第18話:見てりゃ、わかりますって!
昼を過ぎても、アレクシスとシンシアは戻らなかった。
窓の外に広がる庭は、朝のもやをすっかり払い、まぶしい陽射しが降り注いでいる。だが、イヴォンヌの胸の奥では、まだ冷たい霧が晴れないままだった。
アレクシスは昼前には戻ると言って出て行った。
アレクシスはいい加減なように見えて、有言実行する人間だ。周りや自分との約束を破るような人ではない。馬の脚を気にして遅れることはあっても、何の知らせもなく戻らないなんて。
(何かあったのかしら)
心の底からそんな不安が湧き上がり、イヴォンヌは居ても立ってもいられなくなった。
屋敷の時計の針が一刻、また一刻と過ぎていく音が、鼓動と重なる。
昼食後のティータイムを楽しんでいる間も、不安の雲はどんどん大きくなっていった。
胸の中で嵐が吹き荒れ始める。思わず声が漏れた。
「……行かなきゃ」
乗馬は得意ではない。だが、アレクシスの身にもしものことがあったら――そう思うだけで、足が勝手に動いていた。
イヴォンヌは廊下へ出て、骨董品の花瓶を丁寧に磨いていたモニカを探す。
「モニカ!」
呼びかけると、モニカはぴくりと肩を震わせ、振り向いた。
「はいっ、イヴォンヌ様! どうされました?」
「アレクシス様たちがまだ戻らないの。……私、追いかけようと思うの」
その一言を聞いた瞬間、モニカの顔がぱっと輝いた。手にしていた雑巾が空中に放り投げられ、宙を舞う。まるで祝福の花びらのように。
「ようやくその気になられましたねっ!」
「え、えっ?」
「準備は任せてください! こっちです!」
モニカは有無を言わせずイヴォンヌの手を取ると、軽やかな足取りで部屋へと引っ張っていく。
扉を閉めるなり、鏡の前に座らされ、慣れた手つきでリボンを解かれた。
「そんなお召し物では馬には乗れません! もっと軽くて動きやすいものを」
「ちょ、ちょっとモニカ、そんなに急がなくても、」
「何を言ってるんですか! 事は一刻を争います! ビアンカ~! 馬の準備をするようにアーネスト様に伝えてきて!」
「オッケー、モニカ! 任せといて!
モニカが外に向かって声を張り上げると、廊下の向こうから別のメイドが威勢良く返事を返してくる。
その声のテンションの高さに、イヴォンヌは目を白黒させるしかない。
モニカは衣装箪笥から、薄青の乗馬用ドレスを取り出す。レースの装飾は最小限で、軽やかさと上品さを兼ね備えた仕立てだった。
イヴォンヌはモニカに言われるままに袖を通す。
「……よし、完璧です!」
モニカは髪を高く結い上げ、金の留め具でまとめると、鏡越しに満足げにうなずいた。
心配と緊張がまだ胸を占めていたが、整えられた自分の姿に、ほんの少しだけ勇気が湧く。
そのとき、ノックの音がして、アーネストが姿を現した。
「支度はお済みですか、イヴォンヌ様」
「ええ、今終わったところです」
アーネストが穏やかに微笑む。
「では、ご案内いたします。厩舎へ」
モニカと共に歩いていくと、なぜか厩舎の前には人だかりができていた。
庭師、調理係、掃除の娘たちまで――屋敷の使用人たちがずらりと並んでいる。その最前列には賢そうな目をした栗毛の馬が一頭、すっかり馬装が整えられた状態で尻尾をぶらぶらと揺らしていた。
「え……なに、これ……?」
イヴォンヌが戸惑って立ち止まると、モニカが誇らしげに言った。
「みんな、イヴォンヌ様を応援したくて集まったんですよ!」
「この子なら、必ずアレクシス様のもとへお連れします!」
「頑張ってくださいね!」
「そうです、あんな女に好き勝手させちゃダメですよ!」
次々と飛んでくる声援に、イヴォンヌは目を瞬かせた。自分が恋心を自覚したのは、ほんの数刻前のはず。
なのに――どうしてみんな、自分がアレクシスを好きだと知っているみたいに話すのだろう。
「あの……皆さんから見て、私って……アレクシス様が好きなように見えてましたか?」
一瞬の静寂。
だがすぐに、使用人たちの間から笑い声が漏れた。
「見てりゃわかりますって!」
「イヴォンヌ様は、気づくのがちょっと遅いだけですよ〜!」
「えっ、えっ……」
自分の気持ちが筒抜けだったと知って頬がかっと熱を持つ。けれど、胸の奥は不思議と温かかった。
恥ずかしい。けれど――嬉しい。
使用人たちの笑顔に囲まれながら、イヴォンヌは思った。
ここが自分の居場所だ。アレクシスを含めてこの屋敷の人たちが、今は自分の家族なのだ、と。
アーネストが手綱を差し出す。
「お気をつけて、イヴォンヌ様」
「……ありがとう。行ってきます」
イヴォンヌは深呼吸し、馬上へと身を躍らせた。
陽光の下、風が彼女の髪をさらう。
胸の中の霧は、もうすっかり晴れていた。
毎日21時に更新。25話+エピローグで完結。全話執筆済みです。




