろ砦を包囲する敵兵数がはっきりしてくる。
各所からの報告を合わせると、およそ三千。三百で砦を守れというのはかなりの無茶だ。
しかしそれですら、ヘルゲの予測からすればまだマシな話である。
イジョラがここで動くというのなら、イジョラ正規軍が動く。
それもカレリア内乱に乗じるとなれば本格的な侵攻となろう。その場合、三千なんて数で済むわけがない。
先遣隊が三千であるのなら、この後に続く本隊は、万を超える軍勢であろう。
今のうちに三千の包囲を突破しなければ万に囲まれることになるが、はっきり言って無理だ。
かと言って援軍が来るかと言われればまたこれも難しい。
最も近い砦からは馬で飛ばせば一日かからないだろうが、三千、そして万の兵をどうこうできる規模ではない。
つまり、どういうことかと言えば。
『終わりだ。絶対に生きては帰れん』
そう自分で結論を出した瞬間、あまりの滑稽さに噴き出してしまいそうになる。
みんなが必死に防戦の準備をしている中、それはあまりに不謹慎だろうと必死に堪えたのだが、兵士たちの幾人かはヘルゲのそんな顔を見てしまっていた。
「……おい、マジか。ヘルゲ様笑ってねえかあれ」
「すげぇ、強がりだとしても普通この状況で笑えるか?」
「やっぱ元帥の孫って本当だったんだな、おい、これなんとかなるかもしんねえぜ」
彼らがぼそぼそと話しているのを他所に、ヘルゲは一度執務室に戻る。
兵たちの士気は充分で、細かな防戦準備などはここに来たばかりのヘルゲにはよくわからないので、下手に口を出しては邪魔するだけになってしまう。
室内に入ったヘルゲはしっかりと部屋の鍵をかけ、誰からも聞こえないだろう、と確信したうえで、腹を抱えて大笑いを始めた。
「ばっ、ばっかくせええええええええ!! なんだコレ! なんなんだよこれ! 意味がわかんねえよ! イェルケルとかおじいさまとかぜんっぜん関係ねえじゃん! さんざ悩んで考えときながら、いきなり出てきた意味のわからん奴に殺されるってか!? やっべ、あまりにアホらしすぎて笑いが止まんねえ!」
いやいや、と段々笑い声も落ち着いてくる。
「父上が軍人は止めろって言っていた意味、ようやくわかったわ。これが軍人か、こんな、自分の出自も能力も全く関係ない所でいきなり死ななきゃならんのが軍人なのか。確かにこれは、貴族のやっていい仕事じゃないわな」
或いはドーグラス元帥ならば、或いはイェルケルたち第十五騎士団ならば、こんな困難すら乗り越え生き残れるのかもしれない。
そんな非常識をこなしてしまうのが、英雄と呼ばれる存在なのだろう。
ヘルゲは自分を知っている。
自分は絶対に英雄などにはなれないと。
それでも、心のどこかで自分もそうなれるかもしれない、そんな欲目があったと思う。
だがこうして目の前に英雄の条件を提示されれば嫌でも理解できる。
無理だ。
ありえない。
ヘルゲの未来はここで自害するか敵に殺されるかのどちらかのみであろうと。
「ひっでえ話だ。誰だよこのカード配った馬鹿、目の前に居たらそのクソディーラー叩っ斬ってやるところだ。ああ、もう、本当に、どうしてくれようか」
イェルケルよりの暗殺を受け入れたヘルゲであったが、だからとこれはまた別の話だ。
何より、こんな横から湧いて出てきたような連中に、ただ座して殺されてやるなんて納得ができない。
「クソッタレが。いいぜ、そっちがそういうつもりならよ。こっちもだ。テメェらの都合なんざ知ったことか。とことんまで逆らって一人でも多く道連れにしてやろうじゃねえか。カレリアなめたらどうなるか、この俺が、ドーグラス・リエッキネン元帥の孫、ヘルゲ・リエッキネンがてめぇらに叩き込んでやる」




