02. 嫡子の認知
アーヴィン大司教の元に、一件の離婚申請を却下したと報告があったのは、その日の午前のことである。
対応した司祭は「嘆かわしい」と渋い顔で吐き捨てるように呟いた。
妻への嫌がらせのためだけに、夫婦の間に生まれた子を認知しないロクデナシの父親に、厳しい目を向けるのは、面会した司祭以外に何人もいる。
その筆頭がギーラン大聖堂の責任者であるアーヴァイン大司教その人だ。
ロクデナシな夫はヴィンス=アボット、男爵家の当主である。妻であるカタリナ夫人と出会ったのは、彼女の出身国でありセルティア王国を含む大陸で信仰されているフィールディア教の大本山があるレザンディン王国だった。巡礼と言う名の物見遊山の最中に二人は出会い、激しい恋愛の末、結婚して夫であるアボット男爵の母国、セルティア王国に暮らしている。
しかし旅の間という非日常の中で出会った妻への興味は、帰国とともに急速に冷めて行ったらしい。結婚して二年、身重な妻との離縁を持ち出した夫と妻の関係は険悪で、修復不可能なまでに壊れていた。
カタリナ夫人は離婚に応じる気はある。
つい先日、子のいない親戚が、カタリナに土地財産を遺産として贈りたいと申し出があったのだ。代々、娘に継がれる土地なのだという。
問題はアボット男爵が妻への嫌がらせとして、夫婦の子の認知をせず、夫人と夫以外の子として扱うと言い張っていることだ。セルティア王国よりもずっと教義に厳しいレザンディン王国では、庶子を産んだというのはこの国以上の醜聞だからだ。
カタリナは自分が腹を痛めて産んだ子であり正式な夫婦の子である息子を、私生児扱いにすることを良しとはせず、子を認めない限り離婚はしないと言っている。
離縁を言い渡された後からアーヴァイン大司教を頼ったカタリナは、聖アマーリエ女子修道院で子を産み育てている。国王さえ出入りできない厳格な規律を持つ女子修道院は、たかが男爵でしかないアボットに手が出せる場所ではなかった。
産後、弱った身体は十分に体力がつき、母国への旅に耐えられるほどになった。生まれた子も育ってきている。
しかし嫡子として認められていない子が、レザンディン王国で受ける扱いを考えると、旅立つことが躊躇されるのだった。
「結局のところ、顔を見たくないほど嫌いな妻を苦しめる行為が、より自分を苦しめるとは気づいていないことが哀れだねえ」
「問題は哀れかどうかではありません」
目の前の司祭が苦言を呈する。
「そもそも不仲だと言っても、生まれてきたばかりの我が子を苦しめる父親が、どこの世界にいるというのです」
今回、離婚の話と合わせて子供の洗礼式の話を切り出したが、アボット男爵の「自分の子ではないので、こちらに話を振らないでいただきたい」という一言で終わった。
「親が認知しないと言っても、教会が認知することも可能なのは判っていない阿呆には、何を言っても無駄だろうね」
アーヴァインは呆れたように呟く。
アボットの阿呆加減を嘲笑ってやりたいところだが、目の前の生真面目な司祭に咎められるのは面倒臭いのだ。
出産時、父親が病気や怪我で没していたり、今回のように両親の不仲でといった事態は存在する。そんなときに教会が嫡子として子を扱うことは、少数ながらある話だった。
不信心な父親は知らないことかもしれないが、稀というほど珍しいことでもないというのに。
「次に来るとしたら離婚の件の督促かな。絶対に離婚は認めないと言って追い出して構わない。それと奥方は国に帰すこと。万が一、別の女性との間に子が生まれても、この国では洗礼を受け付けないと言ってやれ。不義の子の洗礼をする気は無いと。他国で洗礼をすることは構わないが、非嫡子として扱われるとも。勿論、新たな婚姻も認めない、重婚だからね。カタリナ夫人との間に生まれた子の認知をすれば、離婚問題も対応するが、期限は今日から一月以内、夫人の帰国の仕度が整うまでの期間だ。その後にアボットが来たら、夫人が亡くなるまで一生離婚も再婚もできず、正式な跡取りがいないまま死ねと伝えたまえ。彼には弟がいるし、後継になる男子もいるから男爵家の存続に関しては問題ない」
アボット男爵は弟と不仲だ。弟やその息子が跡取りになることは、絶対に避けたい事態だろう。
しかし教会が心中を察してやる必要は、一切ないのだ。人を呪わば穴二つという言葉を身をもって体験すれば良い。
もしアボットがカタリナとの間にもうけた子を嫡子として認めれば、離縁の後、他の女性との間に愛を育み、再婚する道は残されている。
男爵にとって幸いなことに、夫人は子にアボット家の相続権を放棄させると言っていた。国元に帰り、レザンディン王国の貴族として教育すると言っているから、セルティア王国の男爵位は再婚後に生まれた男子が継ぐことになる。
誰にとっても良い結果しか生まないのだ。
* * *
洗礼式は親であるカタリナとその付き添いであるリリー=ロートン、そして教会関係者しかいない寂しいものだった。
赤ん坊はアーヴァイン大司教が名付け親になりアルベルトという名前になった。母親譲りの金髪と、父親譲りの濃青色の瞳を持つ子供だった。目元は父親似、通った鼻筋や口元は母親似と、両親のどちらにも似た子供で、アボットが我が子でないと言い張るには少々、父親に似すぎていた。
カタリナは洗礼式が済み次第この国を発つ。結局、父親による認知は叶わなかったが、代わりにアーヴァイン大司教による、子の出生を証明する手紙を用意された。それを読めばカタリナの息子が私生児ではないことは理解してもらえる。
「色々とお世話になりました。リリーにも話し相手になってもらえて、気が晴れました」
「それは何よりです。セルティアでの生活の全てがつらいものにならなくて」
「夫は最低な人でしたが、それ以外は良い思い出しかありませんわ。外国人の私にも皆さんよくしてくれました」
そう言って微笑む。既に子の認知問題は心の中で整理がついたのだろう。とても晴れやかな笑顔だった。
「もしこちらに遊びに来られたら、是非、大聖堂にも立ち寄ってください。それとこれは路銀です。旅の最中にお金が尽きたら大変ですからね」
手渡したのは小さな袋だ。中には幾ばくかの宝石が入っている。既に金貨や銀貨を十分に渡しているから、本来は不要なものだ。売れば旅費の全額どころか、帰国して一年くらいは問題無い額になる筈だ。
「でも旅の手配は全て大司教猊下がしてくださってますわ」
「問題ありません、これは『経費』です。ロクデナシの懐から出ていると思って受け取りなさい」
経費、それは匿われていたとき、嵩む費用を気にするカタリナに対して、アーヴァインが言った言葉だった。
慰謝料の肩代わりですよ。離婚に関わる経費として受け取っておきなさいと。かかった費用は全て後からアボット男爵に請求するから問題ありません、教会の出費にはなりませんよと。
聖アマーリエ女子修道院の院長からも「あのアーヴァイン大司教が、自分の損になることはいたしません、安心して受け取っておきなさい。その数倍の費用をアボット男爵に請求するだけなのだから」と。
「さあ、もうお行きなさい。レザンディン王国は遠いですよ。出立が遅れれば、今日の宿に到着するのも遅くなり、体力を消耗します。明日以降の旅程にも響きます」
カタリナ夫人とアルベルトは洗礼式の後、旅立つことになっている。教会の本山がある国なので、教会関係者の行き来は多い。それに同行する形での帰国になるため、旅慣れた司祭による案内と護衛付きの快適な旅になる予定だ。
「帰国後に何かあれば、私の叔父を頼ると良いですよ。枢機卿を務めていますから、大抵のことは解決してくれます」
「判りました。ではお暇させていただきます。リリーも本当にありがとう」
「気を付けてカタリナ。もし巡礼の旅に出たら、あなたの家に遊びにいくわ」
修道院の中で親しくなった友人たちとの別れも終わり、カタリナは馬車に乗る。
走り出した馬車はあっという間に小さくなり、そう時間もたたずに見えなくなった。
* * *
「大司教、一体どういうことですか!」
ミサの後、待ち伏せしていたアボット男爵はアーヴァイン大司教に詰め寄る。
「どうもこうも、よほどのことがなければ離婚は認められませんよ。当然ではありませんか」
「しかし、離婚が成立しなければ、再婚できませんし、跡継ぎを得られません!」
「それは男爵家の問題であり、教会が関知することではありません」
取り付く島もなく、アーヴィンは男爵を切り捨てる。
「どうでもよろしいが、家の醜聞を大勢の前で話していることに気付かれた方が、ご自分のためですよ」
ミサが終わった直後である。当然だが大勢の人が周囲にいた。
「自分で招いた結果です。責任が自分にあることを自覚しなさい」
それだけ言ってアーヴァイン大司教はその場を後にする。
三か月後、やつれ切ったアボットがギーラン大聖堂を訪れる。
アーヴァイン大司教に直訴した直後から、既に数十回の訪問になる。その度に門前払いを食らっているアボットだったが、だからといって訪問を止めることはできない。自分の子に男爵家を継がせるためである。
「頑張るねえ、彼も」
側仕えのセリムに言いながら、アボットの本来は必要でなかった苦労を嗤う。
「恨みを買うのも怖いし、そろそろ許してあげましょうか」
「恨みを買う前に殺せば良いだけなのに……全然、怖いと思っていないでしょう?」
「まあね、彼如きを怖がってたら、王族は相手にできないからね」
物騒なことを言う主従は、面会の場に向かう。
「お待たせしました。男爵の熱心さに絆されて面会する気になりましたよ」
「では離婚を認めてもらえるのですね!」
「その前に認知が先です。そして離縁に際して、わざわざ他国から嫁いできた女性を、気が変わったというだけで着の身着のまま追い出したなんて、外聞の悪い状態のままという訳にはいきません」
「では……」
カタリナが帰国したことは、既にアボットの耳にも入っている。
アーヴァイン大司教の言葉通り、妻が国から持参した物以外、何もを持たせずに追い出した。とても円満とは言えない状況で、これからやり直すこともできない。
「……どうしたら、既にアレは帰国している。既に追い出して手の届かない場所にいるというのに、どうすれば良いのです!」
「幼な子を抱いた母親に無体なことはできませんよ。私の方で困らないように手を尽くしています。ですから男爵はその分を寄進という形で返せば良いのです。ちなみに経費は金貨換算で約五千枚です」
「は……? 金貨五千枚なんてあり得ないでしょう!」
「彼女はれっきとした貴族のご婦人ですよ。女性の一人旅なんかで家に帰せるとお思いですか? 当然ですが付添人と護衛をつけて、宿だってそれなりのものを手配しています。船は一等客室ですよ。それ以外にも家を追い出されてから旅立つまでの生活費、産婆への謝礼など、全ての費用の総額です。彼女のご実家の格を考えれば安い方でしょうね」
「……」
「別に強制ではありませんから、どのようになさっても構いませんよ。私の問題ではありません」
アーヴァインは微笑みのまま相手を突き放した。
実際、どう転んでも困るのはアボットだけで、それ以外の人間が困ることは無い。
だからどうでもいいのだ。
アボットに提示した金額の中には、立て替えているカタリナへの慰謝料や、アーヴァイン大司教自身への手数料、身を寄せた聖アマーリエ女子修道院への寄付なども含まれており、実際の出費の五倍ほどになっているが、それには特に触れない。
不幸な女性に費用を請求する気は全くないが、不幸な女性を生み出した元凶には、何倍もの請求をおこない自分と教会への手間賃をもらわなければ、働いた価値がないのだ。
「……わかりました。教会へのご寄進をさせていただきます」
絞り出すように声をだしたアボットは、アーヴァイン大司教の提示した金額を寄進として支払うと約束して退出する。
数日後、アーヴァイン大司教に面会すれば、今までの拒絶はなんだったのかと驚くほどの速さで取り次がれ、寄進を受け取られた。
その後はとんとん拍子に、嫌った元妻との間に生まれた子が第一子として記載され、同時に離婚も成立した。




