あなたの「いつか」は、もう要りません
「君との結婚は、いずれ必ず」
その言葉を、私は何度聞いただろう。
王太子アラン様の執務室。書類の山に埋もれた彼は、顔も上げずにそう言った。手元の書類を整理していた私は、一度だけ手を止め、小さく息を吐いた。
「……はい、アラン様」
聞き分けよく頷く。それが、私の役割だったから。
公爵令嬢ソフィア・エルロード。それが私の名前だ。
アラン様と婚約してから、もう五年が経つ。十八歳になった今、本来ならとっくに結婚式を挙げていてもおかしくない年齢だ。
けれど、式の日取りは決まらない。
アラン様が「忙しい」「今は時期が悪い」「国内情勢が安定してから」と、理由をつけて先延ばしにし続けているからだ。
「ソフィア、君は強いな」
ようやく顔を上げたアラン様が、私を見て微笑む。
その笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなったのは、もう遠い昔のことだ。今はただ、冷たい石を飲み込んだような重さしか感じない。
「君なら、僕の状況を分かってくれるだろう? 他の令嬢のように、式はいつだとか、ドレスはどうするとか、くだらないことで騒がない。本当に助かっているよ」
……くだらないこと?
一生に一度の晴れ舞台を、愛する人と誓い合う日を夢見ることが、くだらないことでしょうか。
言いたい言葉は喉まで出かかっていた。
でも、私はそれを飲み込んだ。
私が我慢すれば、丸く収まる。私が「物分かりの良い婚約者」でいれば、彼は安心して公務に専念できる。
そう自分に言い聞かせてきた。
「はい。アラン様のお邪魔にはなりたくありませんから」
「ありがとう、ソフィア。愛しているよ」
愛している。
その言葉すら、最近では事務的な報告のように聞こえる。
部屋を出た私は、廊下を歩きながら自分の手を強く握りしめた。爪が食い込む痛みが、かろうじて私を現実に繋ぎ止めていた。
その日の午後だった。王宮の庭園を歩いていた私は、生垣の向こうから話し声を聞いた。
聞き慣れた声。アラン様だ。
そしてもう一人、鈴を転がすような甘い女性の声。最近、王宮に出入りしていると噂の、男爵令嬢リリィのものだった。
「アラン様ぁ、いつになったら私と一緒になってくださるの?」
「リリィ、焦らないでくれ。今はまだ、時期が悪いんだ」
心臓が、早鐘を打った。足が竦んで動けない。
「でもぉ、もう一年も待ってますよぉ? ソフィア様との婚約はどうなさるおつもり?」
「彼女とは、いずれ穏便に話をつけようと思っている。彼女は賢い人だ。きっと分かってくれる」
分かってくれる?
何を?
私が、捨てられることを?
「じゃあ、私を選んでくださるの?」
「もちろんだよ、リリィ。君こそが僕の癒やしだ。ソフィアは……正直、息が詰まるんだよ。いつも完璧で、正論ばかりで、隙がない」
息が詰まる。完璧で、隙がない。
それは、あなたが望んだことでしょう?
「未来の王妃として恥じないように」「僕を支えられるように」と、あなたが私に求めた姿でしょう?
「君との結婚は、いずれ必ず」
アラン様が、あの日私に言ったのと全く同じトーンで、甘く囁いた。
「いつか、誰もが祝福する形で、君を迎え入れるよ」
その瞬間。
私の中で、何かが音を立てて弾けた。怒りではない。悲しみでもない。
ただ、すぅっと、体中の血が冷えていくような感覚だった。
ああ、そうか。
この人の「いつか」は、誰に対しても使う、ただの免罪符なのだ。決断を先延ばしにするための、その場しのぎの嘘。
私への「いつか」も、彼女への「いつか」も、中身なんて何もない。
私は、五年待った。青春の全てを捧げて、待った。
でも、もう十分だ。
私は静かにその場を離れた。
涙は出なかった。泣く価値すらないと、心が理解してしまったから。
***
翌日から、私は行動を開始した。まずは父である公爵に、全てを話した。
父は激怒し、すぐに王家に抗議しようとしたが、私はそれを止めた。
「お父様、感情的に動いては、こちらの立場が悪くなります。あくまで冷静に、事務的に進めましょう」
私は、アラン様の執務室へ向かった。
彼は相変わらず書類に向かっていたが、私が入ると顔を上げた。
「やあ、ソフィア。今日も手伝ってくれるのかい?」
「いいえ、殿下。今日はお話があって参りました」
私は「アラン様」ではなく、「殿下」と呼んだ。その変化に、彼は気づかない。
「話? 手短に頼むよ。見ての通り忙しくてね」
「はい。手短に終わらせます」
私は懐から、一通の書類を取り出し、彼の机の上に置いた。それは、婚約解消の合意書だった。
「……これは?」
「婚約の解消を願い出る書類です。既に、父と国王陛下の内諾は頂いております」
アラン様の目が点になった。書類と私を、交互に見る。
「は……? な、何を言っているんだ? 婚約解消? なぜ急に……」
「急ではありません。五年です」
「え?」
「私が殿下をお待ちしてから、五年が経ちました」
私は淡々と告げた。感情を込めず、事実だけを並べる。
「殿下は常々、『今は時期が悪い』『いずれ必ず』と仰いました。私はそれを信じ、待ち続けました。ですが、殿下」
私は一歩踏み出し、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「昨日、庭園でリリィ様に仰っていた言葉、聞かせていただきました」
アラン様の顔から、血の気が引いていくのが分かった。口を開閉させ、何か言い訳を探そうとしている。
「そ、それは……誤解だ、ソフィア。あれは、彼女を傷つけないために、その場しのぎで……」
「その場しのぎ」
私は小さく笑った。
「では、私への言葉も、その場しのぎだったのですね」
「ち、違う! 君への愛は本物だ! ただ、少し疲れていて、彼女の甘えに……」
「息が詰まる、と仰いましたね」
言葉に詰まるアラン様。図星なのだ。
私は彼を責めるつもりもなかった。ただ、確認作業をしているだけだ。
「殿下。私は殿下のために、完璧な婚約者であろうと努めました。殿下が望むから、学び、耐え、支えました。それが『息が詰まる』と言われるのなら、私達は相性が悪かったのでしょう」
「ま、待ってくれ! 謝る! 私が悪かった! 君が必要なんだ、ソフィア! 君がいなくなったら、誰がこの書類を整理するんだ!? 誰が各省庁との調整をするんだ!?」
……ああ、やっぱり。
この期に及んで、彼が心配するのは「自分の仕事」のことばかり。私という人間ではなく、私の「機能」が必要なのだ。
「それは、殿下のお仕事です」
「ソフィア!」
「それに、リリィ様がいらっしゃるではありませんか。彼女は『癒やし』なのでしょう? きっとお仕事の疲れも癒やしてくださいますよ」
私は机の上の書類を、指先で軽く叩いた。
「サインをお願いします」
「……嫌だ。絶対にしない」
「サインなさらなければ、昨日の会話の内容も含め、公的な場で正式に婚約破棄の申し立てを行います。そうなれば、王室の醜聞となりますが、よろしいのですか?」
脅しではない。事実だ。私の家は公爵家。王家といえど、不誠実な対応を続ければタダでは済まない。
アラン様は震える手で羽ペンを取った。悔しそうに、顔を歪めて。
「……後悔するぞ、ソフィア。僕の隣という、国で一番の場所を捨てることになるんだ」
サインをしながら、彼は捨て台詞を吐いた。
私はそれを聞いて、心の底から思った。
「いいえ、殿下」
私は書類を回収し、深く一礼した。
「あなたを待つだけの時間は、私にとって『一番』ではありませんでしたから」
***
それから一ヶ月後。
私とアラン様の婚約は正式に解消された。
理由は「性格の不一致」と発表されたが、社交界ではアラン様の浮気と、私の決断についての噂が瞬く間に広がっていた。
アラン様はその後、リリィ様を婚約者にしようとしたらしい。
けれど、リリィ様は「王妃教育なんて無理ぃ」と泣いて逃げ出し、さらにはアラン様の執務の手伝いなどできるはずもなく、執務室は書類の山で雪崩が起きているという。
「癒やし」だけでは、国は回らないのだ。
アラン様は今さらながら私の有能さに気づき、何度か手紙を送ってきたようだが、全て父が燃やしてしまったので内容は知らない。
そして私は今、国境近くの屋敷にいる。
目の前には、優雅にお茶を飲む男性。隣国の第二王子、レオナルド殿下だ。彼は以前、外交の場で何度か顔を合わせたことがあった。
「君がフリーになったと聞いて、飛んできたんだ」
レオナルド殿下は悪戯っぽく笑う。
「君のような優秀で、忍耐強く、美しい女性を放り出すなんて、アラン王子は目と頭がどうかしているね」
「……買い被りですわ、殿下。私はただの、可愛げのない女ですから」
「可愛げがない? とんでもない」
彼は席を立ち、私の前に跪いた。そして、私の手を取り、その甲に口づけを落とす。
「君が一人で耐えていた姿を、僕は見ていた。ずっと、助け出したいと思っていたんだ」
「殿下……」
「ソフィア。僕なら、君を待たせない」
彼は真剣な眼差しで私を見上げた。
「『いつか』なんて言わない。今ここで、君に誓う。一生、君を大切にする」
その言葉は、アラン様の空虚な約束とは違い、熱と重みを持っていた。
私の胸の奥にあった冷たい石が、じんわりと溶けていくのが分かった。
「……急すぎますわ」
「嫌かい?」
「いいえ」
私は涙を滲ませながら、微笑んだ。
ああ、初めてだ。誰かに必要とされ、待たされることなく、手を差し伸べてもらえるのは。
「少しだけ、考えさせてください。……前向きに」
レオナルド殿下は嬉しそうに笑った。
私の新しい時間は、もう動き出している。
誰かの「いつか」を待つだけの人生は、もう終わりだ。
これからは、私が選び、私が歩む。
その隣に、彼がいるのなら――それはきっと、悪くない未来だと思えた。
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