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120. 栄養剤

 ある夜。WIZM企画プロダクションの社長室から出た広樹は、社内を見回した。まばらなものの、今日も臨戦態勢で残る気満々の社員もいる。

「みんな。ある程度キリがついたら、たまには早く帰りなね……」

 そう言いながら、飲みかけのコーヒーカップを給湯室で洗い、社長室へと戻っていった。

「ふう……」

 軽く息を吐くが、今日は手持ち無沙汰で社員より先に帰るほかなさそうだ。もちろんそんな日は珍しくもないが、今日は静かに出たい事情があった。

 腕時計に目をやると、そろそろ出たい時間である。いつもはラフな格好の広樹だが、今日はジャケットを羽織って立ち上がった。

「今日はお先に……」

 言葉少なく事務所を出ると、会社の入ったビルの前で鷹緒に出会った。

「おかえり……」

 そう言った広樹を、鷹緒はまじまじと見つめる。

「……デート?」

「当てないでよ」

「マジ? 頑張れよ」

 あまり触れられたくないのを悟って、それ以上は聞かずに、鷹緒はビルへと入っていった。

 そんな鷹緒の態度がありがたくも淡々としすぎていて、広樹は苦笑しながらその場を後にした。


 とある店の前に立ち止まった広樹は、空を見上げた。今は仕事のことも何もかも、無の状態の広樹がいる。

「広樹君?」

 そんな広樹に声がかかり、広樹は慌てて我に返った。

「あ、お久しぶりです……聡子さん」

 待ち合わせの相手に微笑んで、広樹は会釈をした。

「ごめんなさい。待たせちゃった?」

「いえ、今来たところなんで……入りましょ」

 予約した店に入り、広樹は聡子と対面で座る。

 聡子は広樹にとっては初恋の相手である。大人になってからは数えるほどしか会っていないが、広樹の誕生日に連絡をもらって以来、食事にまでこぎつけた経緯がある。

「誕生日にはメッセージをありがとうございました」

 広樹がそう言うと、聡子はそっと微笑んだ。

「ううん。急に思い出してね……」

「嬉しかったですよ。当日は事務所のやつらと騒いでましたし」

「相変わらず、楽しそうでよかった」

 今となっては冷静でいられる広樹だが、それでも女性と二人きりの食事というのは胸が高鳴る。

「聡子さんは、最近どうなんですか?」

「相変わらずよ。仕事と家を行き来するだけ。まあ、仕事は楽しいからいいんだけどね……」

「アハハ。僕も同じです」

 ワインで乾杯をし、運ばれてくる料理に手をつけながら、広樹は聡子と話を弾ませる。落ち着いた大人の会話が出来る聡子に、やはりほっとさせられもした。

「広樹君は、いい人いないの?」

 突然振られた話題に、広樹は苦笑した。

「いるように見えます?」

「まあ……私なんかとごはん行けちゃうくらいの時間はあるのかなと思うけど」

 聡子もまた苦笑するのを見て、広樹は笑う。

「聡子さんは“なんか”じゃないですよ。でもその手の話題は痛いなあ……聡子さんはどうなんですか?」

「私は娘も手を離れたから、これからってところかな」

「じゃあ、僕と付き合います?」

 冗談交じりに言った広樹に、聡子は微笑んだ。

「ダーメ」

「ええ? ダメですか?」

「広樹君はね、こんな子持ちのバツイチじゃなくて、ちゃんとした恋愛しなくちゃ」

 その言葉に、広樹は笑いながら視線を逸らした。

「不倫じゃあるまいし……まあでも、聡子さんは僕の憧れなんで。手の届かないところにいてください」

「憧れ?」

「はい。今の僕があるのは、聡子さんのおかげでもあるんですよ。あの頃バイトが楽しくて仕方がなくて、聡子さんにはよくしてもらいましたから……そんなバイトの延長が今に繋がってるんですから」

 そう言われて、聡子は嬉しそうに微笑む。

「うまいなあ……でも嬉しい。私も三崎企画でのバイトは本当に楽しかったなあ」

「ですね。そのうち何人かは今も一緒にいるっていうのが不思議なくらいです」

「それだけ良い仲間を持ったってことだよ」

 社員たちの顔が浮かんで、広樹は晴れやかな笑顔を見せた。

「そうですね……みんなよく僕なんかに付いてきてくれていると思います」

「そう。本当、広樹君はよくやってると思うよ。三崎さんが広樹君を後継者にしたのがよくわかる」

「後釜は鷹緒ですよ」

「でも会社の仕事を引き継いだのは広樹君でしょう?」

「まあ、そこは……」

 聡子は軽く酒を飲むと、真っ直ぐに広樹を見つめて微笑んだ。

「広樹君は経営の才を、諸星君は技術の才を見出して引き継いだんだと思うわよ。実際、二人がいないと成り立たないんでしょうし……いつまでも応援してるからね」

 聡子の言葉に、広樹もまた酒を飲んで笑った。

「ありがとうございます。僕にも時々、不意に落ちる時があるんですよ。仕事がうまくいかなかったり、周りが良く見えたり、僕だけ取り残されたように思うことが……でも決まって、いろんな人が引き上げてくれる。そういう意味では、僕は恵まれていると思います」

「ふふ。私でも、ちょっとは役に立つ?」

 聡子が笑うので、広樹は頷く。

「役に立つどころじゃないですよ……聡子さんは、僕の栄養剤みたいなものですから」

「栄養剤?」

「親兄弟でも友達や恋人でもなく、仕事がらみでもないのに人間関係の話や仕事の話も出来る関係なんて、聡子さん以外にいないんで……疲れた時に栄養剤。失礼かもしれないけど、本音です」

「そっか。なんのしがらみもない関係って、確かにすごいよね。私でよければいつでも飲みに誘って」

「ありがとうございます。そんなこと言うと、毎日誘っちゃうかも」

「うふふ。社長さんはストレスで大変ね」

 互いに微笑み合うと、もう違う話題で楽しい食事を続けた。


 その日の帰り道。食事を終えて聡子を駅まで送り届けると、広樹は空を見上げた。まだ寒い北風が吹く中だが、次第に笑みが零れる。

 仕事のストレスやプレッシャーを感じることも少なくないが、こうして憧れ以上でも以下でもなければ損得なく会える聡子の存在は、十代の頃と変わらずに広樹の心を軽くしてくれる。

「よし、明日も頑張ろ」

 そっと呟いて、広樹は一人家路へと帰っていった。

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