第21話:アレクシス様なんて、もう知りませんっ!!
シンシアが去ったあと、森の中には静寂が戻った。
アレクシスは深く息を吐き、隣に立つイヴォンヌへ目を向ける。彼女の体からはまだぴりぴりとした怒気が立ちのぼっていた。
その頬は紅潮し、瞳はまだ怒りに揺れている。
――だがその奥に見えたのは、確かに嫉妬だった。
その感情を、彼は少しも鬱陶しいとは思わなかった。むしろ胸の奥でひそかに嬉しさが弾けている。
いつも理性的で、感情を抑えることを美徳とする妻が、こんなにも露わに感情を見せてくれたのだ。
(ようやく、俺を男として、夫として意識するようになったか)
そう思うと、口元がわずかに緩んでしまう。けれど、そんなことを口にしたら彼女は恥ずかしさで真っ赤になってしまうだろう。だからアレクシスは、何食わぬ顔で彼女の名を呼んだ。
「イヴォンヌ。そろそろ俺たちも帰るとするか」
てっきりいつものような慎ましい返答があると思っていたアレクシスだが、彼女の反応は予想とは大きく違っていた。
「……帰る? よくそんなことが言えますわね、アレクシス様!」
アレクシスは思わず硬直した。
イヴォンヌが油を注がれた炎のように、再び全身から怒気を発し始める。
「妻のいる殿方が、妙齢の女性と二人きりで外出なさるなんて! 少しはこちらに気を遣ってくださってもいいではありませんか! お家同士の関係を考えれば、むげに断るなどできるはずもないのですから!」
その剣幕に、アレクシスは目を瞬かせた。
叱られているはずなのに、なぜかその怒声が少しだけ可愛らしく思えてしまう。だが、そんな感想を抱いていることなど悟られてはならない。
さてどうこの場面を切り抜けたものか。アレクシスは脳みそを高速で回転させた。こんな修羅場は今まで何度も経験してきた。怒っている女性を言い包めるなどお手の物だ。
アレクシスにはそんな無意識の驕りがあった。それゆえに、彼は口を滑らせた。
「昨晩、俺はお前の意思を確認したつもりだったが、嫌だとは言わなかっただろう」
――口に出した瞬間、やってしまったと悟った。
今のは明らかに失言だった。
イヴォンヌの眉がさらに吊り上がり、頬が真っ赤に染まる。彼女の頭の上で、湯気が立ち上るのが見えるようだった。
「……っ!! アレクシス様なんて、もう知りません!!」
怒声とともに、イヴォンヌが踵を返す。
ジョシュにまたがると、勢いよく手綱を引き、森の出口へと駆け出していった。
「イヴォンヌ!」
アレクシスは呆然と立ち尽くしたあと、慌てて自分の馬に飛び乗り、追いかける。森を抜け、丘を越え、屋敷が見え始める頃になっても互いの間に言葉はなかった。
沈黙が続き、重苦しい空気だけが漂っている。
アレクシスは何度も話しかけようとしたが、そのたびにイヴォンヌの背筋の強張りが目に入り、声が喉で止まった。
――とんでもなく気まずい帰路だった。
屋敷へ戻ると、イヴォンヌは黙って馬を下り、無言で厩舎へ向かう。アレクシスとイヴォンヌが戻ったとの報告を受けて、すぐさまアーネストとモニカが厩舎へとやって来た。
アレクシスは馬装を解きながらアーネストに問いかける。
「……アーネスト、シンシア嬢はどうしてる?」
百戦錬磨の老獪な執事は実に愉快そうな顔をしながら、教えてくれた。
「なんでも急用ができたとかで。荷物をまとめて、もうお帰りになられました」
「……あの小娘、台風を呼ぶだけ呼んで帰ったか」
アレクシスは眉間を押さえ、苦虫を噛み潰したような顔をした。思えばイヴォンヌがこんなにも怒りをあらわにするのは初めてのことで、アレクシスにはどうしたら良いのか分からない。
「クソッ……」
彼女が何が好きで、どんなことで喜ぶのか、まるで知らないと今更ながら自覚させられ、アレクシスは小声で毒づいた。
そこへ、モニカが厩舎に入ってきた。だが、夫婦の間に流れる微妙な空気を感じ取ったのか、足を止める。
「お二人、どうかされたんですか?」
イヴォンヌは乱れた髪を手櫛で整えながら素っ気なく答えた。
「なんでもないの。……疲れたから、私はお部屋で休みます」
彼女はアレクシスと目を合わせることなく厩舎を出て行った。モニカがこちらを一瞥して、すぐさまイヴォンヌを追いかけていく。
アーネストがやれやれという顔でアレクシスを見やった。
「アレクシス様。あのイヴォンヌ様をここまでお怒らせるとは――なかなか出来る芸当ではございませんな」
「……ああ。どう考えてもまずい事態になった」
アレクシスは頭を抱えた。
森の風より冷たい沈黙が、今もなお屋敷の空気に残っている気がした。
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