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第23話:このままじゃ良くないと思いますよ?

 夜の静寂が、まるで罰のように重くのしかかっていた。

 イヴォンヌは薄暗い寝室のベッドの上に腰を下ろし、膝の上に手を組んだまま、ただじっと俯いていた。


(今日も避けてしまったわ)


 胸の奥に、いばらの棘の形をした後悔が何本も突き刺さる。

 朝の挨拶をする機会はあった。昼に廊下ですれ違うタイミングもあった。それでも、イヴォンヌはアレクシスに声をかけることができなかった。

 彼の顔を見るのがただひたすらに怖かった。

 あの日――森での出来事から、イヴォンヌはアレクシスとまともに言葉を交わしていない。

 あの時の自分はひどく取り乱していた。泣きそうになって、怒鳴って、醜いところを全部さらけ出してしまった。

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。

 何も悪くない人を罵って。冷たくあしらって。

 きっとどうしようもなく聞き分けのない女だと思われたに違いない。

 イヴォンヌはシーツを握りしめた。

 ひとたびアレクシスを避け始めてしまうと、どんどん気まずさは大きくなっていった。次こそ話しかけようと思っても、いざ目が合うと、恐怖が込み上げてきて耐えられなくなってしまう。

 逃げるように背を向けるたびに、彼の視線が追いかけてきそうで、怖かった。

 このままじゃ、嫌われてしまう。

 その思いが胸をよぎるたび、涙がこみ上げる。

 けれど――あの時の自分の言葉は、もう「好き」と言ってしまったも同然だった。だからこそ、向き合うのが怖い。

 彼の本当の気持ちを知るのがイヴォンヌは恐ろしかった。

 もしも彼が同じ気持ちを返してくれなかったら。

 彼が、ただの義務として優しくしてくれていたのだとしたら。

 自分は、彼の妻としてどうしたらいいのだろう。ここから離れることは出来ない。帰る場所はない。毎日同じ屋敷で生活を共にしているのに、心は遠く隔たれたまま、何食わぬ顔で仮面夫婦を演じるなんて。

 そんな辛いこと、自分にはとても無理だ。もはや何が正解なのか、どうすれば良いのかもわからない。

 イヴォンヌは唇を噛みしめ、膝に額を押しつけた。

 ひとりぼっちの夜が、こんなにも長くて、苦しいものだったと久しく彼女は忘れていた。

 ――その時。


 「イヴォンヌ様、失礼いたします」


 ドアをノックする音とともに、柔らかな声が聞こえた。

 顔を上げると、ランプの光の中に、モニカが立っていた。両手には湯気の立つカップが載った盆を携えている。


「はちみつ入りのホットミルクをお持ちしました。最近、あまり眠れていらっしゃらないようなので。お顔の色が優れませんけれど……大丈夫ですか?」


 その優しい声音に、イヴォンヌの胸が詰まる。

 モニカは小さなテーブルにカップを置き、彼女の隣に腰を下ろした。まるで友達のように、至極当然な顔をして。

 彼女はそこに座っていいかどうかをイヴォンヌには聞かない。イヴォンヌも彼女をいちいち咎めたりなどしない。

 イヴォンヌにとってモニカはもはや、ただのメイド以上の存在だった。


「……ごめんなさい、モニカ。心配をかけてしまって」

「謝ることじゃありませんわ」


 モニカは穏やかに笑った。


「でも、イヴォンヌ様。このままじゃ良くないと思いますよ?」


 イヴォンヌは迷った。けれど、もう誰かに話さずにはいられなかった。震える声で、胸の内を吐き出す。


「どうしたらいいのか……もう、わからないの。私、ひどいことをしてしまったの。アレクシス様に……いいえ、違う、違うわ……。わ、わたし、アレクシス様に尋ねるのがこわい……。あの方の本当の気持ちを知るのが、とても怖いのです……っ」


 言葉が続かなくなる。モニカはそっと手を握ってくれた。温かい手だった。


「……たまには、気分転換も必要ですよ」

「気分転換……?」


「ええ。今度、収穫祭があるのをご存知ですか?」


 イヴォンヌは小さく首を振った。


「麦の豊穣を祝って、毎年この時期に大きなお祭りが開かれるんです。少し離れた大きな町では、夜になると町中にランタンが灯って、それはもう幻想的なんですよ」


 モニカの目が、まるでその場にいるかのようにきらきらと輝く。


「屋台が並んで、珍しい料理がたくさん売られたり、音楽隊が練り歩いたりして……見ているだけで楽しくなるんです。きっとイヴォンヌ様にも、いい気晴らしになると思います。一緒に収穫祭に行ってみませんか?」


 イヴォンヌは唇を噛んだ。

 モニカの優しさが胸に染みて、涙が出そうになる。


「……ありがとう、モニカ。心配をかけてばかりで、本当にごめんなさい」

「いいえ。こういうときには何も考えず、楽しいことをするのが一番ですよ。ね?」


 イヴォンヌは、しばらく迷ったのちに、こくんと小さく頷いた。

 そして、収穫祭当日がやって来た。

 夕方から支度を始めたイヴォンヌは、モニカに手伝われながら町民が着るような麻のシャツとスカートに着替えた。

 髪もゆるくまとめ、普段より少し幼く見える。鏡に映る自分の姿に、イヴォンヌはわずかに微笑んだ。


「これなら、イヴォンヌ様が伯爵夫人だとは誰にも気づかれませんわ」


 モニカが得意げに言い、イヴォンヌも「そうね」と笑った。

 これから見る光景に胸を弾ませながら、馬車に乗り込む。

 馬車はゆっくりと走り出した。

 二人を乗せた馬車が石畳を走る。遠くに見える町の明かりが、段々と大きくなり、馬車は町の入り口で停まった。

 馬車を降りると、目の前に広がる光景に、イヴォンヌは思わず息を呑んだ。


「……まぁ……!」


 暗闇の中、無数のランタンが浮かび上がり、暖かく優しい光が町々を照らしている。

 屋台の並ぶ通りでは、香ばしい匂いと人々の笑い声が入り混じり、遠くからは笛や弦楽器の音が響いてくる。

 吟遊詩人の歌声が夜空を渡り、物売りが声を張り上げて呼び込みをし、普段この時間はベッドで眠っている少年少女たちがはしゃぎ声をあげて駆け回っている。

 イヴォンヌの胸が自然に高鳴った。

 こんなに活気ある場所に来るのは久しぶりだ。まるで王都の夜に舞い戻ったかのような喧騒である。


「まずは腹ごしらえですね。行きましょう、イヴォンヌ様!」


 モニカが楽しそうに手を取る。イヴォンヌは笑って頷いた。


「ええ……行きましょう」


 光と音の海の中へ、二人は歩き出す。

 まだ知らない――この夜が、長く続いたすれ違いの終わりを告げる始まりになることを。

毎日21時に更新。25話+エピローグで完結。全話執筆済みです。

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