最初で最後の口づけ
※死の描写があります。ハッピーエンドではありません。
「――王女殿下」
重たい音を立てて扉を開くと、中で座っていた人影がゆっくりと振り返った。
顔色が悪いのは仕方のないことだろうが、その表情はとても穏やかで、あまりにもこの場に似つかわしくなかった。
「久しぶりね。また会うことができて嬉しいわ」
「……私は、もっと違う形でお会いしたかったです」
そう返すと、薄い唇は弧を描きながらも、眉は困ったように下がった。
「ずっと、あなたに謝りたかったの。私の護衛騎士だったばかりに、父の気まぐれで職を解かれてしまって、本当にごめんなさい」
彼女の父――国王が気まぐれだったのは一度や二度ではなく、気分次第で大臣を変えたり、次々と愛妾を召し抱えたりすることは日常で、王妃も王太子もそれぞれの贅沢に溺れていた。
そんな王族だった。
「でも、あなたをきちんと評価する人がいて良かったわ」
だから、改革派によって攻め入られた。
その改革派の中で、国王と、そして王女殿下を捕らえたのが他でもない自分だ。
かつて護衛騎士として仕えていた主を、こんな薄暗く冷たい牢の中に入れた張本人。
「あなた様は、この処遇に不満はないのですか……?」
自分が何を伝えに来たのか、王女殿下は言わずとも分かっていた。
それを分かった上で、これほどにも落ち着いていることに、逆にこちらの方が動揺して声が震えた。
それとは対照的に、王女殿下は声音をわずかも崩すことなく言った。
「民が苦しんでいるのに贅沢を止めきれなかったのですもの、この命を持って償うしかないわ」
改革派は王政の廃止と王族の処刑を決めた。
民たちも非道な王族を必要とせず、これからの国づくりに王族は一人たりとも必要とされていない。
すでに国王と王妃、王太子の処刑は終えている。
残るのは、王女殿下ただ一人。
「王族の中で唯一、民のことを思い、父王を諫めようとしたのに……っ。そんなあなた様に、こんな責任を負わせるなど……!」
王女殿下を捕らえた自分には、こんなことを言える資格などないのに、それでも堪えきれなかった願いが牢の石壁にうるさく響いた。
「いいえ。当然の責任だわ」
対照的に、王女殿下の表情は凪いでいた。
こんな最期を迎えていい方ではなかったはずなのに。
彼女だけは、守りたかった。
護衛騎士として側で仕えていた間、王族の権威を振りかざすことなどなく、誰にでも優しく平等で、それゆえに家族から疎まれていた彼女を守りたくて、けれども国王に職を解かれて離れることとなってしまった。
王政に見切りをつけた改革派に拾われ、彼女を救おうとしている間にも王政の歪みはひどくなる一方で、身柄を捕らえるという最悪の形となってしまった。
こんな残酷なことを告げるしかできない男なのに、彼女は憎しみのかけらもない瞳でこちらを見てくれる。
「私には父と、母と、兄を止めることができなかったのだから、同じことよ。私には王族に生まれた責任を取る義務があるわ」
その王族の責任どころか、民が苦んでいると分かっていても贅沢を止めず、最期までわが身の可愛さばかりを訴えていたのは紛れもなく国王夫妻や王太子だったというのに。
それでも、王女殿下がこのまま生きていれば、王政派の人間によって都合よく扱われる可能性が残るために、生かす未来はなかった。
それを誰よりも分かっているのが王女殿下自身だ。
誰にでも優しく平等で、それでいて父王を諫めようとする強さを持った女性だった。
「私は処刑場へ行かなくていいのかしら。毒杯ですませて貰えるなんて、寛大すぎるのではなくて?」
王女殿下の澄んだ瞳が、ここへ持ってきた杯に向けられる。
改革派を率いてきた新たな指導者も、彼女の命を奪っても、処刑場へ引きずり出すことは望まなかった。
この杯を持っていく役目に手を上げたのは、かつて護衛騎士として彼女の側にいた己でありたかった。
「私を捕らえたのがあなたで良かった。最後に会えて、もう心残りはないわ」
そう言って笑った顔は、ここが暗く汚れた牢の中とは思えないほどに、美しく明るかった。
青空の似合う方だった。
彼女を慕う使用人に囲まれて、いつも明るく笑っていた。
後ろに控えるこちらを振り返り、護衛騎士の名を気さくに呼び笑いかけてくれた。
そんな眩しかった日々の思い出が脳裏にいくつも蘇ってくる。
明るく光に満ち溢れていた思い出とは対照的に、今いるこの場は日差しの一筋さえ入ってこない冷たく暗い牢の中で、最期をこんな場所で迎えることに悲しさと怒りがこみ上げるが、そうさせたのは他でもない己だ。
ならば、せめて。
「私はあなた様の護衛騎士です。もう二度とお側を離れません」
些細なことで国王に職を解かれ、側を離れたことをずっと後悔していた。
側にいられたのならば、浚って逃げてでも助けたかった。
けれど、それがもう叶わないというのならば、せめて最後だけは一人にさせたくない。
持ってきた杯の中身を自分の口に含む。
腕を伸ばして引き寄せ、そのまま唇を重ねて中身を流し込んだ。
驚いたように見開かれた目をまっすぐに見つめる。
「……ずっと、こうして触れたかった……」
護衛騎士として、王女殿下に告げることも、触れることも許されなかった想い。
改革派の新たな指導者はこうすることを分かった上で、杯を運ぶ役目を己に与えたのだと、苦い鉄の味を噛み締めながら考える。
腕の中へ寄りかかってきた細い身を抱きしめると、思い出の中と同じ声音で名前を呼ばれて、たった一度だけ許されるのならばと、彼女の名前を口にした。
王族の最後の一人が消え、一つの時代が終わった――。
お読みいただきありがとうございました。




