IFルート・カイン編~恋人同士になってから・穏やかな午後の幸せ~
イリューヴェル皇国第三皇子カイン×幸希のお話です。
――Side カイン
「え~と……、ここの問題は、こっちの公式を」
ついつい眠ってしまいそうになる、いつもの穏やかな昼食後の午後。
課題として出されている問題集の一冊をテーブルの上に広げ、頭を悩ませながら愛用のシャーペンを迷わせる。
ついこの間までは、色々と大変な事ばかりで勉強どころの騒ぎじゃなかったから、しっかり進めていかないと……。
「ん。……なぁ、今の答え、間違ってんぞ」
「え? そうですか? ……でも、確か習ったのは……、あっ、うぅっ、本当だ~……」
「まぁ、よく似た公式があるからなぁ~。もう一回、よっと……。こっちの教本読み直しな」
「はい~……。ふぅ、バッチリ覚えたと思ったのに……」
今、私がやっているのは、数学の問題。
異世界とはいえ、勉強がない、なんて事はなく、数学、語学、他にも色々と教科がある。
私はそれを子供レベルの初級、つまり、一から始め……、うぅっ、いまだに小学生編レベルっ。
多分、全体的な勉強の段階から考えて、高学年、ってところかなぁ。
今はもう、エリュセードの文字や数字の把握と書き取りはバッチリだけど、勉強だけは……、時の流れと歴史の賜物だから、そうそうすんなりとはいかない。
「ほぉ~ら、頑張れ~。あと一時間しかないぞぉ~?」
勉強は嫌いじゃないし、ひとつひとつ覚えていく事は好きだ。
だけど……、問題が、ひとつ。
暢気な声で私の勉強を応援してくれているカインさん……、イユーヴェルの第三皇子様の存在だ。
全てが終わり、ようやく自分の想いを自覚出来て、この人と恋人同士になれたのだけど……。
「カインさん……」
「ん~?」
「やっぱり、……別々に座りませんかね?」
「あ?」
物凄くわかりやすく悪くなった恋人のご機嫌。
私の腰にまわされていた腕の感触が、締まりがきつくなり、ぐっと背後に引き寄せられてしまう。
「別にいいだろ。この方が効率が良い、って、お前も納得したんだからよぉ」
うがーっ!! と、私の肩に乗せていた顔を突き出し、カインさんがちょっとだけ怒った声で主張してくる。
……そう、この甘えん坊な竜の皇子様は、実は私のすぐ背後にいたのだ。
まず自分がソファーに腰を下ろし、その前に私を座らせて……、がばり。
勉強する環境じゃない。真面目に勉強出来る体勢じゃない。
私が問題集を前に唸っている間も、カインさんは自分が退屈しないように人の身体をむぎゅむぎゅしたり、長い髪に顔を埋めてきたり、ちょっかいを出しすぎるほどに好き勝手をしていた。
「邪魔をしないって約束をしたからです!! なのに、落ち着けないような事ばっかりして……っ」
「アドバイスもしてやっただろうが」
大きな試練を乗り越えて、少しはお互いに成長出来たかと思っていたのに……。
両想いになった事で……、むしろ片想いの頃よりも行動が悪化している!!
甘えん坊さんのパーセンテージが思いっきり振り切れたというか、スキンシップが凄い。
はぁ……、カインさんが子供とか、私より年下さんだったら、まぁ……、将来に期待出来たのだけど。
生憎と、カインさんは大人の男性だ。姿形だけは……。
そして、魔性の美貌のお兄さんが私に甘えている図は、色々と残念だ。
ここが自分の部屋だからという気の緩みもあるのだろうけれど、……はぁ、全然離れてくれない。
「もう……。恋人同士になったからって、こんなにベッタリしなくてもいいんじゃないですか? 私はどこにも逃げたり、消えたりしないのに」
「恋人同士になったから、こそだっつーの。面倒事は片付いたが、お前は王兄姫って立場で何かと忙しいだろ? そりゃ、毎日顔も合わせてるし、挨拶や雑談ぐらいなら出来るが、こうやってゆっくり過ごす事が出来る時間は貴重なんだよ」
「カインさん……」
「俺も、王宮や外で仕事やってるしな。帰ってきたらお前はもう寝てて、俺も自分の部屋に直行するしかねぇ。だから……、わかんだろ?」
「それは……、はい」
あぁ、だから、二人きりになるとこんな風になってたんだ……。
確かに、王宮内……、人の目がある時は、ここまで甘えん坊になる事はないし、近づいてきても、頭をくしゃりと撫でてくるぐらいだ。
今日も、本当は一緒に出掛ける予定だったのに、突然増やされた課題を少しだけ進めておきたいという私のお願いを、カインさんは仕方ないなぁと呆れ気味にだけど、許してくれた。
「少しだけ、許してくれよ……。やっと両想いになったっつーのに、なかなか二人きりになれねぇんだ」
「カインさん……、んっ」
私の髪や顔に触れてくるカインさんのぬくもり。
金平糖のように降ってくる優しいキスに、私の心も熱を抱いてしまう。
愛おしい人が傍にいる。もう、何も心配しなくても、ずっと一緒にいられる……。
だけど、この平穏が絶対とは限らない。また何か起こったら、こうやって寄り添ってはいられなくなるかもしれない。この幸せは、奇跡、なのだから……。
カインさんがひょいっと私の身体を自分の方に向けさせ、シャーペンを奪い取ってテーブルに転がしてしまう。
「勉強なんて後で幾らでも出来る。なんなら、俺が徹夜で教えてやってもいいぜ? 勉強は別に好きじゃねぇが、少しなら出来るからな」
「少し、じゃないでしょう? カインさんは、難易度の高い問題集でも、全部あっさり解いてしまえる、って、ルイヴェルさんが言ってました。出来ないふりをしていただけだ、って」
「さぁ? 身に覚えがねぇなぁ」
次期、イリューヴェル皇帝の座を巡り、巻き起こっていたかつての皇宮問題。
全てを諦めてしまうまでのカインさんは、努力家で、ちゃんと結果の出せる人だった。
第三皇子の生まれ。遅くに生まれた正妃の子……。
カインさんがどれだけ努力しようと、頭が良かろうと、決して認められる事がなかった時代。
「なんだよ……。そんな寂しそうな顔すんな」
本当は、あまり言わない方が良いのかもしれない。
カインさんにとっては、辛い事ばかりが詰まっている思い出……。
だけど、これだけは言わせて貰おう。
「時々、ですね」
「ん?」
「私の部屋に、妖精さんが来るんです」
「はぁ?」
「私にもわかるように、すっごく上手に説明が書かれた、勉強のアドバイス・メモが」
「ふぅん……。良かったなぁ? このエリュセードじゃ、何があってもおかしくねぇし、妖精もお前の助けになりたかったんだろ」
私の背中を撫でながら、カインさんが自分の表情を見られない為になのか、肩口に顔を埋めてくる。
知らんぷり……、してしまうのは、カインさんらしい。
きっと、感謝されたくてやった事じゃないと、照れ臭さがあるからなのだろう。
だけど、妖精さんのアドバイス・メモは、私のよく知っている人の筆跡で、どんなに誤魔化されても、わかってしまう。だって、大好きな人の、愛おしい男性のぬくもりが感じられる文字だから。
「カインさん、もし妖精さんに会ったら、伝えてください。貴方のお陰で、すごく助かってます。沢山勉強して、沢山私の事を考えて、あのメモを作ってくれて、ありがとう、って」
「……知らねぇ奴相手に、伝言なんか預かれねぇよ」
「ふふ、大丈夫です。ちゃんと届きますから」
「……」
ちゃんと、届きましたよね?
貴方が積み重ねてきてくれた努力が、貴方の優しい心遣いが、貴方の存在こそが、私にとっての宝物。
私はカインさんの頭をそっと両腕の中に包み込みながら、頬を漆黒の髪にすり寄せる。
「お礼も、届けてくださいね」
「だから、知らねぇ奴相手に」
「駄目ですか? お礼のキス」
「よし、引き受けようじゃねぇかっ!!」
知らんぷりを貫く気じゃなかったんですか? カインさん。
私の指先に髪を梳かれながら、心地良さそうにしていたカインさん。
だけど、瞬時にご機嫌な笑顔を浮かべてがばりと顔を上げ、彼は私の頬をその手に包み込んだ。
妖精さんにだって言っているのに、これじゃあ、自分がそうだと認めたのも同然。
私が噴き出しそうになっているのさえ構わずに、カインさんが真紅の瞳に熱を抱いて言う。
「ほら、ちゃんと届けてやるから、……寄越せよ」
「妖精さんに、ですよ?」
「妖精さんに、だろ……? もう待ちきれねぇって、そいつが騒いでるぜ?」
前よりも少し伸びた闇色の髪が、私の顔や首筋に触れるほど……、カインさんの顔が近づいてくる。
彼以外の世界が、私の視界から、頭から、消えていく。
「ンッ……」
私だけを見つめてくれる真紅の揺らめきに魅入られたかのように、優しく重ねられた甘い口付けに身を委ねてゆく。
「……カイン、さ、……ンッ、……」
ただ触れるだけのキス。だけど、カインさんがそれで終わらせてくれるわけがない。
私の唇の柔らかな表面を啄み、微かに聞こえた小さな低い音と共に、口付けが深まる。
「お、お礼の、……って、言った、のに」
「礼のキスってのは、もう預かった。今はもう……、俺の番だ」
離れたのはほんの僅かな時間。
いつものようにニヤリと笑ったカインさんに再び唇を重ねられ、もっと愛おしさを籠めるように抱き寄せられる。私も、カインさんの背中にしがみつき、息も絶え絶えになりそうな熱の気配についていく。
大好きな人との抱擁。このひとときは、本当に奇跡。触れ合うぬくもりが、私に最も幸せな瞬間を教えてくれる。
「……まだ、足りねぇな」
「ん、……も、もう、駄目ですよっ。これ以上は……、し、心臓が、もちませんからっ」
カインさんは大人でも、私はまだ少女期の身の上だ。
唯一人を愛する心が定まったとはいえ、キス以上の事はまだまだ……。
力の入らない身体で後ろに引きかけた私に、カインさんは楽しそうに笑いながらまた抱き寄せる手を伸ばしてくる。
「先には進まねぇよ。せっかくキスに慣れてきたってのに、気絶されちゃ面白くねぇしな」
「カインさん……。きゃっ」
私の唇を親指の腹で名残惜しそうになぞり、カインさんはすぐに体勢を変えさせた。
自分の膝に私を横抱きにして座らせ、腰を支えながら頬に手を添えてくる。
「その代わり、今日は勉強より俺を優先しろ。こうやってお前と触れ合っているだけで、その瞳に俺を映して、俺の事だけを考えてくれるのなら、最高の一日になる」
「カインさん……、はい」
そしてもう一度、近付いてきた熱を唇に受け止め、私は瞼を閉じた。




