6.0
カル、と名前を叫ぶことはできなかった。ナノの体はすぐに湖に吸い込まれるように落ちていったから。
カルはそれを見てほっとしたように笑い、それから力をなくして倒れた。その体から、最後の光魔法が迸る。目を焼くような光に取り囲んでいた人間たちが一瞬怯む。だが、人間たちに害がもたらされることはなかった。
人間はきょとんとした顔を見合わせた。手に持つ武器を見、首を傾げる者までいた。
「俺たち、こんなところで何やってたんだ?」
「うわっ、ゴブリンが死んでる! 可哀想に……」
「矢が刺さってる……」
「もう息はないか……」
先程まで向けていた害意はどこへ行ったのやら、倒れるカルの姿を憐れむ人間たち。そこにゴブリンへの偏見や敵意は見られなかった。不思議なことに、そういった負の感情は跡形もなく消え去っていたのだ。
一人の人間がふと、鼻をすんかと動かす。それから青ざめた。
「大変だ! どこかで火が起きてる!! 近いぞ」
「なっ、森に火なんて……森が死んでしまう。消しにいこう」
何人かが焦げ臭い方へ走っていく。おそらく水魔法が得意な人間なのだろう。
残った人間は、一人のゴブリンを見てどうしようか、と悩んでいたが、漂ってくる煙に仕方ない、と断じる。
「消火が間に合わないときのために、近くの人間に避難するよう指示しに行こう」
「そうだな」
また別の方向へと去っていく。去り際、カルの遺体に手を合わせたり、黙祷を捧げたり……先程までの姿からは考えられないようなことをしていった。
湖に落ちる間際に、雷魔法で自分の周囲に結界を張って落ちていったナノは上から人間がいなくなっていく様子に困惑した。湖に落ちた自分さえも射ようと矢をつがえた者さえ、そこにあった敵意が嘘のように消え、湖の中を覗くこともなく去っていったのだ。みるみる他の人間の気配も消えていく。自ら立ち去っていくのだ。
何が起きたのかわからないまま、ナノは恐る恐る水面から顔を出す。すると、沿岸に倒れ伏すカルの傍らに、一人の人間が。慌ててナノが潜ろうとしたところで何かの干渉により、ナノの雷の結界が消える。動揺したナノは、短い手足でばたばたと沈んでいきそうなのに抗った。
そこに、一つの手が差し伸べられる。すべすべした白い素肌。慣れないその手はゴブリンと比べ物にならないほどすらりと長く、それでいて力強く、ナノの体を引き揚げた。
引き揚げられると、ナノはまず咳き込み、体内の水を吐き出した。それから、自分を助けた者を見上げる。
「大丈夫?」
心配そうに見つめてくるその瞳は琥珀色に澄んでいて、ナノの中でカルの瞳と重なった。──相手は紛れもなく、人間なのに。
けれど、憎悪よりも先に、ある記憶が浮かんできた。カルが以前言っていた、カルが人間だったなら、兄弟として生まれてくるはずだった存在。人間側の光魔法の使い手。
「……貴方は……」
ナノはその空色の瞳をいっそう見開いた。まさか、この人物が助けてくれるなんて。
一方、ナノの声を聞いた少年も驚いていた。ナノの透き通った声に。彼はゴブリンは醜いものと学んできた。人間の出来損ないを名乗る醜悪な不埒者で、見るだけで鳥肌の立つような見てくれをしているのだと、彼は学んできたのだ。まさか、こんな綺麗な瞳で、こんな綺麗な声をしたゴブリンがいるとは思わなかった。勇者として称えられてきた彼が戦ってきたゴブリンは噂に違わぬ醜悪な生き物だったというのに。
このゴブリンは、違う。
口は耳元まで裂けているし、体型は人間と違うずんぐりした胴体に短い手足だが……このゴブリンは他とは違う。確かにぱっと見は醜悪だが、空色の瞳はどこで見た空よりも綺麗だった。
ゴブリンなのに綺麗。そのことに少年は困惑した。
だが、長く呆けてもいられなかった。早くに我に返ったナノが、その大きな目玉からぼろぼろと涙をこぼしながら、少年を睨み上げたのだ。
「貴方が……貴方が、カルを殺したの……!?」
憎しみ、というより、悲しみの割合が多かった気がする。カルとは誰だろう、と少年は考えて、矢が貫いたゴブリンに思い至る。少年は人間の教えに染まっていたため、まさかゴブリンが人間のように名前を持っているなどとは考えなかったのである。
けれど、考えてもみろ。仲間の死に涙を流す者が、一体人間と何が違うというのか。動物と違い、言葉も操る。名前くらいあったって、おかしくはない。
少年の理解力を高めたのは、少年がナノの想像した通り、人間側の光魔法使いだったからに外ならない。光魔法使いは本来、人間とゴブリンがわかり合うために神様が作ったものだ。理解力や悪意のなさは箔つきだ。
「ぼ、くは……光魔法使いです」
少年は必死に捻り出した名乗りは、それだった。人間がつけた勇者という肩書きはあまり気に食わなかった。
故に、彼は光魔法使いを名乗った。それだけは変えようのない事実だった。
先程、カルの放った光魔法が効かなかったのは、彼も光魔法使いであるからに外ならない。光魔法も魔法であるからにして、光魔法使いには効かないのだ。
そして、光魔法使いであるからにして、少年に嘘を吐くという概念はなかった。嘘吐きは泥棒の始まり、泥棒は悪人だ。とても単純だが、神様が凝った思考回路である。
少年はナノに誠実に答えた。
「企てたのは、確かに僕たち人間です。先程そこに倒れるゴブリンを憐れんで去っていった人たちは、この森にもゴブリンがいるはずだ、とここに探索に入りました。僕も一緒に。ゴブリンは悪です。そう断じて、ゴブリンに仇なそうとしたことは事実です。たぶん……殺すつもりでもあったでしょう」
あれだけ排ゴブリン主義だった人間たちだ。ゴブリンであるという事実だけで、ただではおくまい。譬、その瞳が澄んだ空のように美しくとも。
そういった価値観がずれていることを少年は認識していた。人間の中ではゴブリンはゴブリンであるだけで罪なのだ。そこに美的観念やゴブリンの持つ人格が反映されることはない。
──それは正しいことなのだろうか。
少年は人間の中で生きながら、そんな疑問を抱いていた。
「僕も参加していたことは確かです。だから、そのゴブリンを殺した、とも言えますね」
言い逃れのような言い方だが、少年にとって、それが最も少年の中の正確に近い答えだった。
殺したやつの仲間だったのだから、殺したとも言えるだろう。
そう告白をすることで、一体このゴブリンはどのように対処するのか……少年はこくりと小さく息を呑んだ。
少年の答えを受けたナノは、しばらく少年をまじまじと見つめた。その瞳はどんな色をも透かすような色合いで、少年は少し緊張した。
だが、ナノは今まで出会ったゴブリンと違い、仲間を殺されたからという理由だけで襲いかかってくることはなかった。やがて、凪いだような目で、骸と化したゴブリンの方を見やるだけ。
「私も、殺すのですか?」
ナノは単純に、そう問いかけた。
「まさか!」
少年の口を突いて出たのは、人間ならあり得ない言葉だった。
「僕に貴女への害意はありません。貴女は他のゴブリンと違う。人間に害を成さないなら、僕の敵ではありません」
今度はナノが驚く番だった。とても人間から出た言葉とは思えない。だが、すぐに思い至る。この少年は神様の「特別製」なのだ。
けれど、それでもやはり、彼は人間側の人物なのだ。ナノやカルのように中立を選ばなかった。
敵ではないが、味方でもないのだろう。そんな悲しい事実にナノは目を伏せるばかり。
少年はあたふたとした。どうしたらその悲しみを拭い去れるだろうか、話をできるだろうか、と。
それに少年には理解できていないことがあった。──そう、あれほど排ゴブリンを唱えていた人間が、ゴブリンの亡骸を憐れみ、このゴブリンには目もくれず去っていったのか。
「あの……さっきのは、何ですか?」
「さっきの?」
ナノには当然、心当たりはない。ナノは湖に落ちていたのだから。
少年はそれを思い返し、ナノに一連のことを伝えた。彼がナノを助け出すことができたのも、ひとえにあの現象があったからだ。
人間の前じゃ、とてもじゃないが、ゴブリンを助けるなんて真似はできないだろう。
少年の話を聞き、ナノは一つのことに思い至る。
「浄化だわ……」




