(3)透明なともだち(転校する同級生が「透明なともだち」を貸してくれるという。 やや暗い、短編公開時評価は堂々の0ポイント 初出2012.1.27)
とおみ君のまえでは、わたしは、うまくしゃべれない。
ことばは石ころになって、のどのおくにつまってしまう。
顔はあつくなって、なにも考えられなくなる。
とおみ君は、なんでも一番。
走るのも、勉強も、サッカーも。読書感想文も、なんとか大臣賞。
男子も、女子も、みんなとおみ君が好き。
とおみ君は、やさしい。
うわばきの足あとをぬぐったランドセルをしょって、
どろ水をすった手さげぶくろを持って下校するわたしの、
いつもとなりを歩いてくれた。
何もいわずに。
「ぼくは、なんでも上手にできる。知ってるよね?」
そのとおみ君が、転校してしまう。
どこか知らないところへ、行ってしまう。
「う、うん」
「どうしてだか、わかる?」
「どうして・・・だろ。とおみ君だから、かな・・・」
ぼんやりとくらい空気だけをのっけた、ブランコの前。
とおみ君が、夢みるように、ほほえむ。
とおみ君のひとみは、茶色っぽい。でもずっと見てると、緑っぽくなる。
ふしぎな、ひとみ。
「さよちゃんにだけ教えてあげる。ほかの人には、ないしょだよ」
よび出された公園に、とおみ君とわたしの、二人だけ。
二人だけのないしょの話に、たそがれが落ちてくる。
「ぼくにはね、」
――透明なともだちが、いるんだよ。
とおみ君が、わたしの耳に口をよせて、そうささやいた。
「彼が――ああ、ともだちはね、男の子なんだ――なんでも手伝ってくれていたから。
彼がいつも味方になってくれたから。だれにも見えはしないけど。
だからぼくは、いつも一番。なんでも一番」
わたしは、とおみ君に、からかわれているの?
「さよちゃんだけは、信じてくれるよね」
わたしだけ? わたしだけは・・・
「うん。信じる」
緑のひとみが、きらめいた。
「ぼくは遠くに行ってしまうけど、
夜の間だけ、さよちゃんに透明なともだちをかしてあげる。
彼は今、ここに、いるんだよ」
夜の始まりが、わずかに残る夕方の光をのみこんで、
そのとき確かに、だれかの気配をわたしはかんじた。
「ほら、手を出して」
おずおずとわたしは手をさし出して、とおみ君がその手をとった。
それから何かをつかむしぐさをして、それをわたしの手にかさねた。
「・・・!」
それは、ひんやりとした、指の、感しょく。
前髪に感じる、ひそやかな、息づかい。
「は、はじめまして。よろしく、おねがいし、ます」
わたしは、見えない相手に、おじぎをした。
「彼が、さよちゃんを、気に入ったって言ってるよ。
彼は、ずっと、さよちゃんの味方になってくれる。
でも彼は、男の子だから。
さよちゃんの心に他の男の子がいると、嫉妬するかもね」
とおみ君が、いたずらっぽくわらう。
「彼は、ごはんも食べないし、水も飲まない。
ぬいぐるみだと思って、夜だけさよちゃんの部屋に、すまわせてやってね」
「で、でも。いいの? 大切なともだちなのに?」
「うん。ぼくはもう、このともだちのおかげで、ずいぶん強くなったから。
だからさよちゃんも。これからは、大丈夫だよ」
――わたしは、これからは、大丈夫。
やさしい同級生は、どこか遠くに行ってしまった。
かわりに、わたしには、透明なともだちができた。
夜がくると、じりじりと、透明なともだちの気配が、濃くなっていく。
透明なともだちは、確かなおもみをもって、わたしのそばにそっと降り立つ。
それから、ひんやりとした両手をのばし、わたしの心をゆっくりまさぐる。
長く時間をかけて。
毎晩、毎晩。
そのうち、わたしは、待ち切れなくなって、
自分の方から、記憶の手をゆるゆるとのばす。
透明なともだちを、からめとるために。
それから、ぬいぐるみにするように、彼の背中をやさしくなぜて、
すっかり安心して、眠りに落ちる。
つらいことがあった日には、心を丸ごと、透明なともだちに渡してしまう。
透明なともだちは、ふしぎな色のひとみをまたたかせて、
心を空にしたわたしの背中に腕をまわす。
わたしの体は羽のように軽くなって、
さよ、と呼ぶ小さな声を聞きながら、
優雅な白鳥のように、眠りに落ちる。
今日も、明日も、その次の日も。
***
その日のわたしの心には、多分、見慣れないヒトが入り込んでいた。
朝の教室に入ろうとしたわたしが目にしたのは、
廊下にちらばった、色とりどりの、水彩絵の具、さいほう道具、資料集・・・
ロッカーに入れておいたはずの、わたしの持ち物。
しゃがんでそれらを拾い集めるわたしの横を、
制服のスカートをひるがえしながら、軽やかにとおりすぎる、
花のような同級生たち。
そこに、
「はい」
と、静かな声とともに、絵筆を何本か差し出す大きな手があった。
少し長めの髪の、やさしい目をした上級生。
ほんの少しだけ、昔知っていた誰かに似ている気がする、男の先輩。
夜の中で、透明なともだちが、ほろほろ、ほろほろと、涙をこぼした。
水晶のような涙が、あとからあとから流れるのが、わたしには、見えた。
ごめんね、ごめんね。
泣かないで。
わたしがいちばん大切なのは、あなただよ。
もう一度、わたしの心を奥ふかくまで、触って。
ほら。
ほかに大切なものなんか、ない。
翌日、あの上級生が、話しかけてきた。
わたしは、ただ廊下を見るように、ただ壁を見るように、その人を見て、
その人の横を通りすぎた。
あくる日、上級生は、わたしを見ても、もう話しかけることはしなかった。
その夜、透明なともだちの腕は、いつもより優しくわたしを抱きとめた。
***
わたしは、少し足が速くて、少し成績がよくて、有名なサッカー選手の名前ぐらいはわかる、平凡な人間に成長した。
スカートの皺を気にする友人と、ハンドクリームの匂いについて話すのを楽しめるようになった。
春には某女子大への進学が決まっている。
そんなわたしを、友人たちは男嫌いという。
そんなことない、とわたしは反論する。
ほんのたまに、夢の中でひんやりとした手の感触を感じて、何かを思い出しそうになる。
夜になっても、かつてわたしを慰めてくれた、優しい何ものかはもう現れない。
分かっていても、夜がくると、心がすうすうと隙間だらけになる。
誰かがわたしを待っていてくれるような、気がしてしまう。
そんなときは、夜の散歩に足を踏み出して、しんとした気配で胸を満たす。
意味ありげなくらい道、電灯のひかり、長くゆれる影、後ろに響く足音。
角を曲がって。
公園。
夜の公園。
「小夜」
わたしを呼ぶ声がした。
ブランコの前に、待っててくれる人がいた。
「元気で大きくなったんだね。嬉しいよ」
「大きくなったって・・・子どもじゃないんだから」
わたしを見つめるのは、はしばみ色のような、草の色のような、不思議な色の瞳。
「でもここまでスクスク育ったのは、遠見君が貸してくれた、透明なともだちのおかげかな」
「彼は、ちゃんと働いた?」
あのときと同じような、でもずっと大人っぽい、いたずらっぽい笑いかた。
「うん。ただ、読書感想文は手伝ってくれなかった。もう今は、来なくなってしまったよ」
「彼の役割は終わったんだね」
そう言って広げられた遠見君の腕に、わたしは躊躇なく飛び込む。
懐かしい、わたしのよく知る、腕の感触。
水晶の涙の匂い。
あのときみたいに、彼がわたしの耳に口をよせてささやく。
「本当は、透明なともだちなんて、いなかったんだよ」
わたしも、心の中にむけて答えを返す。ずっとそうしていたように。
――うん。知ってたよ。ときどきは忘れそうになったけどね。
おわり




