47. 理性の糸は切れた
「少し話がある」
夜遅くに帰ってきて事の顛末を聞いたアーサーはフローラを呼び出した。
綺麗さっぱり子爵の臭いと汚れを落とし、一仕事終えた雰囲気でグリューワインを嗜んでいたフローラは、今日の報告か何かだと思い、ネグリジェの上に羽織りだけの姿でアーサーの部屋へ向かった。
「フローラです」
「……入ってくれ」
「失礼します」
アーサーは返り血を落としたばかりらしく、髪はまだ水が滴っていた。いつも掻き上げている前髪や一つに括ってある後ろ髪が下ろしてあり、少し新鮮だ。通常だったら、フローラは褒めちぎって遊んでいただろう。
しかし、そんなことをして良い状況ではなかった。硬い表情に、ドス黒い雰囲気。額には血管が浮き出ていたし、眉間には谷より深い皺がある。とても、怒っている。
「子爵に襲われたそうだな」
「え、ええ。ですが、すぐにドリスが助けてくれました」
フローラはドリスがどれだけ華麗に子爵を締め上げたかを語り、話を逸らそうとしたが、アーサーの冷たい視線に、その道が塞がれたことを察する。
「なぜ、二人で会っていたんだ」
「……この間の件、裏で子爵が手引きしていた証拠を集めるのに難航していましたよね。それが、子爵による工作だと気づきましたので」
フローラはアーサーの機嫌を探りながら、初めて来た日のように、素直に話して理解してもらうのが一番良いと結論づける。
「俺がいない状態の子爵なら油断し、簡単に御せると」
フローラの思惑に気づいたアーサーは眉を顰めた。より低い声が響く。フローラはただ黙って頷いた。
アーサーが深いため息を吐く。そして座っているソファの隣を叩いた。
「自分を損なわないでくれ」
誘われた通り、フローラはアーサーの隣に座る。何も怪我などをしていないか、視線で確認された。フローラだってそこまでのリスクは負わない。
「別に押し倒されただけで、どこも傷ついてませんし、大……」
フローラが自分の失言に気づいた時にはすでに遅かった。何をしても軽く死んでしまうからと揶揄いすぎたせいだ。猫を被るのを度々忘れ、何を言っても大丈夫だと麻痺していた。
「ほぉ……」
────アーサーの理性の糸は切れた。
毎日毎日フローラがいる日常を夢だと勘違いし、現実だと理解しては爆ぜ、フローラの日常を守るためになるべく視界に入らないようにしてきた。その、間違った努力を抑えてきた理性の糸が。
「これが、傷ついていないと言えるのか?」
片手で両手首を抑えられ、顔は鼻先が近くなる程近くなる。アーサーはフローラをソファに押し倒していた。
「怖く、感じないか?」
髪の毛が垂れ、アーサーしか見えなくなる。氷のように透き通った水色の瞳に、フローラはブレスレットの蛍石を思い出した。
「それは……まぁ……」
フローラは曖昧に答える。これが別の人間ならそんなことはないだろう。もし武器もドリスもいない状況でこうなれば死だが、まずそんな状況にはならない。しかし、アーサーの場合は別だ。一緒に暮らしている以上、どうしたって隙は見せてしまうし、危害を与えることはできない。というよりも、ここから逃げる手段が思いつかない。
「それは、傷ついたことと同義だ。だから、今後一切やめてほしい」
フローラはとりあえず頷いた。無償で愛されたことなどないフローラは人でなしにも、アーサーには関係ないことなのに、と思っていた。
アーサーはその考えをも察する。
「貴女が傷つくと、俺は貴女以上に痛い」
アーサーの痛そうな顔に、フローラは感覚を共有するようなことはしていないと考える。本当に無情だった。
「もし貴女に危害を与えるような輩がいれば、俺は刺し違える形でもそいつを殺し、自害する」
アーサーの目は冗談などではなかった。本当にそんなことになってはフローラの計画は破綻する。フローラにはなぜかわからないが、アーサーは凄く執着しているのだ。
「わ、かりました。今後はやめておきます」
アーサーはフローラを抱き上げ、そのままベッドに連れて行った。そして寝た。そもそも不眠不休で山賊を片付けてきたのだ。当然疲れていた。
……初めての同衾は、ただの同衾だった。通常だったとしても、ファンシーな部屋でそんな気は起きないだろう。アーサーは怒りでそのことを忘れ、フローラは触れる機会がなかったが。
「……寝てる。人と寝るのなんて初めてだわ」
フローラは何も考えずにアーサーの目の下をなぞる。そこには黒い隈があった。寝ている時も顰めっ面で、何やら魘されている。
「あたたかい……」
フローラは子爵が殺される前に早急に吐かせることに決めた。アーサーの悪夢の原因が、フローラのせいだとも知らずに。




