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140. 寄り添う気持ち

 夕方のWIZM企画事務所。

 仕事終わりの沙織が顔を出すと、事務所の中はいつになく慌ただしさを見せている。

「沙織ちゃん」

 受付にいる牧もまた忙しそうに手を動かしているが、優しい笑顔で出迎えた。

「牧さん。なんかあったんですか? 事務所、皆さんいつになく忙しそう……」

「月末はこんなものよ。去年より仕事量もみんな増えたし……沙織ちゃんは?」

「あ、鷹緒さんに頼まれ事で……」

 いいように使われている様子の沙織が苦笑すると、牧も悟ったように頷いた。

「そうなんだ? 鷹緒さん、今日は地下スタジオにいるって聞いてるけど」

「はい。それで事務所に寄って、デスクから持ってきて欲しい物があるって」

「あらまあ。早く届けてあげて」

「はい。失礼します」

 そう言って、沙織は奥の企画部へ進む。部長の彰良の姿は見えないが、鷹緒の隣の席にいる俊二が、眠そうな顔でパソコンに向かっていた。

「あれ、沙織ちゃん……」

「俊二さん。大丈夫ですか? 顔色が……」

「いやあ、繁忙期でね」

 力なく笑う俊二を、沙織は心配そうに見つめた。脳裏には常にパソコンに向かう鷹緒の姿がある。

「カメラマンさんって大変なんですね……鷹緒さんも、朝方までパソコンに向かってること多いし……」

「まあ、あの人と比べたら僕なんてって思うけどね。さすがに今回はいろいろ重なってきついよ……ところで、どうかしたの?」

 首を傾げる俊二に、沙織はスマホ画面の写真を見せた。

「鷹緒さんが、写真のこれ持ってきてくれって……」

 写真は通販サイトの一部で、カメラのバッテリー充電器が映し出されている。

「ええ? 地下スタにいるなら、こんなのいくつかあると思うんだけど……」

「すぐに見つからないから事務所から持ってきた方が早いって。最悪買ってきてとも言われてるんですけど、鷹緒さんのデスクにあるはずだって……」

「これでしょ。鷹緒さんがカメラとセットで持っていってないなんて珍しいけど……鷹緒さんも相変わらず忙しそうだもんね。出たり入ったり、ちっとも会わないよ」

 苦笑する俊二は、そう言いながら丁寧にケーブルを束ねて沙織に渡した。

「ありがとうございます。同じ部署の同じ社員さんなのに、会わないなんてあるんですね……」

「そんなのしょっちゅうだよ……お互い忙しいとなかなか会わないよね。僕も最近外の仕事ばっかりで、今日は久々に事務所にいる感じだし」

「そうなんですね……お邪魔してすみませんでした」

「いえいえ。当たり前だけど鷹緒さんのが忙しいから、気を付けてあげてね……ていうか、しばらく会ってないからよろしくお伝えください」

「あはは。わかりました」

 沙織は俊二にぺこりと会釈をして事務所を出ていくと、その足でまっすぐに地下スタジオへと向かっていった。


 地下スタジオの入口は真っ暗で、右手のスペースから明かりが漏れているだけだ。そんなスタジオに沙織が入るのは珍しくはないが、昼間に撮影で使われる賑やかさを思い出せば、そこはもう別世界である。

「鷹緒さん……」

 半開きのアコーディオンカーテンから顔を覗かせると、煙草を咥えたままの鷹緒が振り向いた。

「おう……悪いな、面倒かけて。あの写真でわかった?」

「うん。俊二さんが探してくれて」

「ああ、あいつ今日は事務所にいるのか」

 鷹緒は煙草の火を揉み消すと立ち上がって、頼んでいたカメラの充電器を沙織から受け取ると、軽く沙織の頭に手を乗せるように撫で、テーブルの上で充電を始める。

「う、うん。鷹緒さんによろしくお伝えくださいって……」

 沙織はそう言いながら、撫でられた頭を照れるように自分でも撫でた。

「なんだそりゃ……まあでも、あいつとは半月以上会ってないかも」

「そうなんだ? なんか事務所も騒然としてたよ」

「月末だからな……今年は去年より仕事の数も多いし」

「それ、牧さんも言ってた……私、ここにいてもいい?」

 沙織の言葉に頷きながら、鷹緒は壁時計を見上げた。

「いいけど……相手出来そうにないから、メシでも食う? って言っても、そんなに時間取れないからテイクアウトかデリバリーかって感じになるけど」

「うん、それでもいいよ。私とも一週間は会えてないんだから……」

「……ごめんな」

 ストレートに受け止めたように鷹緒は謝ってみたものの、改善できるくらい時間が取れるようになるには、ずいぶん先のスケジュールまで見えない。それも時が経てば隙間なく埋められていくだろう。

 自分の不甲斐なさに溜息をつく鷹緒を、沙織は不安げに見つめた。

「そんな。謝らないで……何か買って来るよ。食べたいものはある?」

「いや。コンビニか……そこの中華料理屋か飲み屋でもテイクアウトあるけど」

「じゃあ適当に買って来るね」

「悪いけどよろしく……」

 足早に去っていく沙織を気に留める余裕もなく、鷹緒はパソコンに向かった。


 沙織は地下スタジオの外に出ると、妙な不安感に襲われた胸の内を沈めようと立ち止まる。

 鷹緒が自分を気遣う度に、無理をさせてしまうことが目に見えて辛かった。かといって放っておかれたり会えなくなるのはもっと辛いだろうが、仕事より自分を優先させてほしいなどとは少しも思わない自分がいる。だからこそ鷹緒の無意識な溜息が、沙織を焦らせる。


 しばらくして地下スタジオに沙織が戻ると、すかさず鷹緒が立ち上がった。

「サンキュ。お湯沸いたとこだけど、何飲む?」

「いいよ、私やるよ」

「いいよ。このくらい……」

 苦笑する鷹緒の目に、不安げな沙織の顔が映る。

「鷹緒さん……」

「……どうかしたか?」

 途端に自身も不安になって、鷹緒は首を傾げながら沙織を見つめた。

「前にも言ったけど……私のために無理しないでね」

「は? なんだよ急に……」

「忙しいのわかってるから。だから相手してくれなくても、一緒にごはんすら食べられなくても、ここに居させてくれるだけで私は満足なんだよ?」

 言い聞かせるような沙織を、鷹緒は静かに抱きしめた。

「……ありがとう。でも無理なんてしてないから」

「でも……」

「忙しいのは本当だし、おまえのことなかなか構えない自分に苛立つのも事実だけど、だからといって仕事セーブ出来る立場にないし、やれることは続けたいし……べつに今は食事する暇すらないわけじゃない。なんていったらいいかわからないけど、無理はしてないからそんな顔するなよ」

 鷹緒の腕の中で、沙織は包み隠さない鷹緒の言葉を温かく受け止めていた。なぜこうも、たった一言で自分の不安を吹き飛ばせるのかわからない。ただこうして話し合える関係がありがたくも思う。

「うん……無理してないならよかった」

 明るい声に戻った沙織の頭を、鷹緒は優しく撫でた。

「沙織こそ……無理してるんじゃないのか?」

「え、私? ううん?」

「そう? ならいいけど……一人で抱えてないで、ちゃんと言えよ。そのくらいの時間は作るから……さっき泣きそうな顔してたぞ」

「そうかな? ごめん……」

「いや、謝らなくていいけど……メシ食おう」

「うん」

 静寂の部屋に、二人は向き合って座る。忙しさの中で見つけた、二人で食事をするというこの時間をかけがえのないものとして噛みしめるように、二人の心は温かかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 鷹緒さんが、忙しくて沙織ちゃんに会えないから用事を頼んだんでしょうか。何をするでもなく、ただ側にいるだけで幸せな気持ちになれるって良いですね。お互いの忙しさを判っているからこそ、二人ともが相…
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