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76. 甘い牽制

 沙織はその日、屋外でファッション雑誌の撮影をしていた。今は一人だけの撮影のため、モデル仲間とわいわいすることもない。

「沙織ちゃん、休憩です」

 そう言われて、沙織は用意された椅子に座る。一息ついて水を飲むと、ふと撮影を見ていた人の群れの中に、一際背の高い男性が目に入った。

「あ……」

 思わず立ち上がった沙織は、男性に会釈する。そして名前を思い出して呼んだ。

五城ごじょうさん」

 いつかの夏頃に出会った、鷹緒の中高時代の同級生である。

 五城は優しい笑顔で軽く沙織を手招きするので、沙織は首を傾げて五城に近付いた。

「あ、知り合いです……」

 スタッフにそう言うと、五城だけこちらに通してくれる。

「久しぶり。覚えててくれて嬉しいよ」

「お久しぶりです。もちろんです」

「しかし、いいところで会ったよ。君、甘い物好き?」

 突然言われて驚きながらも、沙織は素直に頷いた。

「え? はい」

「じゃあよかった。これ、もらい物なんだけど食べて。諸星の好物だから、本当はあいつにあげようと思ったんだけど、電話したら出張でいないって言うからさ……」

 五城が差し出したのは、まだ包装も解かれていない菓子折の箱で、有名な老舗和菓子屋の名前が見える。

 甘い物が好きな鷹緒なら好物というのも頷けるが、確かに今は出張中で東京にはいない。

「高級和菓子じゃないですか。いいんですか?」

「もちろん。俺、甘いの嫌いだし。ここのスタッフさんにあげてもいいしさ。無駄にならなくてよかったよ」

「嬉しいです。みんなでいただきます。私もここの和菓子、大好きなんです」

 誰もが知っている有名和菓子屋の菓子折に、否が応でも沙織のテンションも上がる。

「それはよかった」

「でも鷹緒さんの好物なら、出張から帰るまで少し取っておきたいな……」

「生ものだから早めに食べたほうがいいよ。欲しかったら、店に来てくれればいくらでも食べさせてあげる」

 そう言われて、沙織は目を丸くする。

「五城さん、ここの和菓子屋さんとお知り合いか何かなんですか?」

「ああ、母親の実家なんだ。子供の頃はよく諸星も通ってたから、店のやつも未だにわかると思うよ。甘い物嫌いな俺と違って、あいつは店にいる祖父母にも可愛がられてたし」

「へえ。鷹緒さんが……」

 見知らぬ鷹緒の断片が見られたようで、沙織の顔が明るく輝く。

「じゃあ、休憩途中に悪いね。俺も仕事の途中だからそろそろ……あ、何かあったらここに連絡してね」

 五城は沙織に名刺を差し出すと、そのまま去っていった。


 それから数日後。出張帰りの社内で、鷹緒は不満げに余った最中を頬張った。そばには沙織がいて、雑誌を見ながら鷹緒と話している。

「こんだけデカイ箱で、なんで最中一個だけ……」

 不満を漏らす鷹緒に、沙織が顔を上げる。

「もう。しょうがないでしょ。生ものだから初日に撮影スタッフと事務所のみんなで食べちゃったよ。でも残しておこうと思って、一番日持ちする最中だけは死守しておいたんだからね」

「うん。うまい」

 ありがとうの代わりにそう言って、鷹緒はパソコンを見つめる。数日間の出張で、やらなければならないことが溜まっているようだ。

「……今日は遅くなる?」

 撮影終わりに寄っただけの沙織は、これ以上やることがない。

「そうだな。今日明日は特に動けないかな」

「そうだよね……」

「それよりおまえ、あいつに口説かれなかっただろうな?」

 思わぬ話題に、沙織は首を傾げる。

「へ?」

「五城。あいつ意外と手早いから、気をつけろよな」

「まさか……名刺はもらったけど、お菓子もらってすぐに帰って行ったし」

「名刺? そんなもん破棄しろ」

 言いながら目を合わせて、鷹緒は煙草を咥える。

「古い友達でしょ」

「冗談半分、本気半分。喫煙室行ってくる」

「あ、私も行く……」

 二人はオフィスを出ると、喫煙室へと入っていった。

 鷹緒はすぐさま煙草に火をつけると、携帯電話をいじり始めて耳にあてる。

「おう、五城? 諸星だけど」

 その様子を、沙織はそっと見つめた。

『出張から帰ったのか。彼女から聞いた?』

「ああ、最中食った。サンキュー……ただ、今度は俺がいる時に持って来いよな」

『我儘言うな。まあ今回は突然だったけど……今度店にも顔出せよ。ばあちゃん会いたがってたし』

「じゃあ、今度飲みの前に行くか」

『お、珍しく飲みの誘いか? いつでもいいよ』

 いつも飲みたがっている五城の態度に、鷹緒も苦笑する。

「今週は出張後の怒濤の後処理。それ終わってからだな」

『相変わらず忙しいんだな。まあいいよ。空いたら誘って。それまで彼女に相手してもらおうかな』

「ったく、それ含めて連絡したんだよ。面倒くさいことに手を出すなよな」

『ハハッ。違うって……おまえに会おうとしてたところで、彼女に偶然会ったから』

「なんにしてもだ」

『わかってるよ。さすがの俺もおまえの女には手を出さないって……たぶんな』

「ふざけんな」

『アハハ。心配なら、たまには俺の相手もしてくれ』

「了解。じゃあまあ、差し入れありがとう。またな」

 鷹緒は電話を切って、苦笑する。

「五城さん?」

「そう……ということで、予防線」

「予防線?」

 首を傾げる沙織の手を引き寄せると、鷹緒は沙織の髪を撫でた。

「おまえはその気なくても、寄ってくる男には気をつけろよ」

「……ご、五城さんは鷹緒さんのお友達でしょ」

「べつにあいつに女取られたことはないけど、あいつ結構モテるし、用心に越したことはない」

「よくわかんないな……」

 友達であろうと、自分の彼女に男を近付けたくないという気持ちまで沙織には悟られたくない思いで、鷹緒は苦笑した。

「わかんなくていいんだよ」

「どうして……?」

 不安げに見上げる沙織に、鷹緒は切なげに笑って目を逸らした。しばらく会っていなかったこともあり、このまま一緒にいてはとても仕事になりそうにない。

「……さて、さっさと仕事片付けるから、もう数日待って」

「うん……わかった。じゃあ今度ちゃんとデートしてね」

「了解」

「じゃあ、今日はこれで帰るから。またね」

 去っていく沙織を見送ると、鷹緒は自分の幼稚さを感じて自嘲するように笑ったが、沙織とのデートのためにも、すぐに頭を切り換えて仕事へと戻っていった。

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