第四章 ほくろ平
降臨歴三五二六年藤月五日、つまり煕幸と真愛が荒れ果てた屋敷の風呂場で出会ってから七日目に、桃園軍は目元城を出発した。九千三百人の家臣のうち、城には高齢の者を中心に三百人だけを残し、ほぼ全軍の九千が真愛を大将に遠国街道を東へ向かった。
芽の湖の南を過ぎ、街道が縁神山脈を越える部分に入った桃園軍は、見伏国と垂氷国の境の三海峠まで来るとそこで停止し、街道を封鎖する構えを見せた。垂氷国へ遠征している灰積軍の糧道を断とうとしたのだ。
吼狼国の主島の臥神島は横から見た狼そっくりの形をしていて、垂氷国はその後頭部に当たり、灰積家の本城のある八岐国は狼の頬に相当するが、人で言うともみあげの位置に南北に長い縁神山脈があるので、遠国街道が使えないとなると芽の海の北側を大回りするしかない。だが、そちらには整備された広い道がなく、米俵や味噌の桶などを大量に運ぶのは難しい。しかも、二龍逢城は大きな二本の川の合流点に作られた三方が水という攻めにくい城の上、一万五百人の兵が決死の覚悟で籠もっているので、灰積軍は攻略の決め手を欠き、包囲は長期化の様相を呈していた。垂氷国のすぐ北の片籠国の岩夏家も攻囲に加わっているので兵糧を差し出させるにしても、四万六千の大軍を長く養うのは難しい。桃園勢を追い払って兵糧の輸送路を確保しなければ、灰積軍は撤兵せざるを得なくなる。
将邦と軍師の緑塚貞述、筆頭家老の小枯野猶門、それに将邦の息子で三十歳の将建は対応を協議し、先に桃園家を打ち破ることで意見の一致を見た。そこで、将邦の弟で四十九歳の将同に武者三千を与え、灰積家に既に屈服して参陣している四封主家の中で最大の一万三千人を擁する鷲松家と共に包囲を続けるように命じ、残りの三万を将邦自ら率いて西へ向かった。
すると、峠を下りて攻囲軍の背後を襲う動きを見せていた桃園軍は次第に後退し、三海峠から見伏国の方へ少し戻ったところにあるほくろ平という平坦地の奥に陣を布いた。この円い草地は、芽の湖の南東、ちょうど狼の目尻の泣きぼくろの位置にあることからほくろ池と呼ばれる小さな湖にこぶのようにくっついている。かつて池がもっと広かった頃にはその一部だったので今でも大雨が降ると冠水することがあり、そこだけ森が途切れているのだ。
「ふむ、どうやら敵はほくろ平で決戦を挑むつもりのようじゃ。糧道を断つふりをしたのは我等を誘い出すためだったのじゃな」
三海峠まで進出し、夕食の煮炊きを始めた灰積軍の本陣で、偵察に出した武者の報告を聞いた貞述は、やせ細り腰の曲がった体を杖で支えるいつもの姿勢で長いあごひげをひねった。
「我等と決戦だと? この兵力差でか?」
将邦は信じがたいという顔で吠えるように尋ねた。五十五歳の猛将の筋肉で膨れ上がった巨体に豪華な漆塗りの床机がきしみ、黒い兜の二本の黄金の角が呆れたように振られた首の動きに合わせて左右に揺れた。三日月を半分にして兜の左右に付けたような円く反ったこの長い角は、配下の武者たちの無慈悲さとともに首の国で恐怖の象徴となっている。
「到底正気とは思えぬな。やつらは無茶を承知で賭に出てきたというのか」
三万と九千だ。味方していると聞く義狼団を合わせてもせいぜい一万。普通に考えればまず勝ち目はない。だが、七十三歳の軍師は、当然のことじゃろう、お主らはそんなことも分からぬのか、という顔で頷いた。
「そうじゃ。他に手はないからのう」
元は真澄大社の祭官だった貞述は、九年前に将邦に見出されて以来、腹心として作戦の立案や軍略の助言で多大な功績を上げているので、将邦たちは首を傾げながらも次の言葉を待った。
「遠国街道が縁神山脈を越える間は細い道が続くゆえ、道を封鎖して守りを固めればやつらは簡単には負けはせぬ。じゃが、わしはこういう事態に備えて当家領の各国に合わせて一万ほどを残しておいた。我等が東の目尻の方で戦って敵を引き付けておる間に、その者たちに西の目頭の方から見伏国に攻め入らせれば、目元城が危うくなる。桃園家はほぼ全軍を出陣させて城を空にしておるし、ただでさえ少ない軍勢を分けてはますます勝つのが難しくなるゆえ両面作戦は避けたいじゃろう。となれば、長い戦になる山道での防衛策は諦め、我等をこの山脈へ引き込んで、どこかで決戦を挑むしかないのじゃ」
将邦たちは低い台に広げられた遠国街道の地図を見ながら軍師の言葉に聞き入っている。
「我等に目元城への道を空けてやるわけにはいかぬゆえ、やつらは街道上から動けぬ。また、ほくろ平を過ぎればすぐに山は終わって芽の湖のほとりに広がる平地に入り、進軍をはばむことは難しくなる。よって、合戦には、街道が通り、この山中で一番広い草地で大兵力を展開可能なここが最も好都合なのじゃ。周囲に人家や田畑がなく民が巻き込まれることもないしの」
「なるほど」
小枯野猶門が感心したように頷いた。この四十代の筆頭家老は大柄ででっぷりと太っているが、将邦の前に出ると一回り以上も小さく見える。猶門はその自分のさらに半分程度の細さの年長の軍師に、丁寧な口調で尋ねた。
「ですが、まともに戦えば我々の勝ちは揺るぎませぬ。となると、敵は何かしらの策略を用意しているということですかな」
「じゃろうな」
貞述の表情は、よく分かったのう、ほめてやろう、と言わんばかりだった。
「聞けば、やつらは桜の大軍師が陣営に加わったと宣伝しておるそうじゃ。恐らくは我等を動揺させようというはったりじゃろうが、体に桜の刺青を入れた十七歳の自称知恵者が陣営に加わっておるのは事実のようじゃから、何かをたくらんでおる可能性は高いな」
「無駄なことをするものですな」
猶門が媚びるように言った。
「五年前、我等の倍の武者を率いていた鷲松勝嘉を手玉に取った貞述殿に、若造の下手な小細工が通用するはずがありませぬ。苦戦しているふりをして敵を引き寄せて足止めし、背後に回した部隊と挟撃して散々に打ち破ったあの作戦は実に見事でした」
「いやいや、敵がどのような策を使ってくるか、わしは楽しみじゃよ」
貞述はしわだらけの顔を余裕たっぷりの笑みに歪ませた。
「首の国へ来てから歯応えのある敵に出会っておらぬ。皆弱すぎるか、することが単純すぎるのじゃ。こたびは少しは楽しめるとよいがのう」
貞述の笑みには、この老齢の軍師の膨れ上がった自負心と他者を見下す傲慢さ、それに多数の武者や民を殺すことを全くためらわない冷酷さが露わだった。秀でた額にこけた頬、細いあごという容貌は、昔は思慮深く温厚そうに見えたのだろうが、年齢を重ねたことで若さというめっきがはがれ、その本性を隠せなくなっている。
「じい、前置きはもういい。それで、俺たちは具体的にはどうすればよいのだ。もったいぶらずにさっさと教えてくれ」
将建がいらだったように尋ねた。今年三十路に入ったというのにいまだにだだっ子のようにせっかちで待つことができず、そのくせ考えることを他人任せにして責任を取りたがらない灰積家の跡取り息子の性格を熟知している貞述は、将邦の手前、教育係らしく一応は厳しい口調で、しかし内心では子供をあやすつもりで答えを与えてやった。
「勝つ方法は簡単じゃ。敵は戦場の選択を誤ったからのう。ここは死地なのじゃ」
七十を超え、大軍師という名声を得た今でも、この老人は自分の賢さを演出するような言い方を好んだ。それを分かっている猶門は、わざと困った顔で教えを請うた。
「どういうことですかな。我々にも分かるように解説していただけませぬか」
「この地図をよく見なされ。この峠とほくろ平の間には、遠国街道の北と南に古い道が書かれておるじゃろう」
貞述は得意さを隠しきれぬ表情で、台の上に広げられた大きな紙の上を東西に走る太い線を杖で示し、その上下をとんとんと叩いた。
「北の道は昔の遠国街道じゃ。峠を降りたらすぐに右折して北上し、ほくろ池を大回りしつついったん坂を下って池から流れ出る川を渡り、再び登ってほくろ平の奥の方、ちょうど桃園家が布いた陣の真横へ出る。南の道は池や川が氾濫して街道が通れぬ時に使われる抜け道じゃな。北の道のさらに先で左に別れ、急坂を登って尾根に出て、ほくろ平の向こうで遠国街道へ戻る。この二本の道を通れば敵の側面と背面に出られるのじゃ」
「つまり、敵を挟撃できるとおっしゃりたいのですな」
「そうじゃ。他に適当な場所がなかったのじゃろうが、やつらは随分と危ない場所に陣を張ったものじゃ。合戦中に北の沢道から敵が現れれば側面を攻撃され、南の尾根道から裏へ回られれば退路を断たれることになる」
「それは連中も分かっておるのではありませぬかな。南北の道にも兵を配置しておりましょう」
猶門が言うと、貞述は頷いた。
「恐らくそうじゃろうな。物見の兵は、どちらの道でも途中で敵兵に出会って引き返さざるを得なかったと言っておった。じゃが、敵は少ない。合戦にできるだけ多くの兵を投入しようとすれば、南北の道にはわずかな守備兵しか置けぬ。逆に、側面と背後を確実に守ろうとすれば、主戦場の兵力が減ってしまう。どちらを選択するにしても、かなりの危険を冒すことになる。それに比べて我等は敵の三倍じゃ。多少兵を分けても問題ない」
「ということは、南北の道を使うのですな」
「そうじゃ。三万を三つに分け、南北の道へそれぞれ五千ほどを進ませる。我々の背後を襲われぬためにも必要なことじゃ。残りが遠国街道を行く。報告では、ほくろ平に布陣した敵は七千じゃ。つまり、南北の道の守備兵は恐らく一千ずつ、五千なら簡単に蹴散らせよう。迂回した味方が到着したら本隊も前進し、息を合わせて挟み撃ちにするのじゃ。それを避けようと敵が本隊をすぐに攻撃してきてもこちらは倍以上、まず負けることはない。適当にあしらって味方の到着を待ち、三方から攻めれば勝ちは間違いない」
「なるほど……!」
全員がそろってつぶやき、互いの顔に勝利を確信した笑みを認めて頷き合った。
「それで、南北の道へ向かわす兵数と武将じゃが……」
と言いかけた貞述に、将建が叫んだ。
「横手へ出る北の沢道は俺が引き受ける。任せてくれるな!」
貞述は分かっておるよという顔で頷いた。
「そう言うだろうと思っておった。若殿は派手好きじゃからのう」
敵の側面に現れて勝利を決定付け、うまく行けば本陣を落として敵将を討てるこの軍勢は最も手柄を立てやすい。将建は目立ちたがり屋で称賛の言葉を好むので華やかな活躍をしたいのだ。普通こういう役目は家臣や援軍の将に譲るものだが、跡継ぎである将建の武勇を世に示しておくことは無駄ではないので、将邦と猶門も反対しなかった。
「若殿には四千を預け、横板家の三千をお付けしよう」
「手柄を立てるのは俺一人でいいぞ」
将建は不満そうな顔をしたが、貞述は首を振った。
「これは必要なことなのじゃよ。今回、我等は、灰積家が一万八千、岩夏家が五千、船持家が四千、横板家が三千を率いてここへ来ておる。即ち三万のうち一万二千が他家の武者なのじゃ。この三家に桃園軍九千を足せば当家を超える兵力となる。それでは危なくて合戦などできぬ。あの三家は当家に心服しておるわけではなく、命令に従わねば滅ぼされると恐れて渋々出てきておるのじゃから、万一当方が苦戦するようなことがあれば敵に寝返るかも知れぬ。よって、この三家は別々の道へ行かせる必要があるのじゃ」
「つまり、横板淵里を見張れということか」
「その通りじゃ。若殿は頭の回転が速いのう」
「これくらい大したことはない。すぐに分かったぞ」
将建はほめられてうれしげな顔になった。
「淵里の監視は任せておけ。横板家を脅して降伏させたのはこの俺だ。やつめ、俺と行動を共にすると知ったら震え上がるだろう」
「そう言えばそうじゃったな。若殿のご命令なら、淵里殿はきっと大人しく従うじゃろう」
その手柄は貞述が家臣たちと協力して立てさせてやったものなのだが、それを口にして御曹司の気分を害するようなことを、貞述はもちろんしなかった。
「では、敵の裏手へ出る南の尾根道は誰だか分かるかな」
視線を向けられて猶門は少し考え、「岩夏是浄殿ですかな」と答えた。
「その通り。さすがじゃな」
貞述は出来の悪い弟子をほめるような口調で言った。
「この道を進む軍勢は敵の背後を遮断するのじゃから、それなりの兵力が必要になる。じゃが、当家は既に四千を分けた。さらに五千を分ければ残りは九千、岩夏・船持両家の合計と同数になってしまう。それでは他家ににらみを利かせることはできぬ。となれば、最も多い五千を率いる岩夏家がふさわしかろう」
「しかし、その役目は合戦に敗れて逃げる敵を待ち伏せ、多数を討ち取ることになりますぞ。手柄を立てすぎはいたしませぬか」
猶門が尋ねると、貞述は「確かにそうじゃが、それ以上の利点があるのじゃ」と答えた。
「敵の退路を断ち、合戦に負けて必死で逃げようとする九千を阻むのじゃから、当然その部隊には多数の死傷者が出よう。じゃが、当家が首の国で圧倒的な力を持ち続けるためには、武者をあまり損ないたくない。一方、岩夏家は武者が減ればますます反乱を起こしにくくなる。それに、岩夏家の治める片籠国は二十万貫、六千人も武者がおる。いずれ滅ぼす必要があるとわしは思うておるゆえ、弱らせておいて損はない」
「なるほど。さすがの深謀遠慮ですな」
猶門は、この老人は好きになれないが、頭のよさだけは認めるしかないという顔をした。
「そして、船持家四千は我等一万四千と共に遠国街道を進むというわけか」
総大将の言葉に、貞述は軽く頭を下げて正解だと示した。
「そうじゃ。大殿に猶門殿、そしてわしも同行しよう」
将邦は大きく頷き、床机から立ち上がった。
「よし。その作戦で行こう。敵は我等の三分の一だ。その上、側面と背面へ別働隊を回せば、よほどのことがない限り負けることはあるまい」
「勝利は決まったも同然ですな」
「敵の横手にいきなり現れて本陣を急襲するとは、全くもって俺好みだ!」
猶門と将建は既に勝ったつもりでいる。そんな彼等の気楽さを内心で軽蔑しながら、貞述は伝令武者を手招きで呼び寄せて言った。
「岩夏是浄、船持源在殿、横板淵里殿にお伝えせよ。明日は合戦になる。軍議を行うゆえ、夕食後にこちらへ来てもらいたいとな」
三海峠は名前の通り三方に海が見える。陣幕を出た貞述は西方の先の海に沈む大きな夕日と、それに照らされて白く浮き上がっている山のあちらこちらの満開の桜に目を細めながら、桜の大軍師とやらがよほどの知恵者でもこの作戦を破ることはできまいと、哀れな敵に同情さえ覚えたのだった。
翌日、朝食を終えた灰積軍は、坂を下って見伏国へ入った。途中、将建隊四千と横板勢三千が北の沢道へ別れていき、岩夏家の五千が南の尾根道へ出発したのを見届けると、残り一万八千は遠国街道をゆっくりと進んで、朝の冷え込みが収まる頃にほくろ平に到着した。
草地へ出る前に貞述が敵の様子を偵察させると、桃園軍は七千を三隊に分けていた。左軍が三千、中軍と右軍が二千ずつで、左右の両隊が街道の東の出口のすぐ近くまで前進してきており、中軍は西の一番奥に設置された本陣の前で待機している。どうやら灰積軍の到着を待っていたらしく、すっかり戦闘準備を整えて、今にも襲いかかってこようという様子だった。中軍の後ろには大型の投石機と思われる木の塔が二十個突き出ていて、本陣を四角く囲む陣幕の中から多数の犬が吠える騒がしい声が聞こえているということだった。
貞述はいったん全軍を止め、武将たちを集めて指示を出した。
「敵は三隊に別れておるが、そのねらいは我が軍が草地に入ると同時に左右から挟み撃ちにすることのようじゃ。一万八千の大軍も道の出口付近の狭い場所に密集していては力を発揮できぬからのう。恐らく後方の中軍は苦戦している方に送る援軍じゃろう」
「どう対処すればよろしいですかな」
猶門が尋ねると、貞述は「包囲される前にこちらから攻撃をしかけて敵を押し戻すしかあるまい」と答えた。
「まず三千の部隊をほくろ平へ進出させ、壁を作って防戦させる。武者をあらかじめ整列させて小部隊ごとに草地へ送り出し、丸く広がりながら楯と槍を構えて前進させるのじゃ。壁ができあがったらその内側で後続の者たちが隊列を組み、準備が整い次第攻勢に出る。幸い敵は少ない。こちらが数を揃えて一気に押し出せば後退せざるを得なくなるじゃろう」
貞述は地面に杖でほくろ平を表す円を描き、その上で軍勢の動きを説明した。
「敵は三隊に別れているゆえ、我等も軍勢を三つに分けるのがよかろう。猶門殿、そなたに右翼を任せる。五千を預けるゆえ、壁の内側で隊列を組み、ほくろ池に沿うように前進して敵の左軍三千を押し戻してもらいたい。左翼は船持源在殿、そなたにお願いいたす。猶門殿の右翼が出ていったらすぐに四千を整列させ、敵の右軍二千を攻撃していただこう。どちらも兵数は敵の倍、圧倒できるはずじゃ。敵を十分に下がらせ、本隊が草地に入って布陣を終えたら、合図を送るゆえ攻撃をやめて戻ってきてもらう。そうして、南北両道の味方の到着を待つのじゃ。我等中央の本隊九千と共に守りを固めれば、敵も簡単には手出しできまい。壁の部隊と本隊の指揮は将邦様とわしでとろう」
猶門と源在は了承し、指示を伝えに自隊へ戻っていった。
準備が整うと、草地の入口付近まで行った貞述は、部隊ごとに固まって手を組んで目を閉じ、大神様に勝利と武功と命の無事を祈っている武者たちに、戦闘開始を命じた。
「壁部隊、走れ!」
わあああ、と大声で叫びながら、三千人が三十人ずつの百の隊に別れて次々に草地へ走り出ていき、広がって槍と楯を並べ、半円形の壁を作った。それを見た桃園軍は驚いたようだったが、すぐに前進して攻撃してきた。
左右両軍合わせて五千の桃園軍の徒武者は、太鼓の音に合わせて叫び声を上げながら攻め寄せてくる。灰積軍の全軍が草地に展開を終えるまでに少しでも多くの損害を与えておこうという考えか猛烈な勢いだが、灰積家の武者たちもすぐ後ろで将邦自身が督戦していることもあり、必死で楯を構え、槍を突き出し叩き付けて押し返した。両軍の武者たちの上げる雄叫びは周囲の山々に響き渡り、草地の上空で無数の木霊がぶつかり合っていた。
やがて、右翼の準備が整った。待ちかねたように鎧姿の猶門が、太って重そうな体に似合わぬ素早い動きで大きな馬に飛び乗ると、攻撃命令を下した。さっと壁が開き、そこから五千の武者たちが足並みと槍先をそろえて前進を開始した。
「敵は我等の半数程度だ。間違いなく勝てる。急ぐ必要はない。慌てず着実に歩を進めよ」
軍勢の指揮に長けているという評判通り、猶門は絶えず声をかけて武者たちを奮い立たせ、各小部隊の歩く速さを調節しながら、隊列を崩さぬように五千をうまく動かした。
猛攻を続けていた桃園軍は新手を壁の中に閉じ込めようとしたが、疲労が溜まってきていたのか、次第に圧力に負けて後退し始めた。
「さらに前進せよ。敵を押し戻せ!」
猶門隊は圧迫を強めて敵を下がらせ、遂に壁の外に出た。すると、すかさず船持勢四千が空いた場所に駆け出して隊列を組んでいく。五十四歳の船持源在は戦慣れしている。的確な指示を出して陣形を素早く整えると、すぐさま敵の右軍へ攻撃を開始した。こちらの桃園軍は二千にすぎない。壁の間から倍の船持勢が現れると、猶門隊の進出で手が空いた壁部隊の右翼が側面を衝く動きを見せたこともあって攻撃を諦め、既に大分後退している左軍に追い付こうと、少しずつ自陣の方へ戻り始めた。両軍の武者たちが通りすぎた跡には、多数の足に踏みにじられた春の草花が無惨な姿をさらしていた。
『花の軍師と白翼の姫』 第一話 ほくろ平の合戦図 その一
「ふむ。どうやら予定通りに進んでおるな」
安全になったので街道から本隊の中央にいる将邦のそばへやってきた貞述は、戦場を見渡してつぶやいた。既に本隊九千のほとんどが布陣を終えている。戦闘の様子を見ながら各部隊に順番に草地へ出る指示を与えていた貞述は、最後の武者たちを率いて出てきたのだ。
貞述は四人の屈強な男が担ぐ輿に乗っていた。二本の木の棒の間に板を張り、背もたれと肘置きと日よけの屋根を付けて座布団を固定したそれは、貞述の戦場でのいつもの乗り物だった。一方、将邦も輿に乗っている。こちらはもっと豪華な作りで八人で担いでいるが、兜の長い二本の角が邪魔になるので屋根はない。貞述が輿に乗るのは年を取って腰が曲がり長い時間馬上にいるのがつらいからだが、将邦の方はその巨体の重さに馬が耐えられないためだ。いよいよ突撃となれば、将邦は他の武者の馬が仔馬に見えるほど大きく立派な黒毛の愛馬に乗って先頭を駆けるのだが、その前に馬がへばってしまわぬように、やむなく軍師にならって輿を使っているのだ。だが、この高い輿の上にいると猛将の黒い鎧と兜の二本の黄金の角が遠くからもよく見え、配下の武者たちと敵の双方を威圧する効果もあった。
「敵は随分あっさりと後退したのう。こちらの損害も大したことはないが、向こうもほとんど死傷者がおらぬようじゃ。始めから我等を街道の出口付近に押し込めて包囲する策が失敗したら下がるつもりだったのかも知れぬな」
隣に並んだ軍師のつぶやきに総大将が反応した。
「敵には次の手があるということか。どんな策か分かるか」
貞述には全く見当が付かなかったが、それを正直に言うのは嫌だったので、手に持った杖で戦場を示した。
「恐らくはあったのじゃろうが、それを使う余裕はなさそうじゃな」
このまま押していけば勝負が付きそうに見えるほど、猶門隊と船持勢は優勢だった。
「兵力差が大きいゆえ当然じゃが、左右両翼とも当方が敵を圧倒しておる。このままでは敵を本陣まで追っていって陥落させかねぬな。そろそろ呼び戻すかのう」
貞述の口ぶりに苦笑の響きがあったのは、今こちらの本隊を前進させて敵の中軍を攻撃させれば桃園勢は完全に崩壊するだろうにそれができないからだ。ここで勝負を付けてしまっては手柄を立て損なった将建の機嫌が悪くなってしまう。それに、岩夏家が背後を遮断したという合図も見えない。南の尾根道はほくろ平を見下ろす位置を通っているため、岩夏勢は数人を道の途中に残しておき、是浄が予定の場所に到着したら、家臣が尾根の上で赤い旗を掲げて貞述に知らせることになっていた。勝ちは目前なのにもったいないことだと貞述も思うが、南北の両道の別働隊が到着するまで勝負を決めるわけにはいかないのだ。
将建様も是浄も何をぐずぐずしておるのじゃ。道をふさぐ敵の武者は少数のはず。さっさと突破してこの草地へやってこぬか。
貞述はいらいらしたが、落ち着け、焦ってはならぬ、と自分に言い聞かせ、後退の合図を出せと武者に命じた。大きな銅鑼が鳴り出すと、目をつむった貞述はそれを聞きながら、さて、緒戦は我々の勝ちじゃが、このあと敵はどう出てくるじゃろうかと、先程は誤魔化した敵の次の一手を考え始めた。
当方が後退したら、敵もいったん下がって体勢を立て直そうとするじゃろう。じゃが、南北の両道を別働隊が進んで来ておることにそろそろ気付く頃ゆえ、焦って再び攻撃してくるに違いない。今度は中軍も出てこようが、当方を崩す策があるのじゃろうか。
と敵の布陣を思い浮かべた貞述は、そういえば桃園軍の本陣に投石機が二十台あることと、中からたくさんの犬の鳴き声が聞こえていたことを思い出した。
吼狼国は山が多く木材が簡単に手に入るので、攻城戦ではそうした大きな兵器を用いることも少なくない。現に、二龍逢城の攻囲では貞述も投石機や車輪を付けた高く長い壁を作らせたし、将同と鷲松勝嘉に桃園家を討伐している間も城へ石を打ち込み続けて敵を休ませるなと命じてあるが、これらを合戦で使ったという話はあまり耳にしない。
この距離ならあそこからでもここまで石が届く。それで我等を混乱させるつもりじゃろうか。もし、それがやつらの策じゃとしたら、敵の軍師も大したことがないのう。
貞述は自称桜の大軍師の若造を内心で嘲笑った。
確かに、石を大量にばらまかれれば陣形は乱れ、武者たちは動揺するだろう。だが、敵の軍勢がそこを攻撃してこちらを突き崩すことができなければ意味がない。灰積軍の本隊は九千もいるからほとんどの武者は無傷ですぐに体勢を立て直せるだろうし、左右両翼が前に立ち塞がって敵を近付けなければよい。あの投石機は設置式の大型のもののようだが、それでも一台で一度に飛ばせる石の数は赤ん坊の頭くらいの大きさなら二つか三つ、こぶし大で十五個程度だから、三隊全てを混乱させることは難しいのだ。
それに、ばねを巻くのにかなりの時間がかかるため、連射はできない。ねらいの変更も簡単ではない。決まった地点に一回しか撃てないから、野戦で使われることが少ないのだ。万一将邦や貞述が石に当たれば大変なことになるが、そんな偶然を期待して作戦を立てるのは賢いやり方とは言えないし、貞述の輿には屋根があり、将邦は左手に大きな楯を持っているから、それで防げるはずだ。よほどの幸運に恵まれない限り、灰積軍に大きな損害を与えることはできないと思われた。
一方、犬の使い道ははっきりしていた。恐らく灰積軍が敵の本陣に攻め込んだ時に一斉に放し、気が立った犬を駆け回らせてこちらの統制を乱して反撃する作戦だろう。だが、それで引き起こせる混乱はほんの短い時間にすぎない。こちらが始めから用心して密集し道を空けてやれば、犬たちはあっと言う間に戦場から駆け去っていくはずだ。そのあとでゆっくりと敵を料理すればよい。
万一のことを考えて、念のため、護衛の武者に石が飛んできたら大殿を守るように言っておいた方がよいかも知れぬな。両翼が戻ってきたら、犬のことを伝えておくかのう。
そう思って貞述が目を開き、そばに控える馬廻頭へ顔を向けた時だった。突然、前方の戦場で大きな鬨の声が聞こえて、周囲の武者たちが一斉に驚愕のどよめきを上げた。
貞述は何事かと前を見て、事態を理解すると舌打ちした。
「しまった。伏兵がおったのか!」
桃園軍を追うのをやめ、後退し始めた猶門の右翼を北側の森から、船持勢を南の森から、それぞれ五百ほどの武者が現れて急襲したのだ。慌てる両隊を、下がるのをやめて停止していた桃園軍の左軍と右軍が一気に前進して攻撃した。
「これはまずいな。両翼とも崩壊しかかっているぞ」
将邦が舌打ちした通り、不意を打たれて挟撃された左右両翼は大混乱に陥っていた。三千の左軍は五百の伏兵と息を合わせて五千の猶門軍を北の森との間に挟んで包囲しつつあり、二千の右軍も五百の伏兵と共に船持勢四千を囲んで、たった今出てきたばかりの南の森へ押し付けようとしていた。
「敵は左右両翼を先につぶす気か」
将邦の言葉に、貞述は「そのようじゃな」と答えた。
「恐らく、そのあとで残った我等本隊を包囲して攻撃するつもりに違いない。それなら敵は八千でこちらは九千、互角に戦えるじゃろうからな」
「どう対処すればよい」
総大将に問われた軍師は、少し考えたがすぐに答えた。
「援軍を送るべきじゃな。幸い、敵の新手は少数じゃ。一千ずつを向かわせて、包囲している敵の背後を襲わせれば囲みは簡単に解けよう。本陣の兵は九千、二千を分けても問題はない。左右両翼が体勢を立て直したら、予定通りここまで下がらせて守りを固めればよい」
「分かった。そうしよう」
将邦はそばにいた二人の武将を呼び寄せ、それぞれ一千を率いて救援に向かうように指示した。早速二千が南北へ別れて進んでいった。
ところが、そこへ新たな鬨の声が起こった。それが背後からだったので貞述が驚愕して振り返ると、桃の実の家紋の旗を掲げた一千ほどの部隊が遠国街道から飛び出してきて、本隊の後部に襲いかかっていた。
「なぜ後ろに回られたのじゃ! こういうことにならぬよう、偵察を念入りにして、周囲に敵兵が隠れていないことを確かめたはずじゃ。南北の道にも別働隊がおって敵が通れるわけがない。一体どうなっておるのじゃ!」
貞述は一千もの敵の奇襲に冷や汗をかいて思わず叫んだが、将邦や周囲の武者たちが自分に注目していることに気が付くと慌てて表情を取りつくろい、一つ咳払いして総大将に進言した。
「後方を襲われて放っては置けぬ。万一の時の退路の確保は武者たちを前方の敵に集中させるためにも必要じゃ。敵の倍の二千を向かわせ、殲滅させよう。それでも当方は五千、この機にやつらが石を投げ込んで正面の中軍二千で攻めてきても負けはすまい。この対応でよろしいかな」
将邦は軍師の焦りを見透かした顔をしていたが、ここで文句を言っても意味がないし時間がもったいないと思ったのか、「さっさとそうしろ」とだけ言った。貞述はむっとしたが黙って頭を下げ、武将の一人を呼んで命令を伝えた。周囲の武者を呼び集めた武将が後方へ去っていくと、貞述は悔しさに歯がみしながら敵陣を眺めた。
「若造め、やってくれおったな。じゃが、これで桃園軍九千の全てが姿を現した。もう伏兵はおるまい。軽装の山賊どもは合戦では大した戦力にはならぬじゃろうし、南北の道に守備兵がほとんどおらぬことも分かった。背後からの襲撃には少し驚いたが、あれが奥の手だったに違いない。我等の退路を断ち、前方の中軍や左右両軍と息を合わせて包囲して、将邦様やわしを討ち取ろうと思ったのじゃろうが、襲撃するのが少し早すぎたようじゃな。この通り二人とも無事じゃし、もしここで石を投げ込まれて攻撃されても、来ると分かっている石や敵なら防ぐのはたやすい。これ以上は打つ手があるまい」
貞述は自分を鼓舞するように、わざと敵をばかにした口調で言った。
「仮に、敵軍師に更なる策略があろうと、この本隊が前進して敵陣を目差せば、敵の左右両軍は大将を守るために後退して中軍と合流せざるを得なくなる。そうなれば、こちらの両翼は下がっていく敵を追撃して打撃を与えた上で、敵の倍の一万八千で悠々と本陣を包囲して攻めればよく、勝ちは疑いない。じゃが、その必要はないじゃろう。そろそろ守備兵の少ない南北両道を突破して、将建様と岩夏家の軍勢が到着するはずじゃからな。もはや決着は付いた。結局わしの立てた迂回包囲の策を敵の軍師は敗れなかったのじゃ。やはり、わしの敵ではなかったようじゃな」
まんざら悔しまぎれでもない言葉をつぶやいた貞述は、それにしても味方の到着が遅すぎると思った。
本隊がここを動けぬから敵に好き放題にされるのじゃ。南の尾根道はともかく北の沢道は比較的広くて少数で封鎖するのは難しいはずじゃ。将建様はもう三十じゃというのに、わしがお守りをせねばこの程度の役目すら果たせぬのか。
貞述は心中で将建と是浄の無能を罵ると、物見の武者に南北両道の様子を見に行かせようかと考えたが、その時、煕幸の本当の策が実行され、完全に予想外の攻撃に、貞述は今度こそ言い訳のできない驚愕の表情と醜態をさらすことになったのだった。
話は少し戻る。三海峠からほくろ平へ進む途中で北の沢道へ別れた将建は、意気揚々と全軍の先頭を馬で進んでいた。この道は左手にほくろ池を見ながらいったん谷底まで下り、池から流れ出る川を渡ってから再び坂を登ってほくろ平の終わりの辺りへ出る道だ。今の遠国街道が整備されるまで本道だったので、道幅は山道にしては広く、坂も比較的ゆるやかだ。将邦はこの先に手柄が待っているとご機嫌で、武者たちを急かしながら坂を下っていった。
一方、横板淵里は暗鬱な気分だった。将建は領国の奥処国を荒らし回って横板家を降伏に追い込んだ憎い相手なので、その命令を聞かねばならないことが不愉快だったのだ。それに比べて、桃園家は何度も灰積家の命じた戦で共闘した間柄だし、四十六歳の淵里は十歳年上の真棟を立派な御仁だと尊敬していたので戦いたくなかった。
灰積将邦がやってくるまで、首の国はこの戦乱の時代にあっても比較的平和が保たれていた。それは、首国探題の鷲松勝嘉が年に一度諸侯を領地の広芽国に招いて会議を開き、戦に発展しそうないさかいを調停すると共に、酒宴で当主同士の親睦を深めてきたからだった。
これまでに滅ぼされた四家に対しても、他の封主たちは戦いを避けようと降伏を勧め、灰積家に和平を働きかけた。だが、将邦と貞述は自家の力を強めて首の国の支配を完全なものにするには領土の拡大が必要だと、二十万貫前後の封主家に大軍を送り、奪った土地を家臣に与えてきた。そして、今度は三十五万貫の泉代家と、三十一万貫の桃園家がねらわれたのだ。十二万貫にすぎない横板家には到底勝ち目はなく、いつ滅ぼされるかと怯えながら将邦の言いなりに働き続けるという、暗い未来しか見えないのだった。
つまり、はっきり言えば、淵里は桃園家に勝ってもらいたかったのだ。跡継ぎの真愛が狼神の巫女姫で桜の大軍師が味方に付いたと聞いた時はびっくりして大いに期待したのだが、戦場へやって来て現実を見ると、三倍の兵力差と横と背後に回るという作戦に、桃園家の勝利はあり得ないとがっかりしたのだった。
真棟を殺したくはないが、もはや仕方がなかった。これは戦なのだ。灰積家に文句を付けられぬ働きをしてみせねば自分たちの身が危うくなる。桃園軍は必死で抵抗するだろうから、油断していると多くの損害が出るかも知れない。
横板勢の中程にいた淵里は周囲の武者たちに悟られぬように小さく溜め息を吐くと、つい暗くなる気持ちを奮い立たせ、どんどん先を行く将建隊四千に遅れてはまずいと、急がせるべく指示を出そうとした。
だが、家老に声をかけようとしたその時、突然、「誰だ!」と横手の武者が叫び、淵里の目の前を一本の矢が通り過ぎた。
「殿をお守りしろ!」
馬廻頭が叫び、武者たちが淵里の馬を囲むようにまわりに集まった。だが、もう矢は飛んでこなかった。
やがて、賊を追っていった武者たちが帰ってきて、「既に逃げたようで、誰もいませんでした」と報告した。皆がほっとした顔になって警戒を解いた時、家老が淵里のそばに寄ってきて声をかけた。
「殿、これをご覧ください」
差し出されたのは先程射られたと思われる矢だった。見ると、紙が結び付けてある。
「矢文か」
淵里はすぐに紙をはずして開き、短い文面に目を通した。と、顔に驚きが広がり、思案する様子になった。
「何と書いてございましたか」
問われてその紙を渡した淵里は、やはり驚きの表情を浮かべた家老に言った。
「灰積軍から離れ、川の手前で止まれと書いてある。真棟公の署名付きだ。この先に何かあるようだ」
「どうなさいますか」
「桃園家には桜の大軍師様がお味方されていると聞いている。この道で我等を足止めできれば、桃園家にも勝ち目があるかも知れぬ」
では、と確認する目つきの家老に、淵里は頷いた。
「将建殿から距離を取ろう。目立たぬように、少しずつ行軍を遅くせよ」
「よろしいのでございますね」
戦場に着くのが遅れれば、将邦から叱責されるかも知れなかった。
「かまわぬ。俺とて本音では桃園軍に勝ってもらいたいのだ。我等に協力できることがあればしよう」
淵里は左手の森へ目を向けて、坂の上から聞こえ始めた鬨の声や武者たちの雄叫びに、少しでも合戦の様子を聞き取ろうと意識を集中し始めた。
「なにっ? 横板勢が遅れているだと?」
芽の湖の東南の端に流れ込むため目尻川と呼ばれている川に到達した将建は、家臣の報告を聞いて顔をしかめた。
将建勢は四千だ。単独で戦場に登場しても、桃園家へ与える衝撃はさほど大きくない。横板家と合わせて七千でないと、本陣に突撃しても撃退されるかも知れない。だからあまり先行しても意味がないのだが、将建は少し考えて、先に渡河することにした。
目尻川は水量がさほど多くなく、最も深いところで膝上程度なので簡単に渡れるが、それでも通常の道よりは時間がかかる。少しでも早く戦場に行くために、自軍だけでも渡っておくことにしたのだ。今は春先だから雪解け水で深くなっている可能性も考えていたが、無用な心配だったらしかった。
将建が護衛の武者を連れて真っ先に馬で渡り、続いて徒武者たちが鎧姿で膝まで水につかって川の中を歩いていく。渡った先のやや広い河原で部隊はすぐに整列し、後続を待った。そこへ、ようやく向こう岸に横板勢の先頭が見えてきたが、全体がそろってから渡河するつもりらしく、水には近付いてこなかった。将建はのろのろするなと怒鳴り付けたかったが、こちらの河原を空けないと渡れないことに気が付き、先に行くしかないなと思った。
そうして、将建隊のほとんどが渡り終え、最後尾が水に入った時のことだった。
突然、坂の上で大岩がいくつも崩れるような大きな音が響き、地面が揺れて、山鳴りに似た恐ろしい音が坂を下ってきた。
「この音は何だ?」
じりじりしながら武者たちが川を渡るのを待っていた将建は、坂の上を見上げて目を見張った。
「水か!」
その叫び声をかき消すような轟音とともに大量の泥水が流れ落ちてきて、川の中にいた数十人を押し流した。濁流があっと言う間に沢を覆い、川幅は倍に膨らんだ。もはや渡ることが不可能なことは明らかだった。
これは桃園家の策略に違いないと将建が気付いた時、背後で鬨の声が起こってたくさんの矢が飛んできた。
「伏兵か!」
武者たちは慌てて楯を並べて将建を守り、応戦しようとしたが、敵は両脇の森の中から矢を射てくるので、位置がよく分からない。どうするべきかと武者たちが迷っていると将建が怒鳴った。
「敵は森の中だ。入っていって追い払え!」
武者たちは無茶なことを言う大将だという顔をしたが、確かに、この矢を止めないと先には進めない。それに、彼等を無視して前進した場合、ほくろ平で戦闘中に背後を襲われる可能性がある。
「そうですな。まずは敵の位置を探りましょう。物見を出せ!」
家老が命じ、十人ずつ六組が用意されて、右手と左手、道の先の三方に派遣された。将建がいらいらしながら帰りを待っていると、半分に減って戻ってきた彼等は、障害物が作られていると報告した。
「右手の森の中に丸太を積み上げて作った壁が広がっており、その後ろから矢を射ている模様です」
「左手も同じです」
「道の先にも丸太で壁が作られており、その後ろに多数の敵がおります。ただ、敵は正規の武者ではないようです」
「囲まれたか! だが、正規の武者でないとはどういうことだ?」
将建が首をひねった時、道の先から大きな笑い声が聞こえてきた。
「はっはっは。罠にかかったな。お前たちの相手は俺たち義狼団がする!」
将建が声のした方へ向かうと、道の中程に白い綿飾りの間から鬼のような角が生えた兜をかぶった二十代前半の男が立っていた。
「俺は頭領の山吹善晃だ。巫女姫様と大軍師様からこの道の守備を任された。お前たちをここから先へは一歩も進ませない。かといって、もうあと戻りしてほくろ平の本隊と合流することもできないだろうがな。さあ、悪党ども、観念しな。吼狼国の民にかわって成敗してやるぜ!」
善晃は自分の尻を二回と叩くと、走って丸太の壁へ近付いて、両手を伸ばして上へ引き上げてもらい、壁の上で振り返ってあかんべえをした。
「うぬぬぬ、言わせておけば!」
将建は激怒し、武者たちに命令した。
「楯を並べて前進し、あの壁を越えて山賊どもを追い散らせ!」
すぐに武者たちが隊列を組み、前と左右を楯で守りながら少しずつ壁に向かって進み始めた。
だが、なぜか山賊たちは沈黙していた。矢も飛んでこない。
「よし、いけるぞ! 一気に壁に取り付いて乗り越えろ!」
将建が叫び、武者たちは一斉に散開して、わあああと雄叫びを上げながら壁に向かって走り出したが、先頭の数人がいきなり転ぶと、それが大勢に伝染した。足下に草に隠れて穴が掘ってあったり、草が結んであったりしたのだ。その瞬間、壁の上に義狼団員がずらりと顔を出し、一斉に白い玉を投げ付けた。
「くっ、目つぶしか!」
大福くらいの大きさのその玉は、石を中心に刺激の強い粉を薄い布で包んだものだった。壁に取り付こうとしていた武者たちは、それをまともにくらってしまったのだ。
「目が痛い!」
「涙があふれて前が見えん!」
「ごほっ、ごほっ、口に入るとのどが痛い!」
武者たちは皆悲鳴を上げた。楯では目つぶしの粉は防げない。しかも草の中にある罠のために迂闊に足を動かせないのだ。思わず歩みが遅くなったところへ、今度は本物の石と矢が大量に降ってきた。土を詰めた重い麻袋まで飛んでくる。運良く壁にたどり着けた者たちも、上から槍でつつかれては下がらざるを得ない。たまらず武者たちは河原へ逃げ戻った。
「なぜ引き返す! さっさと壁を壊せ!」
将建は怒鳴ったが、武者たちは目をこするばかりで動かない。
「あれはまともに攻めても難しいようです。対策を考えましょう」
家老が言うと、将建は歯がみして悔しがった。
「大手柄を前にしてこんなところで足止めを食らうとは!」
すると、再び壁の上に善晃が現れた。
「どうだ、大軍師様直伝の目つぶしの味は! 矢も麻袋もたっぷりあるぜ。吼狼国の民の恨み、じっくりと味わわせてやる!」
叫んだ善晃は隣にいる浅岸友延に言った。
「副頭領、義狼団を作ってよかったな」
「ああ、本当だな。これでやっと龍営のやつらに一矢報いてやれる。この戦で勝利したら、妻と娘に初めていい報告ができるよ」
一瞬しんみりした友延は、すぐに顔を上げた。
「そのためには俺たちの役割をしっかりと果たさなきゃならない。あのお二人の期待に応えようぜ」
「当たり前だ!」
善晃は副頭領の背中を、ばしん、と叩くと、大声を張り上げた。
「ここが義狼団の戦場だ! 必ず巫女姫様と大軍師様は将邦を討ち取ってくださる。それまで俺たちはここを守り切るぞ!」
「みんな、気を引き締めろ! すぐにやつらはまた襲ってくる。何度来ても無駄だってことを教えてやろうぜ!」
二人の頭領の叫びと、それに答える団員たちの雄叫びを、川向こうで淵里が聞いていた。川が渡れなくなったという知らせを受けて、家老と一緒に様子を見に来ていたのだ。
「これを渡るのは無理ですな。どうなさいますか」
家老が深刻そうな口調で言った。目の前をさえぎる濁流と、将建隊の苦戦に唖然としていた淵里は、家老の顔へ目を向けて、そこに浮かんだ驚き半分、しかし愉快そうな気分も半分の表情を見付けると、ふう、と大きく息を吐いて言った。
「水が引くのをここで待つしかあるまい」
この増水は、恐らく池からの川の出口をふさいでおいて、その堰を切ったからだろうと淵里は思った。そういうことをさせるのに義狼団は向いている。先程の矢文も彼等に違いない。
「苦戦している将建殿を放ったまま引き返すことはできん。しばらくここで義狼団の戦いぶりを見物しているとしよう」
淵里の口調はわずかに弾んでいた。大軍師様がいるという話が本当のように思えてきたのだ。家老も同じ気持ちらしく頷いた。
「そうですな。味方を見捨てることはできませぬ。ここにとどまりましょう。念のため、ほくろ平に物見を出しておきます」
「よい報告を持ってきてくれることを期待しよう。お前もそれを大神様に祈れ」
淵里は家老の提案を承認すると、馬から下り、坂の上に向かって手を組んで目を閉じて、ここ数年信じる気持ちを失い始めていた吼狼国の主神に真剣に祈りを捧げ始めた。
同じ頃、岩夏是浄は南の尾根道を進んでいた。
この道は細く険しい山道だ。荷車はもちろん、馬を通すのさえ難しそうな場所もある。これではほくろ平が冠水して遠国街道が通れなくなったら多くの荷が滞ったに違いない。今は街道が整備されたのでそうしたことは滅多にないが、昔は苦労しただろう。
そんなことを是浄が思っていると、偵察に先行させた武者が戻ってきて報告した。
「前方に桃園軍がいました。数は約一千です」
「やはりいたか」
是浄は表情を引き締めた。本陣の背後に回れるこの道を守らないはずがない。敵は少数だが、この細い山道だ。彼等の陣取っている場所によってはかなりの苦戦を覚悟しなくてはならない。
「敵はどこにいる。この近くか」
是浄が尋ねると、武者は「すぐ先におります」と答え、少しためらった。
「どうした。それほど守りが堅いのか」
先を促すと、武者は首を振った。
「彼等は道をふさいでおりますが特に防備を固めてはおりません。そのかわり、我々に交渉を求めております。私を見付けた敵の大将は、丁寧な口調で、話があるので大殿に会わせてほしいと申しました。実は、迷いましたが、近くまで連れて参りました」
「話し合いか……」
先方がどういうつもりなのか是浄ははかりかねたが、もし無駄な戦闘が避けられるのならありがたいことだと思った。兵力はこちらが五千と五倍、戦えば勝てるだろうが、是浄も横板淵里や船持源在と同様、あまり桃園家と戦いたくなかったのだ。
「分かった。交渉に応じよう。ここへ案内しろ。そちらは一人で来いと言え。もちろん、我等も交渉と見せかけて捕まえるようなことはせぬと約束しよう」
武者は頭を下げて戻っていき、やがて一人の鎧武者を伴って戻ってきた。装備からして、家老級の上級家臣と思われた。
その武者は馬から下りて待っていた是浄を認めると、兜を脱いで丁寧に頭を下げた。
「岩夏公、お久しゅうございます。鳶瀬政彰でございます」
三十七歳の俊政の父、貴政の叔父は、是浄に敬意と親しみを表す笑みを向けた。
「おお、鳶瀬殿か。五年ぶりだな」
鷲松家主催の諸侯の懇親の宴には家老たちも集まる。政彰は貴政がまだ子供だったので家老代行として出席していて、今年三十九歳の是浄とは年が近く話が合った。最後の年には二十歳になった貴政を連れてきて是浄に紹介し、来年からは甥が一人で参りますと告げたのだ。
しばらく互いの近況などを交換したあと、政彰は言った。
「今回、私は巫女姫様と大軍師様の使者でございます。岩夏公にこの手紙をお渡しし、ご判断を仰げと言われております」
「拝見しよう」
家臣の一人が受け取って持ってきた厚い書簡の封を是浄は切って、早速目を通し始めた。
「なんと! これは……。むむむ!」
何度も驚きの声をもらしながら読み終えた是浄は、深く考え込んだ。
「つまり、貴殿たち一千名の武者をこのまま通過させよということか」
はい、と政彰は頷いた。
「我等は遠国街道へ戻り、敵本隊の背後を襲います」
「そして、この作戦で将邦を討つ、と……」
その手紙には、真棟の手によって、今回の桃園家の全作戦が書かれていた。
「鳶瀬殿は正直なところ、この策がうまく行くと思うか」
是浄とて桃園家が将邦を討ってくれるのなら願ってもないことだと思う。今回の合戦で自分たちが最も多くの損害が出そうな役割を担当させられたことに、二十万貫をねらう灰積家の悪意を感じて是浄は恐れ怒っていたのだ。だが、桃園家の作戦は確かに筋は通っているが、果たして本当に実行可能なのか、疑問を禁じ得なかったのだ。
「我々ならできます。いえ、なんとしても実行しなくてはなりません」
いったん断言しておいて、政彰は言い直した。やはり不安があるのだ。
「今の首の国で灰積将邦を倒せる者がいるとしたら、もう巫女姫様と大軍師様しかおられません。桃園家は全員がお二人のために全力で働く覚悟を決めております。まさに、この戦いに存亡を賭けているのです」
政彰は深々と頭を下げた。
「どうか、我々に気付かなかったことにしてお見逃しください」
顔を上げ、是浄をじっと見つめる政彰のまなざしには、固い決意が感じられた。
「この先で道に障害物を設けて通行を邪魔してありますが、兵を置かずに完全にふさぐのは不可能でした。少々森の中の急坂を登ることを厭わなければ、通り抜けることができます。つまり、我々が合戦の間背後を襲われないためには、岩夏公のご協力が不可欠です。見伏国に向かってくる灰積軍の内訳をお聞きになった大軍師様は、貞述は軍勢を三つに分けるだろうとおっしゃいました。過去の合戦を見ると迂回挟撃を好むようだから、これほどの絶好の地形でしないはずがないと。そして、南の尾根道は岩夏公だろうと予言され、説得の使者に私が名乗り出ると、この手紙をお渡しになり、『岩夏公に背後を襲われたら我々はお終いだ。あなたにこの作戦の成否がかかっている』とおっしゃいました。それに対して、私は『きっと岩夏公は協力してくださいます。なぜなら、これは桃園家一家だけの戦いではなく、首の国の全諸侯の、ひいては吼狼国の全ての民のための戦いなのですから』と申し上げました」
「一家だけの戦いではない、か……」
「どうかご協力をお願いいたします」
再び頭を下げて答えを待つ政彰をしばらく黙って眺めていたが、是浄はこみ上げてくる思いに耐えるような顔で言った。
「分かった。見逃そう。当家は桃園家に協力する」
「殿! よろしいのですか! もう少し慎重にお考えください!」
隣で二人のやり取りをはらはらしながら見守っていた家老が叫んだ。
「もう充分考えた。政彰殿の真剣さと誠意も、桃園家の決死の覚悟も分かった。それで納得した」
是浄は顔を上げた政彰に親しい者に対する信頼の笑みを向けた。
「我等は貴殿の部隊に気付かなかった。また、障害物に邪魔されて背後へ回れなかった」
「殿! もし桃園家が負けたら当家は厳しく叱責されますぞ!」
「それは覚悟の上だ。高い木に登らねば、鴉の集めた宝玉は盗めぬ」
危険を冒さないと価値あるものは手に入らないという意味のことわざを、是浄は口にした。
「その宝玉とは、当家の安泰と首の国の平和だ。十分に冒険をする価値がある」
是浄は手紙を握り締めて、政彰に真剣な口調で言った。
「頼む。どうか、将邦めを倒してくれ」
「必ずやご期待にお応えします。巫女姫様と大軍師様をお信じください」
政彰は心からの謝意を籠めて深いお辞儀をすると、顔を上げて微笑んだ。その好意的な笑みに是浄は驚いた。
「それほどのお方なのか」
「今ここでお話する時間がないことが残念です。素晴らしい若者たちですよ」
「そうか。その若い力に当家の未来を委ねよう。勝利した暁には、ゆっくりと酒を酌み交わしながらその話を聞かせてもらうぞ」
私も楽しみにしています、と政彰は約束した。
やがて政彰隊一千が去っていくと、是浄は交渉成立を喜んでいた先程の武者に尋ねた。
「ほくろ平を見下ろせる場所がこの辺りにあるか」
「すぐ先にございます」
「では、案内してくれ。見付からぬように合戦を見守りたい」
是浄は家老を振り向いた。
「五十名を先に進ませ、本当に障害物があるかどうか、通行できるかどうかを確かめさせよ。それ以外の者はこの場に待機。休憩を取らせろ」
「進軍しなくてよろしいのですか」
「もしこの作戦通りになるのなら、我等はここにいた方がよい。私は期待しているのだ。その巫女姫様と大軍師様の起こす奇跡にな」
さらに言葉を重ねようとしていた心配性の家老は、主君の表情に口を閉ざし、頷いた。
「分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら、わたくしもその奇跡を信じましょう」
家老は期待と不安に強張った顔に、主君への信頼と覚悟の笑みを浮かべた。
「いよいよですね」
戦装束に身を包んで本陣の前に立っていた真愛は、隣の煕幸に言った。
五日前皆に披露した桃色の袴・鉢巻・襷と白い上衣の組み合わせに、山賊討伐の時と同じ赤い胴当てを着けている。これは動きやすさと見栄えを重視した結果だ。せっかくの美貌とすらりとした肢体を兜や鎧で隠すのはもったいない。手に持った愛用の薙刀には金色の鞘がまだはめてある。白い鴉は肩の上にいた。
ここ本陣のはるか前方では、海老間永謙の指揮する三千の左軍が、楢門率いる敵の右翼と戦いながら後退している。真棟の二千の右軍も、船持勢の追撃をはね返しながら戻ってきている。予定では、このまま円い草地の縁に沿うように左右に広がりながら下がって敵を本隊から引き離し、戦場の南北の最も端にいる伏兵のそばへ誘導することになっている。
「敵はこちらのねらいに気付くでしょうか。もし、今、敵の本隊がここへ攻めてきたら大変なことになりますよね」
巫女姫の少女は尋ねた。
「大丈夫だと思う。敵は南北両道の部隊が到着するまで動かないはずだ。包囲すれば確実に勝利できるのだからね。伏兵を見れば、こちらの作戦は敵の両翼を奇襲し包囲して壊滅させ、残った本隊を僕たち中軍も加えた全軍で攻撃するつもりだと思うだろう。そこへさらに背後からの急襲だ。もうそれでこちらは手を打ち尽くしたと考えるに違いないよ」
煕幸は安心させるように言った。
「緑塚貞述は頭のよさをひけらかすのが好きで、自分の思い描いた通りに物事を進めたがる人物らしい。そういう人は自分の考えをなかなか変えないし、他人が自分を上回る可能性を無意識に否定しようとする。人をだますのは好きでも、だまされるのは嫌いなんだ。それに、迂回して背後から攻撃するのは貞述が得意とする戦法だ。それを相手にやられ、三方面の伏兵を見せられたら、もうこれ以上自分がだまされることは想像したくなくて、必死の先読みをしなくなるんじゃないかな。貞述が思考停止に陥れば、将邦はただの武勇に秀でた凡将にすぎないよ」
「でも、私はその将邦を討つんですよ。自分で引き受けたことですけど」
真愛は今度こそ正真正銘の初陣なので、戦場の雰囲気だけで既にかなり疲れている様子だった。その上、これから大きな役目を果たさなくてはいけないので、緊張も相当だ。
と、少女の肩の上で、かあ、と鴉が鳴いた。
「励ましてくれるの。ありがとう」
真愛は鴉の背を撫でて微笑んだ。
「そんな風に笑うことができるのなら、きっと大丈夫だね」
煕幸がつられて頬をゆるめると、真愛はその顔をじっと見つめて、あなたにそんな表情をさせる私の笑みはそんなに可愛いのかしら、あなたは私をどう思っているのかしらと真剣に考える様子だった。
「いよいよ伏兵隊が動き出しました!」
二人のいい雰囲気を邪魔したいのかわざとではないのか、すぐ横にいた貴政が叫んだ。
戦場へ目を戻すと、南北の森に隠れていた唐塩稙久と星刈安常の二人の家老がそれぞれ五百を率いて森から飛び出し、引き上げ始めていた敵の後方に回って急襲した。永謙隊や真棟隊と挟撃して包囲すると、敵の両翼は呆気ないほど簡単に混乱した。
「やはり、敵は左右両翼に援軍を出しましたね」
真愛の護衛を自ら任じて常にそばにいる俊政が言った。敵本隊から部隊が別れて南と北へ向かっていく。合わせて二千ほどだろう。その二隊が包囲している桃園軍の背後を突こうとすると、永謙・唐塩隊と真棟・星刈隊は囲みを解き、やや下がって迎撃する。
と、今度は敵本隊の後方で騒ぎが起こった。政彰隊一千の奇襲だ。敵はさらに二千ほどを分けてそちらへ向かわせたようだった。それを確認すると、煕幸は、よし、と言って真愛や貴政や俊政、それに少女と似た武装の七穂の顔を見回すと、一緒に後方を振り返り、そこで列を作って待機している武者たちに声をかけた。
「みんな、いよいよ僕たちの出番だ!」
煕幸は叫んだ。
「敵はこちらのねらい通り、三本の道へ別れて進み、ほくろ平に来た主力を三つに分割し、さらに将邦の本隊は三方に武者を送った。今、敵の大将の周囲にいる兵力は残りの五千、それでも僕たちの倍以上だけど、作戦通りにやれば必ず勝てる!」
そんな確信はないが、今はそう言うべき場面だ。続いて真愛が言った。
「ここが正念場です。私たちなら絶対に将邦を倒せます! 私も全力で戦いますから、皆さんもその力を見せてください!」
おおう、と二千人が一斉に叫んだ。この作戦で最も危険で重要な役目を果たすのは真愛だ。十六歳の少女が命をかけようとしているのに、自分たちが情けない働きはできない。皆全力で主君を助けるつもりだった。
真愛が手を組んで目を閉じると、貴政たちも武者たちも皆それにならった。
大神様への祈りが終わると、煕幸は少女が頷くのを確かめて大声で叫んだ。
「陣幕を開け!」
すぐに、中軍の隊列の後ろで、本陣の周囲をぐるりと囲んでいた長い幕のうち、前面の部分が取り除かれた。途端に、それに隠されていた多数の檻の中で、閉じ込められているたくさんの狼が激しく吠え立てた。同時に、むっとするにおいが流れてくる。檻の手前に置かれた大量の牛の生肉の血のにおいだ。狼たちが騒いでいたのはこのにおいのためだった。陣幕の外でも充分くさかったが、中にはもっと濃く籠もっていたらしい。
この肉は、桃園領内から買い集めた牛を先程この場で職人に殺させたものだ。吼狼国では狼の姿の主神の供え物として、また祝祭などの時のご馳走として牛肉の需要があるため、飼っている農家は少なくないのだ。約三百頭の狼たちは、一昨日仕掛けた罠で捕まってから水しか与えられていないので飢えている。そこへ、殺したての牛の肉が目の前に置かれ、血のにおいが充満しているのだから、騒がないはずがなかった。
「寺院の祭官がこれを見て、僕たちがしようとしていることを聞いたら怒るだろうね」
実際、真棟や家老たちでさえ煕幸の作戦を聞いて始めは難色を示したのだが、俊政は笑って否定した。
「大丈夫ですよ。神話では狼たちは主を守って戦いますし、真愛様は白い鴉を連れておいでです。大翼の巫女姫様と桜の大軍師様のなさったことなら、まことに大神様のご加護を受けていらっしゃるのだと恐れ敬いこそすれ、とがめようなどとは誰も思いませんよ」
主神の御使いを務める狼と白い鴉がそろっていれば、民は文句を言わないだろうということらしい。
「そう願おう。では、そろそろ始めようか」
本陣の陣幕が開いたのを見て、真棟や永謙たちの率いる左右両軍は横に広がって、敵の左翼と右翼を南北の森へ押し付ける動きを始めた。これで中央に敵の本隊への道が確保された。
煕幸や貴政、俊政は自分の馬にまたがった。武者たちも投石機を操る者たちを除いて全員騎乗した。中軍二千は全て騎馬なのだ。煕幸が後ろに向かって手で合図すると、人の頭ほどの大きさの牛の肉の塊がのせられていた板ごと運ばれて、二十台の投石機に設置された。狼たちの目がそれを真剣に追っている。
「狼を出せ!」
煕幸が叫ぶと、檻の扉が一斉にはずされ、三百頭の狼が吠えながら走り出てきた。
「今だ、射ち込め!」
狼たちが到達する直前に、投石機は牛の肉を灰積軍の本隊の真ん中目がけて放り投げた。百を超える赤い肉の塊が血をまき散らしながら大きな弧を描いて敵陣へ次々に落下していった。
「行くよ、輝翼丸!」
真愛は急いで走ってきた職人から血のしたたる牛の臓物を縛った藁包みを受け取ると、腕に止まっている白い友人の足にそのひもの先をつかませて声をかけた。すると、大鴉は、かあ、と答えて舞い上がり、その荷物をぶら下げたまま、目の前で肉が消えたことに戸惑っている狼たちの上を薙刀の指示に従ってゆっくりと数度回ってから、少女の黄金の鞘が差す方向を見て、敵の本陣へ向かって飛び始めた。それを狼たちが吠えながら一斉に追っていく。そのすぐ後ろを栗毛の馬に跳び乗った少女が真っ先に付いていき、煕幸や貴政や俊政、武者たちも遅れじと全力で馬を走らせた。
春の日差しに光り輝く大きな白い鴉を先頭に、三百の茶色い狼と二千の甲冑姿の騎馬武者の列が細長く続いていく。その光景は、白銀の頭を持つ巨大な彗星が、長い尾を引いて夜空を月に向かって真っ直ぐに飛んでいく様によく似ていた。
「行っけえ!」
広い草地の中央を疾駆しながら俊政が叫んでいる。馬を走らせる二千の武者全てが腹の底から絶叫していた。
「敵をお前たちの方へは行かせない! 背後は心配するな! あとは任せたぞ!」
草地の南北の森に敵の両翼を押し付けている左右両軍の武者たちから期待と信頼に満ちた声がかかる。ここで敵を本陣に戻らせてはいけない。せっかく引き離し、さらに三方へ部隊を分派させたのだから。
「頼みます!」
真愛が叫び返して速度を上げる。薙刀も得意だが馬術も相当なものだ。何せ、芽鞘村では毎日のように近くの野山を愛馬で走り回っていたのだし、身軽な格好なので馬の負担が少ないのだ。煕幸だけでなく他の武者たちも遅れそうになって、必死で馬を煽っていた。
「げ、迎撃せよ!」
前方から慌てて命じる老人の声が聞こえてくる。恐らく貞述だろう。だが、いきなり降ってきた大きな肉の塊に驚いていた灰積軍の武者たちは、向かってくる多数の狼を見てむしろ逃げ出し始めていた。
狼たちは明らかに飢えて気が荒くなっている。その上、狼は吼狼国では神獣だ。戦の神でもある白牙大神に、戦いに出るたびに、怪我なく生きて帰れますように、大きな武功を立てられますように、と祈っている者たちが、その御使いに剣や槍を向けられるはずがない。それは悪名高く非道な彼等でさえ同じだった。いや、自分たちの行いを承知しているからこそ、その怒りを恐れているのだ。
まるで氷の張った冬の海を頑丈な船の舳先が切り裂いて細い道を作っていくように、鴉と狼が近付くと敵の武者たちは自ら左右に分かれて道を譲り、動物たちを通した。
「こ、こっちへくるな!」
白い鴉は真っ直ぐ敵の中心へ飛び込んだ。輿の屋根の下で頭を抱えて悲鳴を上げる貞述を無視して将邦へ迫った輝翼丸は、三日月を半分にしたような黄金の長く反った二本の角の左の方に、足でつかんでいた藁包みの下にぶら下がっている大きな輪っかを引っかけて、悠然と空へ飛び去った。同時に、将邦の輿へ狼の群が殺到した。担いでいた人足たちは仰天し、輿を放り出すと総大将を置き去りにして逃げ散った。
そこへ、二千の騎馬武者が到着した。
「全員敵本隊へ突撃せよ! 二番隊から五番隊は予定通り走り回って敵陣を引っかき回せ!」
貴政が叫んだ。狼の乱入で真っ二つに分断され、肉を求めて駆け回る猛獣の群に大混乱している敵の部隊に立て直す余裕を与えないのが、三百人ずつの四隊の役目だった。
「残りは真愛様に続け! 敵将を孤立させろ! 周辺の敵を引き付け、引き離せ!」
八百の騎馬武者は、さすがに将邦の周囲に最後まで残っていた馬廻りの武者たちに襲いかかった。縦横に駆け回りながら矢で槍で敵を追い散らす。
戦いは戦意の高さと勢いで決まる。人は十分な準備をして自信と余裕があり、気持ちが乗って意識を集中できれば大きな力を発揮できる。逆に、予想が覆ったり、慌てたり、度肝を抜かれたりした時は、気持ちが定まらずに実力の半分も出せなくなる。この時の灰積軍の武者たちはまさに後者の典型であり、また彼等をそういう状態に持っていくことこそ、煕幸が狼を使った理由の一つだったのだ。
そこへ、荷車を四台くっつけて固定し、その上に大人の背たけの倍くらいある物見台のようなやぐらを設置したものが、三つ到着した。荷車のまわりには武者の背よりも高い四角い木の柵に覆われた空間が作ってあって、その中で十人がかりでこの車を動かしてきた人足たちがへばっていた。馬は柵に跳びかかってくる狼に怯えて使えないので人が運ぶしかなかったのだ。
「お待たせしました! さあ、覚悟なさい。さっさと逃げないと狼に食われるわよ!」
やぐらの上の手すりから身を乗り出すようにして七穂が言った。手にした弓に肉を突き通した矢を素早くつがえ、将邦の周辺に残っている武者たちに射かけていく。同じやぐらの弓武者三人や、他の二台のやぐらの八人も肉の矢を連射する。荷車の肉の匂いに引かれて集まってきた狼たちが、矢を追って敵の武者たちに飛びかかっていくと、彼等は慌てて逃げ出した。吼狼国の狼は大きい。首の高さが大人の腹の辺りに来るほどで、子供なら背に乗せて走れそうだ。そんなものに襲われては、どんな勇士でも恐ろしいだろう。
『花の軍師と白翼の姫』 第一話 ほくろ平の合戦図 その二
「では、行ってきます」
貴政や煕幸や俊政に囲まれて武者たちを指揮していた真愛は、三人に言った。
「お気を付けて。ご武運を」
貴政が信じる気持ちと案じる思いの交じり合った声で言った。俊政も応援した。
「真愛姉様なら絶対に勝てます! 頑張ってください!」
「これは君にしかできないことなんだ。僕は君を信じている」
煕幸も言った。真愛は真剣な顔で頷いた。
「はい。私もあなたを、あなたの作戦を信じます!」
少女は馬から下り、薙刀の鞘をはずして手綱と一緒に煕幸に預けると、敵の大将に近付いていって、大声で叫んだ。
「私は狼神の巫女姫桃園真愛です! 灰積将邦、あなたに一騎打ちを申し込みます!」
灰積軍の大将は兜を失った姿で地面に立ち、数人の武者に守られて辺りの状況に歯がみしていた。将邦は輿から投げ出されると、角に引っかけられた臓物に群がる狼にもみくちゃにされたが、腕の長さより高い反った角から藁の輪を抜き取るのは無理だったので、兜を脱ぐしかなかったのだ。その兜は臓物を奪い合う狼たちに引きずられて、とうにどこかへ行ってしまっている。愛馬もどこにいるのか分からなくなっていた。
「俺と勝負したいだと? はっはっは、いい度胸だ!」
五十五歳の将邦は黒い鎧に包んだ巨体を震わせて笑った。十六歳の少女の真愛の背はその胸までしかない。
「いいだろう。ここまで俺を苦しめたことはほめてやるが、身の程を教えてやろう!」
「だ、だめじゃ! 何か企んでおるに違いない!」
同じく輿から放り出され、腰をしたたかに打って起き上がれないでいる貞述が叫んだが、俊政が近付いて馬上から槍で脅すと悲鳴を上げて大人しくなった。
「正真正銘、真剣勝負です。私はこれを使います!」
と、少女が愛用の薙刀を両手で握って切っ先を向けると、将邦は腰の刀を引き抜き、左手の大きな楯を構えた。
「俺は刀と楯だ。では、こちらから行くぞ!」
剛勇無双とまで言われた猛将は、刀を振りかざして走り、その勢いのまま少女に斬りかかった。だが、少女はその刃をかろうじてよけた。
「そんな攻撃は当たりません!」
「よくよけたな。多少は心得があるようだ。だが、そんななめた口がいつまできけるかな!」
ぶん、と風を切る音を立てて、重く長い刀が目にも止まらぬ速さで振り回され、少女を休みなく襲う。真愛はそれを身軽によけ、あるいは薙刀で受け流し、隙を衝いて薙ぎ払ったり突きを入れたりしてやり返している。だが、どう見ても将邦の方が優勢だった。体力も腕力も経験も隔絶しているのだから当然だ。頑丈そうな黒い鎧を身に付けた魁偉な容貌の巨人と、華やかな白と桃色の戦装束を身にまとった美しい少女の戦いは、まるで虎と兎の争いのようで、将邦の刀の一振りごとに煕幸の心臓は恐怖と不安に跳ね上がった。
「さあ、我々は邪魔が入らぬようにまわりを固めるぞ!」
貴政に命じられて、桃園家の馬廻衆が少女と将邦を囲むように広がり始めた。
真愛と共に敵陣へ突入する役目を貴政は誰にも譲らなかった。敵の出方や状況に合わせてすぐさま的確な対応をしなければならないので、煕幸は戦慣れした永謙がよいと考えていたが、貴政は「俺がおそばでお守りする。泰綱と約束した」と言い張ったのだ。
「真愛さん、頑張れ! こうなっては僕には祈ることしかできないけど、やはり落ち着かないものだなあ」
左手で真愛の愛馬の手綱を引き、右手で将邦に近付こうとする敵の武者に馬上から目つぶしの玉を投げながら煕幸がつぶやくと、そばにいた貴政が言った。
「だが、これは必要なことなのだろう?」
「うん。これからの戦いのために真愛さん自身の武勲が必要なんだ」
少女と煕幸の戦いはこの合戦で終わりではない。都へ攻め上って基銀を倒し、吼狼国に平和を取り戻す戦いをしていく時、巫女姫の真愛に勇名があると大きな力になるのだ。
実は、煕幸は将邦が輿から落ちたところを囲んで矢を射かける方法も考えた。だが、万一逃げられたらお終いだし、うまく包囲できるかも分からなかった。実際には予想以上に敵が混乱してくれたので成功したが、やはり一騎打ちを申し込んで引き止めるのが確実だったのだ。
軍議でそう説明すると、真愛は「やります! 任せてください!」と言い切り、心配する祖父や仲間たちを自ら説得した。もちろん勝てるだろうと考えたから提案したのだが、煕幸は少女の勇気に心底感嘆し、自分は到底及ばないと思った。
なお、煕幸は将邦に断られる心配はしていなかった。恐怖で諸侯を従えている将邦は、年齢が四分の一の少女を相手に逃げるような恥ずかしいまねはできないからだ。
煕幸が空を見上げると、白い鴉が上空を舞っていた。普段から真愛の薙刀の金色の鞘に止まるように躾けられていたので、あとは真愛の部屋の金色の止まり木を使って、遠くからそこまで足につかませた物を落とさずに運ばせる訓練をすればよかったのだが、あの賢い鴉は止まり木に輪をかけることまで覚えてしまった。
「大神様のご加護か……」
少なくとも、あの少女に白い鴉という強い味方がいることは間違いなかった。
「そろそろかな」
煕幸が目を戻すと、必死に敵将の猛攻を防いでいた真愛は、敵から少し距離を取って休んでいた。呼吸は荒く、肩は大きく上下している。恐らく全身汗びっしょりだろう。表情にも疲労の色が見えている。心身ともに激しく消耗する戦いだ。将邦もやや息を弾ませているが、まだ余裕たっぷりで、勝利を確信した笑みを浮かべている。
「守っているだけでは勝てんぞ。そちらからも攻撃してこい」
そう言って挑発する。この男とこれだけ戦える真愛は相当の腕前だが、実力の差は歴然としていた。薙刀と刀という相手との距離の違いがなければ、とうにやられていただろう。
「そうですね。そろそろ勝負を付けましょうか」
上空を飛ぶ鴉を見上げて勇気を奮い起こし、少女は答えた。
「では、行きます!」
真愛は言った瞬間一気に踏み込んで、敵将の胴を突こうとした。だが、将邦は楯でやすやすとはね返した。将邦は全身を覆う頑丈な鎧を着ている。その上大きな楯がある。一方、少女は胴当てを付けただけだった。それだけでもかなり不利なのだ。だが、少女はその身軽さを生かすように、斬り付けてきた刀を払った流れで、再び胴をねらって突きを入れた。
「おいおい、そんな見え見えの攻撃では意味がないぞ」
将邦は言いながらも、楯を低くして腹を守った。大きな楯が胴のほとんどを隠していて隙がないが、少女は左右に飛び跳ねて、次々と突きを送った。
「やあっ!」
少女の速い動きに振り回されて将邦の対応がやや遅れた瞬間、真愛は渾身の突きを繰り出した。だが、将邦はそれを楯で滑らすと、一気に踏み込んだ。少女はとっさに跳び下がったが胴当てを刀の先で突かれ、後ろによろけて、なんと尻餅をついてしまった。
少女はすぐに薙刀を杖のように立てて起きようとしたが、焦っているためか、薙刀の先がくるくる回るだけで力が入らない。将邦はにやりと笑うと、刀を構えてねらいを付けた。
「これで終りだ! 小娘、死ね!」
その瞬間、ぱっと右へ地面を一回転して剣先をよけた少女は、将邦を指さして大声で叫んだ。
「輝翼丸、やっつけちゃって!」
途端に、先程の薙刀の先を回す合図で急降下してきていた白い大鴉が、斜め下へ突き出した剣を引いて、横へ逃げた少女の方へ向けようとしていた将邦の顔に突撃した。
「いててて!」
鴉の鋭い爪で顔を引っかかれた将邦が悲鳴を上げた。覚えがある煕幸がぞっとしたほどの勢いで、兜を脱いでむき出しの頭をつついている。将邦は慌てて楯を持つ左手で顔をかばい、右手の剣を頭上で振り回して鴉を追い払おうとした。
そこへ、きええいっ、と叫びながら既に起き上がっていた少女が薙刀を振るった。得意技の脛払いだ。正確には、横に回って鎧では守れない膝の裏側に思い切り斬り付けたのだ。
「ぎゃあ!」
非力な少女の一撃だったが、将邦は苦痛の声を上げてひっくり返った。重い刀と楯を上へ持ち上げてよろめいているところへ左の膝裏を攻撃されたので、耐え切れなかったのだ。
どしん、と両手を上げたまま仰向けに地面に倒れた将邦の左の腋の下へ、真愛の薙刀の切っ先が突き刺さった。
「これは五郎ちゃんの分!」
続いて、鎧の下垂れがめくれ上がって露わになった左の太ももを袴の上から貫いた。
「これは泰綱さんの分!」
「やめろ!」
鴉に引っかかれて血だらけの顔で将邦はわめいたが、少女は容赦しなかった。
「そしてこれが、私と、吼狼国の全ての民の分です!」
そう叫びながら、正面に立った真愛は、上半身を起こそうとしていた敵将の首へとどめの一撃を突き込んだ。
「ぐえっ!」
つぶれた悲鳴をもらした将邦は天をつかむように両手を高く伸ばしたが、そのまま大の字に後ろへ倒れて動かなくなった。
「お見事です!」
そこへ、少し離れて見守っていた俊政が馬で駆け寄り、飛び降りて将邦の死を確認すると、立ち上がって腹の底から出せる限りの大声で叫んだ。
「白牙大神様の天命を受けた大翼の巫女姫桃園真愛様が、敵の大将灰積将邦を討ち取られたぞ!」
その絶叫は周囲の山々に木霊してほくろ平全体に響き渡った。
一瞬静まり返った戦場は、次の瞬間、爆発するような桃園軍の武者たちの歓喜の叫びで埋め尽くされた。一方、灰積軍の武者たちは自分の耳が信じられないという顔で立ちつくしている。
続いて、貴政が叫んだ。
「桃園家の全軍に告ぐ! 敵将は死んだ! 総攻撃を開始し、敗残の敵を殲滅せよ!」
うおおお、と桃園家の全ての武者が絶叫し、槍を構えて目の前に敵に襲いかかった。
たちまち戦場は殺戮の場と化した。自分たちを保護してきた者が死んだと知った灰積家の武者たちは、これまでの悪行の数々を思い出し、青ざめて一斉に逃げ始めた。立場は完全に逆転していた。討伐され殺されるのは彼等の方になったのだ。桃園家の武者たちは恨み骨髄に徹している。敵が弱気になったのを幸い、追いかけ追い詰めて次々に殺していった。春の可憐な花々が咲き乱れる草地は恐怖の悲鳴と勝利の雄叫びであふれかえり、その上空を光り輝く大きな白い鴉が円を描いて悠々と飛んでいた。
「真愛さん、大丈夫?」
生まれて初めて討ち取った敵の死体を見下ろしてぼんやりと立ちつくしている少女に、煕幸は近寄って声をかけた。返事がないので、馬を下り、少しためらってから真愛の肩に手を置いた。
「さすがにたかぶっていた気持ちが冷えると、人を殺したことの重さを感じたのかな」
「いいえ、違うのです。この人を討ったことに後悔はありません」
流血をあれほど嫌っていた少女ははっきりと首を振った。
「ですが、復讐が終わってみると、何だか虚しくなってしまって」
真愛の目は赤かった。今も涙がこぼれ続けている。それは、自分のために死んだ二人への追憶の涙であり、感謝の涙であり、勝利したのに彼等へ直接告げられない寂しさの涙でもあった。そんな主人を慰めるように、肩に戻ってきた鴉が少女の髪に体を寄せている。
「そんなことを言っている暇はないよ」
煕幸も養父や仲間を殺されているので真愛の気持ちはよく分かったが、敢えて現実に引き戻すような言い方をした。
「敵はまだ残っている。猶門の右翼はほぼ無傷だし、義狼団に足止めを頼んでいる将建を逃がしたら灰積家は復活してしまう。それに、僕たちの戦いはまだ始まったばかりだ。基銀を倒すんだろう。僕の目的にも協力してくれる約束だったじゃないか」
「そうでしたね」
真愛は急いで目をぬぐって顔を上げた。
「私は前に進み続けなくてはなりません。立ち止まってはならないのですよね」
「そうだね。まだ立ち止まる時じゃない。感慨にひたるのは、せめて二龍逢城を解放するまで待った方がいいね」
「分かりました。では、戦いを続けましょう」
真愛は煕幸に深々とお辞儀をした。
「あなたのおかげで二人のかたきが討てました。ありがとうございます」
そして、ちょっと照れながら言った。
「今後も私を手伝ってくれるんですよね」
「うん。これからも僕たちはずっと一緒だ」
はい、と答えて少女がぱあっと微笑むと、鴉もうれしそうに、かあ、と鳴いた。真愛はいつの間にかそばにいた貴政や俊政に明るい顔で頷き、やぐらを降りてきた七穂に元気に手を振ると、煕幸から手綱を受けとって再び馬にまたがり、散開している武者たちを呼び集めて隊列を組むように命じた。
一方、灰積軍の左翼を担当していた四千の船持勢は、将邦の死を信じられず、動けないでいた。そこへ、自分たちを森へ押し付けていた桃園家の右軍から軍使が来た。真棟が会いたがっているというのだ。船持源在は少し考えたが承知し、全軍に戦闘停止を命じて桃園軍と距離を取らせると、百名に先程の叫び声の真偽を確かめに行かせ、自分は部隊の前へ出た。すると、同じく下がった桃園軍から真棟が一人で歩いてくる。五十四歳の源在は同年配の真棟をよく知っていたので、驚いて自分も一人で向かった。
「あなたもあれをお聞きになったろう」
源在を認めた真棟が近付いてきた。
「はい。しかし、信じられません」
源在が正直に答えると、真棟は「全くだ」と真顔で頷いた。
「わしもまだ信じられん。だが、事実だろう。あれは真愛と行動を共にしている武者と家老の声だ」
真棟は急に顔をゆがめると、こみあげてくる感情をこらえながら言った。
「源在殿。将邦は死んだ。だが、小枯野猶門率いる六千がまだ残っている。やつらを逃がすわけにはいかぬ。我々と共に戦ってほしい」
「もちろん私もそうしたい。心からそうしたいのですが、まだ信じられませんので……」
と言ったところへ、自軍から家老と一人の武者が走ってきた。
「大殿、大殿! ご報告があります!」
家老は泣きそうな顔をしていた。それを見ただけで源在は内容が分かってしまったが、自分の耳で聞きたかった。
「事実だったのだな」
はい、と武者が喘ぎながら答えた。顔は涙でぐちょぐちょだった。
「灰積将邦は死にました! この目で死体を見ました!」
後方の味方からも歓喜の雄叫びが聞こえてくる。真棟も涙を流しながら言った。
「あなたはもう自由だ。灰積家に従う必要はなくなったのだ」
「自由ですか……」
源在は不覚にも繰り返す声が震えてしまった。
「そうだ。自由だ。その自由な源在殿にお願いする。我々に協力してほしい。残兵を完全に掃討し、灰積家を滅ぼして、首の国に平和を取り戻そう」
「喜んでお味方させていただきます」
源在は涙をぬぐって答えた。
「巫女姫様と大軍師様に是非ご協力申し上げたい。将邦を倒していただいて、本当に本当に感謝いたします」
真棟は大きく頷いた。
「ありがたい。では、我等は敵本隊の残存武者を片付けるゆえ、船持殿には猶門隊を討っていただきたい。当家の家老海老間永謙に一緒に軍使を出して連絡を取り、挟み撃ちにいたそう」
「既にそこまでお考えでしたか」
源在が驚くと、真棟は苦笑して首を振った。
「わしの考えではない。全て軍師殿のご指示だ。貞述は自家の兵をできるだけ温存しようと、船持勢を戦わせるだろうが、四千とあまり兵数が多くないから、左右の軍勢の数を変えておけば少ない方に差し向けてくるはずだ、わしなら源在殿を説得できるに違いないとおっしゃったのだ。おかげで永謙より配下の武者が少なかった」
「なんと、そうでありましたか」
源在は感嘆の口ぶりで言った。
「巫女姫様と大軍師様に早くお目にかかりたくなりました。その前に、さっさとあれを討ち滅ぼしてしまいましょう」
源在と真棟は愉快そうに笑うと、大神様に感謝の祈りを捧げ、それぞれの部隊に戻って命令を伝えた。
一方、猶門は将邦死すの叫び声に仰天したが、武者を派遣して事実と知ると、合戦の勝敗は決したと悟った。すぐに戦闘を中止させた猶門は、右翼五千と援軍一千の六千を集めて守りを固めると、戦場からの離脱をはかって、遠国街道へ逃げ込もうとした。
「こうなっては仕方がない。撤退だ。急いで将建様と合流するのだ」
「逃がすか!」
ほくろ池のほとりを東へ後退し始めた猶門隊の意図に気付いた永謙隊はすかさず追撃し、それに船持勢も加わった。灰積軍本隊の背後にいた政彰隊一千は、猶門隊の脱出を阻止すべく予定通り遠国街道の入口に槍衾を作り、同じ役目を帯びている真愛隊二千が援護に駆け付けてくるのを待った。だが、猶門隊は数が多く、生き延びるために必死になっている。そこへ真棟に攻撃された灰積軍本隊の残存武者までが合流して、残りの矢を全て叩き付けて突撃すると、政彰隊は兵力に劣った上、険しい南の尾根道を素早く移動するために重くかさばる大きな盾を持っていなかったこともあって猛攻をこらえきれず、遂に猶門隊に街道の入口を明け渡してしまった。
「なんということだ。猶門を逃がせばどこかの領国で再起を図るだろう。そうなっては首の国の戦乱は今後も続くことになる」
政彰は悔しさに歯ぎしりしたが、もう街道へ雪崩れ込んでいく敵兵の勢いは止められない。そこへようやく到着した真愛たちも青ざめ、煕幸は自分を責めた。まだ多数の飢えた狼が走り回っている戦場で二千の騎馬武者をまとめる困難さと、命の危機にある時の敵の勢いを軽く見ていた読みの甘さが招いた事態だと思ったのだ。必死に対策を考えたがうまい手を思い付けず、どうしますかと真愛に尋ねられて煕幸が返事をできないでいると、突然、街道の奥で大きな鬨の声が起こった。同時に、逃げ込んでいった灰積家の武者たちが慌てて街道から飛び出してくる。
何事かと驚いていると、敵兵の後ろから岩夏家の旗印を掲げた軍勢が現れた。
「桃園家の勇者たちよ。将邦を討ってくれて本当に感謝する! 我等岩夏家の五千人は貴殿らにお味方いたす!」
指揮官らしい三十台後半の武将が叫んでいる。
「あれは是浄公です! 合戦の勝利を知って、南の尾根道から加勢に駆け付けてきてくださったのです!」
政彰が大声を上げて大きく手を振ると、是浄も手を振り返した。
「よし。では、この機をのがさず、敵の残存部隊を制圧しよう。挟み撃ちにすれば必ず勝てる」
煕幸が言うと、馬上の真愛が明るい顔になって頷いた。
「はい。予定通り、降伏する者は殺さないと武者たちに叫ばせましょう」
「それでほとんどの者は抵抗をやめると思うよ。これ以上の戦闘が無意味なことは誰の目にも明らかだからね」
真愛が貴政に視線を向けると、若い家老はすぐにそうするように武者たちに命じた。
桃園軍九千と船持勢四千は、岩夏勢五千と力を合わせて灰積家の武者たちを掃討した。彼等も必死に抵抗したが、強者の立場から弱者をいたぶるばかりだった者たちが、苦しい戦場を幾度も経験し、たった今もその一つを乗り越えて意気上がり、これまでの怒りをまとめてぶつけてくる三家の武者たちにかなうはずはなかった。遠国街道の入口をふさがれた武者たちは追い詰められ、多くの者がほくろ池に飛び込んだが、そのほとんどは重い鎧のために対岸にたどり着けなかった。
やがて、部下が次々に降伏して孤立した猶門が討たれ、残りの灰積家の武者全てが武器を捨てると、岩夏勢から数人の武将が近付いてきた。彼等は馬を止めた煕幸たちに声をかけてきた。
「巫女姫様と大軍師様でいらっしゃいますか」
はい、と返事をすると、武将たちは馬から降り、その場に片膝を突いた。
「私は岩夏是浄と申します。将邦を討っていただいて心から感謝いたします」
煕幸と真愛は頷き合って下馬し、壮年の武将にお辞儀を返した。
「こちらこそお礼を申し上げます。あなたが政彰さんの部隊を見逃してくださったおかげで勝てました。先程も、岩夏勢が駆け付けてきてくれなければ猶門を逃がすところでした」
真愛が言い、煕幸と政彰も深く頭を下げたが、是浄は首を振った。
「私は大したことはしておりません。ですが、少しでもお二人のお力になれたのでしたら、大変光栄に存じます」
と言って、後方を手で示した。
「街道をこちらへ向かって進んでくる途中で、あの男を捕らえました」
縄を打たれて武者に取り囲まれた貞述は、憔悴し切った顔でうなだれていた。周囲が一騎打ちに気を取られている隙に逃げ出して行方が分からなくなっていたのだ。
「ありがとうございます。おかげで手間が省けました。では、岩夏勢には合戦場のあと片付けと捕虜たちの監視をお願いいたします。ですが、是浄様は僕たちに同行していただきます」
是浄は顔を上げ、船持源在と顔を見合わせると笑みを浮かべた。
「心得ております。横板淵里殿にこちらに味方するように呼びかけるのですな」
「そこまでお分かりですか。話が早くて助かります」
「もちろん喜んで協力いたしましょう。ですが、既に決着は付いていると思いますぞ。淵里殿も我等と同じ気持ちでしょうからな」
是浄が言うと、源在も笑って頷いた。
早速、真愛・煕幸・貴政たち二千が二人の封主を連れて遠国街道を進み、北の沢道へ入って横板勢の背後に近付いていくと、武者たちは歓声を上げて彼等を迎え、淵里と山吹善晃が捕虜にした将建を引っ立てて現れた。
淵里はほくろ平に出していた物見の武者から将邦の討ち死にを知ると、五百人に道を厳重にふさがせておいて、将建の軍勢に背後から矢を浴びせ、ようやく水が引いた川を渡って一斉に突撃したのだ。横板家は将建の軍勢に領内を荒らされて降伏に追い込まれている。武者たちはこれまでの恨みの全てをぶつけて猛烈に攻めた。不意を打たれた将建勢は大混乱に陥ったが、そこへ、桃園軍の本陣からの急使で味方の勝利を知った義狼団が反対側から襲いかかった。挟撃されて河原で逃げ場を失った将建勢の武者たちは次々に討たれ、囲みを破って逃げ出した者たちも、道をふさいでいる横板家の武者たちや、義狼団の援護に駆け付けた唐塩稙久と星刈安常の二人の家老の軍勢一千に阻まれて降伏せざるを得なくなった。善晃は全体の指揮を友延に任せると、百人の勇士を連れて将建の周囲を守る武者たちに突っ込んでいき、激闘の末、将建を捕虜にした。
それを聞いた真愛たちは喜び、横板勢や義狼団と一緒に全員で鬨の声を上げて、坂の上の真棟たちに、全ての戦が終わったことを知らせたのだった。




