03. 司教の乱
「どういうことですか、アーヴァイン大司教!」
執務室に駆け込んできたかと思えば、いきなりの抗議だった。
オールストン司祭、アーヴァインと対立する派閥、アップルガース枢機卿の親戚筋の司祭だ。現在、枢機卿は教会の総本山に赴いている。その間の出来事だった。
「なぜ私の司教叙任を邪魔するのです!」
「さて? 面白いことを言いますね、司祭。私にあなたの叙任権はありませんよ」
涼しい顔でアーヴァインはこたえる。実際、正式な叙任権は持ち合わせていない。裏で糸を引くことは十分可能で、事実、叙任を潰した張本人であるが。
「あなたが何かしでかしたに違いない! でなければ私が司教に選ばれない筈がないんです!!」
「それは随分な自信ですね。しかし実際には違う司祭が叙任された。実力不足だったからでしょう。自信過剰も良いですが、思い上がりは程ほどに留めておくのがよろしいかと思いますよ」
穏やかな口調で諭すが、意味は「一昨日きやがれ莫迦」である。
嫌味を解るだけの頭があったオールストン司祭は、顔を真っ赤にしながら足音荒く退出した。
「自信過剰がどちらか、そのうちにはっきりすると思いますがね!」
そう捨て台詞を残して。
「まるっきりの莫迦ではなさそうだけど、小物感が否めないねえ」
司祭の出て行った扉をみながら、側仕えのセリムに話しかける。
「まあ、若いんでしょうね。世渡りが下手そうだ」
「わざわざ敵対派閥の関係者の所に直接来て抗議とは、随分と可愛らしい」
ご褒美に何をしてあげようかと続けるアーヴァインの顔には、黒い笑みが浮かんでいた。
現在、現教皇が重篤な状態である。本山には全枢機卿が呼び寄せられ、いつ教皇が身まかられても良いように待機している。その中で既に次期教皇を決めるための陰謀が渦巻いていた。
アーヴァインの叔父であり本山配属のオルグレン枢機卿は、最高齢のガリーノ枢機卿を推している。まだ若く序列の低いオルグレンだが、ガリーノの次の教皇選には、充分権力を手に入れている自信がある。また現在、齢七十を超えたガリーノが天寿を全うしたところで、現在三十代半ばのオルグレン枢機卿は、教皇として立っても十分にやっていける体力がある。
しかしもう少し上の世代で、序列の高い枢機卿はそうでもない。特に序列二位のジレッティ枢機卿は現在五十九歳、教皇になったガリーノがうっかり長生きしてしまったら、先に死ぬのは自分だから猛反対だった。
そういう事情で、アーヴァイン大司教やオルグレン枢機卿はガリーノ推しだ。少し前まで対立派閥であるアップルガース枢機卿は立場を明確にしていなかった。
それで協力を求め、見返りにアップルガース枢機卿の勤務地をセルティア王国から総本山に推薦することと、派閥内の司祭や司教の昇進を仄めかしていた。
しかし協力を約束したその舌の根も乾かぬうちに、態度を翻したアップルガース枢機卿をはじめとする派閥をオルグレン派は許さなかった。
結果としてオールストン司祭の司教叙任は無くなったのだった。
「莫迦だよねえ、でも笑っていると足を掬われそうだから、教会から追放しちゃおうか」
にっこりと笑ったアーヴァイン大司教はとても楽しそうだ。
側仕えは「程ほどに」と言うだけで、それ以上に突っ込んだ話はしなかった。
三度の飯より陰謀好きな主が側仕えに諫められた程度で、対立派閥を追い詰めることをやめはしないことを知っている。
それに自身、止める気が全くないのだ。
* * *
アーヴァイン大司教の向かいにいるのは、美人で有名な伯爵夫人だった。
真面目が取り柄の地味なフォスター伯爵には、もったいないと言われる夫人だったが、どれほど秋波を送られてもなびかない、身持ちの固い女性としても有名だった。最近の社交界では誰が夫人を落とすのか、行儀のよろしくない紳士たちの間で、賭けの対象になっている。
二人が同じ部屋に入ったのは夜会の最中、疲れた参加者向けの休憩室の一つだが、実際は男女の睦み合いのために用意されている、そんな部屋の中で二人は密会していた。
二人きりになって充分な時間が経った頃、いきなり部屋の扉が開かれ、数人の男が入ってくる。
「堂々と姦淫の罪を犯すとは!」
そう大声で言いながら入室したのはオールストン司祭だった。
しかし室内の二人は机を挟んで座っており、服装の乱れも全く無い。
「急ぎで内密の相談をしたいと言われて、二人きりになったことが姦淫とは」
「二人きりで密会しているのは、本当に相談だったんですか? 話だけなら遠目でも人の目がある場所がいくらでもあるでしょう。わざわざ二人きりというになるのは、邪な気持ちがあったからでは? 我々が早すぎたから言い逃れるおつもりですか?」
「別に早すぎではありませんよ。それに誰が二人きりだと? 夫人の付き人が部屋にいますよ。流石に使用人に見られながら行為に及ぶような、そんな性癖を持ち合わせていると言いたいのでしょうか」
「どうとでも。使用人が一人いた程度で、二人きりではなかったというのが通用しないのは、侯爵家のご出身の大司教ならよく理解していると思いますが如何か」
「もちろん、使用人一人なら通用しないでしょうね」
アーヴァイン大司教の言葉の後、調度の陰から出てきたのは、どこの派閥にも属していないと言われている司祭だった。
「半信半疑でしたよ、大司教から証人になって欲しいと頼まれたときには。懸念が現実になって、今はただ驚くばかりです。見損ないましたよ、オールストン司祭。対立関係にある大司教を貶めるためだけに、無辜の女性に姦淫の罪を強要するとはね」
実は姦淫の罪はオールストン司祭の側にこそあると糾弾され動揺が走る。
「どちらに罪があるか、これからはっきりさせましょうか」
柔らかく微笑むアーヴァイン大司教と、怒りを露わにするオールストン司祭と、焦りをにじませる夜会の主催者であるホールデン侯爵。
「アンジェラ商会からの借金を奥方が身体で返す、そんな野蛮なことはセルティア王国どころか、大陸中で許されることではありませんが……。侯爵家の後ろ盾があれば、大手とはいえ新興の商会が、伯爵家にそんな無体を働くことも頷けます。商会長はホールデン領出身でしたね」
「言いがかりだ!」
「言いがかりかどうかは、調べてみれば分かることです。教会の教えに背く行為ですからね、教会で調査しますよ。役人は適当にあしらえますが、教会も同じだと良いですね」
「越権行為だ! 貴族の罪は近衛が調べる」
ホールデン侯爵の言葉は真っ当なものだった。しかし教会の教えに背く行為は教会が調べる。
国軍と教会、どちらに優先権があるかと言えば教会にあった。
「何を主張されるのも自由ですが、思い通りになるとは限りませんよ。既に教会は動き始めました。あなた方がこの部屋に入ったのと同時にね」
「教会側の調査員を屋敷にはいれんぞ!」
「そうですね、こちらの屋敷に証拠はありませんから、必要ないでしょう」
既に調べはついている。
ホールデン侯爵は抜け目が無い。屋敷の中に危険な書類は置いておかないのは承知の上だ。アンジェラ商会の本部にもそんな書類は無い。
だが借金の証文や、後ろ暗い取引の証拠は、立場の弱い方が必ずどこかに残しておくものだ。信頼関係のある相手であれば、証拠のような危険なものは絶対に残さないが、全く信頼の置けない相手、それも弱みを少しでも見せたら踏み潰しにかかったり、喉元に食らいつくような相手なら。
そういった危険な書類がどこに保管されているか、既に調査済みだった。
証拠を押さえるのと同時に、逃亡の恐れがある関係者全員を拘束するだけの簡単な仕事しか、既に残っていない。
「今すぐに証拠が出揃う訳ではありません。今日のところは解散しましょうか」
アーヴァイン大司教は穏やかな笑みを浮かべながら告げる。
「付け焼刃な計画で私を追い詰めようだなんて、随分と浅はかだと思わないか?」
「無理でしょうね、そもそも彼では難しいでしょう。浅はかなので」
アーヴァイン大司教と側仕えのセリムは、全てが終わった後の執務室にいる。
アンジェラ商会は一年ほど前から目をつけていた。急成長した商会というのもあるが、賭場と関係があったからだ。金と女を調べれば、醜聞は簡単に見つかる。だから王都の全ての賭場の情報を握っていた。商会と繋がっていた賭場は貴族御用達だったが、あまり評判は良くないことで、賭け事の好きな貴族の間では有名である。
筋の悪い賭場と関係があるだけで、商会がまともな商売だけで成り立っていないことは一目瞭然だった。
そんな中、フォスター夫人がアンジェラ商会の借金のために、身売りをしなくてはいけないと相談してきたのだ。詳しく話を聞けば、夫は真面目で派手な遊行は無く、領地経営にも問題がない。そもそも借金をするような理由がないのに、多額の借金があるという。
その借金の相手は前から目をつけていたアンジェラ商会である。
フォスター伯爵のことは夫人からの相談がなくとも知っていた。全ての貴族は頭に入っているのだ。
兄の急逝により官僚を辞めて爵位を継いだ次男坊で、勤勉実直、真面目が取り柄な男だ。官僚時代に美人の妻を娶ったのも、妻の父が将来有望な男に娘を嫁がせたいというのが理由だった。貴族家に婿入りする話もあったくらい評判の良い男だったが、性格も容貌も地味の一言に尽き、女性からは次男であることも含めて不人気だった。曰くドレス一枚作るにもうるさく言われそうだと。
しかし官僚時代のフォスターの才能を認めた夫人の父親同様、夫人も堅実な性格だったため、あっさりと結婚が決まり、仲の良い夫婦として社交界では知られている。
「貞淑な妻の仮面の下で、それなりに遊んでいる女性を標的にすればバレなかったのにねえ」
「遊び慣れた男は、女性の裏の顔も知っているから無理でしょう」
「それもそうだね。まあフォスター伯爵家が落ち着いて良かったと思うよ」
* * *
「この度は救っていただき、ありがとうございました」
アーヴァイン大司教の執務室で深々と頭を下げるのは、先日の事件で巻き込まれたフォスター伯爵だった。
「私が不甲斐ないばかりに、妻を危険な目に遭わせました」
「しかし何も無かった、それで良しとするべきでしょう。奥方に傷はつかず、それどころか最近流行の「結婚してからの純愛」に興味を持たない、貞淑な夫人として名が上がりました」
「そうかもしれません。ですが妻を守るのは夫の役目です、私は役目を果たせなかった」
フォスターは苦渋に満ちた表情のままだ。
妻を守るどころか傷をつけそうになったことに自責の念を抱いているのだ。
「ご自分を卑下するものではありません。阿芙蓉の匂いを知らない真面目な男だからこそ、夫人やその家族はあなたを夫に選んだのでしょう。ああいった物を知るような男なら、妻を守れたでしょうが、そもそも婿に選ばれていないでしょうね。奥方はあなたと家族になれて幸せですよ。これからも真面目に日々を暮らし、夫人を大切にすることこそが、伯爵の務めであり、奥方の幸せを守ることです」
アンジェラ商会は不正取引の際、相手の判断力を鈍らせるために阿芙蓉を使っていた。香に混ぜて焚きしめられていたが、吸った回数が少なかったため、フォスター伯爵に深刻な中毒症状は出ていない。
商会と繋がっていた賭場の方では、中毒のために療養を余儀なくされた客もいたのだから、不幸中の幸いである。危険な薬であり、当然のようにどの国でも禁制品である。入手先や流通経路は徹底的に調べられ、関係者には厳しい処分が待っていた。
賭場の関係者とアンジェラ商会の関係者は根こそぎ取り締まりを受けている。商会の後ろ暗い商売は知っていたが、賭場や阿芙蓉のことを全く知らなかったホールデン侯爵は、それでも罪は免れないと降爵されて子爵になり領地の大半を取り上げられた。
オールストン司祭はアーヴァイン大司教を追い落とすために、最近になってホールデン侯爵と手を組んだだけで後ろ暗い商売を知らなかったが、それでも罪は免れず聖職を剥奪されて教会から放逐されている。
身内の司祭の不祥事ということで、アップルガース枢機卿の序列が下がった。同時にフィールディア教が国教となっていない国への赴任が決まった。最低でも十年はセルティア王国に帰ってくることはないだろう。
「これはお礼です、受け取っていただけると思っております」
「ご寄進でしょうか。ありがたく受け取らせていただきます」
「いえ、寄進ではなく猊下個人に対するものです。私とて貴族の端くれです。猊下のお噂は承知しております。今回のようなことには費用がかかりましょう、いくらあっても困りますまい。それにこれはホールデン家からの慰謝料のような金です。私の懐は一切痛んでおりません」
「そういうことでしたら有難く受け取ります。また問題が起きた時にはご相談ください。尤もそう何度も事件に巻き込まれるようなものではありませんが」
「でしたら子の名付け親に。妻の懐妊が判りました」
妻の妊娠を伝える伯爵の顔はどこか晴れやかだった。
ストックが切れました。
大司教編はあと2話ほど予定しています。
昨年中に書き上げる予定が大幅に伸びてすみません。




