第二章 過去 上
山賊討伐軍一千五百人は夕刻になって目元の町へ戻ってきた。
三十一万貫の城下町で遠国街道の宿場でもあるこの町は、見伏国で一番大きく、人口は五万を超える。町の東西の入口には立派な門があり、警備の武者が常に立っていて暗くなると閉じられるが、他の場所には簡単な柵しかないので、夜間も出入りは難しくない。それでも、治安はかなりよかった。
目元という町の名は、その位置に由来する。吼狼国は島国で、巨大な狼が西を向いて海に横たわったような形の臥神島と、その十分の一ほどの大きさで、鴉が翼を広げて飛び立とうとしているような姿の御使島が主な島だ。臥神島の頭部に当たる紅日岬半島一帯を首の国地方といい、中央にある芽の湖という大きな湖の周囲が見伏国だ。芽の湖の南にある目元の町は、全国の地図で見ると、まさに狼の目のすぐ下にあるのだ。
町の中へ入ると、先行させた者たちに討伐の成功を聞いたらしく、たくさんの町人が街道の両脇に出てきて熱狂的に迎えてくれた。吼狼国では神獣とされる白い鴉を連れた真愛は有名なので、多くの民から好意的な声がかけられた。少女も無理をして笑顔を作って手を振り返し、勝利を祝う人々に応えていた。
だが、目元城の前まで来ると真愛の表情はまた暗くなった。堀にかかった橋を渡り、城門まで迎えに出ていた祖父に馬を下りて挨拶すると、真棟は「泰綱が死んだそうだな。だが、よくやった」と孫をほめ、そのまま城内の広場まで一緒に歩いて行った。
整列した討伐軍に真棟が感謝の言葉をかけると、真愛は解散を命じた。
「疲れたろう。飯はもう用意ができているそうだ。食べたら風呂に入って休め」
祖父のやさしい言葉に頷きながら、真愛はこれから試練を受けるような硬い顔で中郭の御殿へ向かった。玄関の前で立ち止まった少女は、しばらくためらってから覚悟を決めた顔で中へ入ったが、そこで待っていた二人の女性を見てつらそうにうなだれた。
「八重さん……」
つぶやくように名を呼んだ真愛は、勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
鴉が飛び上がって肩に乗ってきたので、一緒に来るように言われてすぐ後ろにいた煕幸は二重にびっくりしたが、八重と呼ばれた五十前後の女性の顔を見て納得した。目鼻立ちが七穂や泰綱にそっくりだったのだ。そういえば「母も真愛様の侍女です」と七穂が話していた。もう一人の二十歳前後の美人は日輪山小鈴だろう。真愛の侍女は三人と聞いていたからだ。
「泰綱さんが……、本当に申し訳ありません」
真愛の声は震えていた。
「謝ることはありませんよ」
栗木田八重は答えた。諦めた口調だった。
「真愛様の責任ではありません。戦に死者はつきものです」
「でも、でも、私が判断を間違えたから!」
真愛が言うと、八重は顔色を変えた。真棟も驚いた様子で、「どういうことだ」と尋ねた。
言葉の出ない真愛にかわって煕幸の隣にいた貴政が簡単に事情を説明した。包囲された山賊が和平を提案してきたこと、真愛はそれを信用して受け入れたが罠だったこと、捕えられそうになった真愛を助けて泰綱が死んだことを聞くと、真棟は「そういうことか」と顔を上げられない真愛を見つめて理解した表情になった。
「大切な教訓を得たな。対価は大きかったが」
真棟は重々しい口調で言った。
「自分が多くの者の命を預かる立場だということがよく分かったろう。それは封主家の当主や一軍を指揮する者ならば誰もが肝に銘じなければならぬ責任だ。お前は自分でこの討伐軍の大将を買って出たのだから、その責めを負わねばならぬ。誰のせいにもできぬぞ」
「分かっています」
真愛は頷いた。
「非難はいくらでも受けます。でも、七穂と八重さんには何と言って謝ったらよいか、言葉が出てこないんです。貴兄様にも……」
「謝る必要はない」
真棟は突き放すように言った。
「結果の重さに耐えるのも大将の仕事だ。お前はお前なりに最善を尽くしたのだろう。ならば胸を張れ」
孫を思う祖父の口ぶりではなく、三十一万貫の封主家の当主の言葉だった。
「泰綱はお前を守って死んだのだ。その死を無駄にせぬよう、立派な武将になれ。それが泰綱に報いる唯一の方法だ」
「でも、私は謝りたいんです。本当に、本当に申し訳ありませんでした」
抑え切れずに涙をこぼしながら真愛が再度頭を下げると、少女を凝視していた八重は深い溜め息を吐き、哀れむような表情になって真愛に近付き、そっと抱き締めた。
「よいのですよ。泰綱も真愛様のためでしたら本望だったでしょう」
真愛は涙声で叫んだ。
「そんなはずありません! 絶対に死にたくなかったに決まっています!」
「覚悟はしていたと思いますよ。あの子は真愛様を恨んでいなかったのでしょう?」
貴政が頷いた。
「はい、七穂殿に真愛様を恨むなと言い残しました。そして、真愛様には、決して歩むのをやめぬように、と」
「そうでしょうとも。それでこそあの子です。お馬廻頭を務める栗木田家の総領にふさわしい態度です」
八重は誇らしさと悲しみのまじり合った顔で言ったが、少女は頭を振った。
「それでも私の罪は消えません」
言うなり膝の力が抜けて、八重の腕の中から崩れ落ちそうになった真愛を横から支えたのは、日輪山小鈴だった。真愛の様子に驚き、貴政の報告に蒼白になって立ち尽くしていたが、自分の仕事を思い出したのだ。
「しっかりなさってください」
やさしい声で言った小鈴が真愛の脇の下に肩を入れ、八重と協力して少女の体を支えると、涙ぐんでやり取りを見守っていた七穂が気が付いて少女の草鞋を脱がせた。
「小鈴殿、真愛様を頼みます」
声をかけた貴政に頷いて、小鈴は栗木田母娘と一緒に三人がかりで少女を部屋へ連れていった。それを先導するように、鴉が煕幸の肩を離れて飛んでいく。
「さて、永謙と貴政には詳しい報告を聞こうか。その者も紹介してくれるのだろうな」
真棟が煕幸へ目を向けると家老二人は頷いて、自分たちも草鞋を解きにかかった。
その日の夜、半七郎は目元城の下郭の牢獄で、膝を抱えて絶望に沈んでいた。
義狼団から万之助と一緒に桃園家に引き渡され、縛られ歩かされてここまで連れてこられたが、道中は行列を見送る村人たちに怒りの目を向けられ、町に入ると町人たちから罵声を浴びせられて、飯ももらえずに牢に放り込まれた。手には木の枷をはめられ、そこから延びた鎖で壁につながれている。
これまでに聞いた話を総合すると、他の仲間が送られてきたら城下でさらし者にされた上で磔にされるらしい。もちろんそんなのは御免でさっさとこんなところから逃げ出したいのだが、牢は背面と横が分厚い土塗りの壁、通路側が鉄格子になっていてとても抜け出せないし、建物の出口の外には槍を持った牢番が一人立っている。牢獄には他にも部屋があるが、これから来る者たちを入れるためなのか罪人は半七郎たち二人だけのようだった。
「畜生、俺ももうお終いか……」
声に出して嘆くと、「うるせえ!」と万之助の足が飛んできた。手の枷で殴れないから蹴られたのだ。相当鬱憤がたまっている様子で荒れているが、こっちに当たるのはやめてほしかった。
あんたのせいで俺まで処刑されることになったんだ。全くとんだとばっちりだぜ。
半七郎は心の中で毒突いたが、怒らせると何をされるか分からないので、口には出さなかった。自分の罪の重さを分かっていなかった半七郎は、万之助があの武者を殺したせいで自分まで処刑されることになったと考えていたのだ。
半七郎が空きっ腹をなだめながら万之助に聞こえぬようにぶつぶつと呪いの言葉をつぶやいていると、牢獄の扉が開いて、月明かりを背に、一人の人物が建物の中へ入ってきた。
その人物はまっすぐ二人の牢の前に来てしゃがむと、「食事だ」と言った。
「待ってたんだ!」
半七郎が喜んで起き上がると、万之助が目を開き、「俺にもよこせ」と言った。その人物は頷き、「これをそっちの男にやんな」と鉄格子の隙間から大きな握り飯を三つ竹の葉に包んだものをくれたので、万之助に手渡すと、不自由な手で早速食べ始めた。その人物は「これはお前の分だよ」と言って二つ入った包みを半七郎に渡した。
何で俺は二つなんだ、と不満に思いながら包みを開こうとすると、その人物が胸の前で小さく手招きした。もっとくれるのかと思って近付くと、相手がささやいた。
「ここから逃げたいかい?」
「も、もちろんだぜ!」
思わず大きな声を出すと、その人物は「しっ!」と口に指を当て、左右を見てから、万之助に聞こえないように言った。
「じゃあ、あんただけ逃がしてやるが、一つ頼みを聞いてほしい」
「何をすりゃいいんだ?」
半七郎はここから逃げられるなら何でもするつもりだったが、一応警戒して尋ねた。
「この手紙をある人に届けてほしい。持っていけばたんと褒美をくれるよ。そう書いておいた」
届ける相手の名前を聞いて半七郎はびっくりしたが、すぐに頷いた。ここを出ても一文無しで行くあてがないので、褒美をもらえるのなら、話に乗って損はないと思ったのだ。
「その牢はじきに開く。その時に隙をついて逃げるんだよ」
そうささやくと、その人物は牢を出て行った。
牢が開くとはどういう意味だろうと思い、耳を澄ませて辺りの様子をうかがっていると、突然万之助が苦しみ出した。
「あいつ、毒を食わせやがったな!」
口から泡を吹き、のどをかきむしりながら呪うようにうめいた言葉で、半七郎は牢を出る方法を悟った。すぐに立ち上がって大声で「大変だ!」と騒ぎ立て、眠そうな顔の牢番が何事かと扉を開けると、慌てた様子で呼び寄せた。
「万之助さんが死にそうなんだ。急病らしい」
驚いた牢番は走ってきて、牢の奥で万之助がもがき苦しんでいるのを見ると鍵を開けて入ってきた。
「おい、しっかりしろ! お前たちは公開処刑するのだから、まだ死なれては困る」
牢番が万之助の顔をのぞき込むと、そっと背後に回った半七郎は、その頭に思い切り木の枷を叩き付けた。
牢番は目を回して倒れた。半七郎は懐を探って鍵を探し、枷をはずすと、牢に鍵をかけて牢番を閉じ込めて外に出た。扉にも施錠し、密かに城壁を乗り越えた半七郎は、夜の街を走り抜け、遠国街道を東の方へ去っていった。
翌日の昼前、煕幸は目元城中郭御殿の一室で目を覚ました。雨戸を開けて外を見ると、既に太陽は真上に近く、春らしい温かな日差しの下、広い庭で満開の桜が三本咲き誇っていた。
昨夜貴政や永謙と一緒に山賊退治の顛末を報告した際、真棟は桜座そっくりのほくろのことを聞いて驚き、胸を開けさせて自分の目で確認して考え込んだ。が、桜の大軍師様かも知れぬお方を粗略にはできぬ、是非賓客として滞在していただきたいと言って、御殿に部屋を用意してくれた。
夕食を家老二人や真愛と同席することになり、戦勝祝いの豪華な料理に驚いて、この半年旅続きだったので久しぶりのまともな食事を喜んだが、初めて食べる珍しい品々に舌鼓を打ちながらも、煕幸はどうにも落ち着かない気分だった。それは、封主家の当主と一緒の食事に緊張したことと、真愛の到底祝宴という雰囲気ではない落ち込んだ様子が気になっていたことが原因だったが、もう一つ、自分の今後の身の振り方が決まっていないので、こんなところでのん気に酒を飲んでいてよいのだろうかという焦りも理由だった。
まず、義狼団に協力し、そのかわりに姉の奪還を手伝ってもらうという計画は難しくなった。彼等はしばらく首の国で灰積家と戦うようなので、助力を約束してくれたとしても都へ向かえるのがいつになるか分からないからだ。それに、彼等のねぐらを探して追い詰める作戦を献策した自分を、仲間として受け入れてくれる可能性は低かった。桃園家は灰積家の命令に従っているので、その協力者の煕幸も警戒されるに違いない。かといって、他に当てにできそうな人物や団体を知らなかった。唯一、義狼団の資金源の人々に会うことができれば交渉次第で大きな援助を得られそうだが伝手がない。義狼団を通さずに接触するうまい方法はないかと考えたが、思い付かなかった。
こうした迷いや不安のせいもあって、大して酒に強くないのに真棟に注がれて断り切れずに杯を重ねた結果、酔いつぶれて寝所に運ばれるという醜態をさらしてしまった。その上今朝は随分な朝寝坊で一層恥ずかしかったが、幸い二日酔いはなく、目覚めはすっきりしていた。
とにかく起きることにして、誰かいないかと廊下を歩いていくと、小鈴が通りかかって、部屋に朝食を持ってきてくれた。彼女の給仕でもはや昼食の遅い食事を食べながら他の人の様子を聞くと、家老たちは昨夜あのあとすぐに帰ってまだ登城してきておらず、真愛は外出しているという。今日は泰綱の葬儀があるので栗木田家へ出かけたらしい。小鈴はもう行ってきたと言うので、煕幸は考えた末、自分も顔を出すことにした。
黒い着物は持っていないので、仕方なくいつもの行商人風の装いで町に出た煕幸は、小鈴に聞いた通りに歩いて栗木田邸にたどり着いた。さすがに重臣の屋敷だけあって大きかったが、故人の人徳ゆえか弔問客が多く、広い庭が人でいっぱいだった。あちらこちらで声をひそめて交わされている会話によると、七穂たちの父は数年前に亡くなっているらしく、現当主の泰綱が独身のまま子を残さずに死去したので跡継ぎが問題になるようだ。七穂が婿を取るのだろうと皆予測しているが、今のところ特に決まった相手はおらず、年頃の息子を持つ親たちは興味津々(しんしん)らしかった。
ざっと雰囲気をつかんだところで、煕幸は玄関に向かった。町人風でしかも旅着なので不審がられたが、七穂を呼んでもらうと少しやつれた顔で現れた侍女は喜んでくれて広間に案内された。棺に近い上座の座布団には永謙など重臣たちが座っていて、煕幸に気付いた貴政が顔を上げたが、すぐに視線を逸らして、怖いほど無表情な顔でじっと黙り込んでいた。
煕幸は前に進み、既に何百本も立っている線香の林に一本を加えると目をつぶって手を合わせた。が、泰綱の死ぬ間際の言葉を思い出して、少女を助けると約束したけれどそれをどうやって守ったらよいのだろうと考えてしまい、今後についての不安がまた心に広がって、静かな気持ちで故人に向かい合えない自分を申し訳なく思った。八重が近付いてきて、娘に山賊討伐の詳しい経緯を聞いたらしく丁寧な言葉をかけてくれたが、周囲が桃園家の上級武家ばかりの中、一人だけ知らぬ顔で身なりも整っていないので長居しない方がよいだろうと思い、出棺の準備が始まると辞去した。
栗木田家の門を出た煕幸は、棺桶を担いだ親族と参列の人々が通りをゆっくりと歩いていくのを見送り、さてこれからどうしようかと辺りを見回して、隣の家の門の陰で肩に鴉を乗せた真愛が葬列に手を合わせているのに気が付いた。
昨日に増して元気がなさそうな様子に声をかけようかどうしようかと迷っていると、少女が三人の黒い着物を着た町娘に囲まれて通りに引っ張り出されてきたので、煕幸は十字路の白い漆喰の塀の陰に急いで隠れた。
「真愛様。こんなところでどうしたんですか」
娘の一人が言った。三人とも少女と同じくらいの年頃だが、真愛は十四歳の少年ということになっているので、気弱な弟の世話を焼くような口ぶりだった。
「隠れてないで葬列に加わればいいじゃないですか」
お転婆そうな娘が背中を押して歩かせようとすると、おっとりした風な二人目が止めた。
「加代ちゃん、真愛様は桃園家のお世継ぎでいらっしゃるから、家臣の葬儀には出づらいのよ」
「そんな遠慮はいらないわ。真愛様は泰綱様を殺した敵をやっつけてくれたのよ。堂々としていればいいのよ」
煕幸の存在は隠さなくてはいけないので、山賊退治の作戦は真愛の手柄にされていた。
「町人の私たちも八重様は快く入れてくれたわ。豊音だってお線香を立てさせてもらったじゃない」
「そうだけど、真愛様には立場がおありなのよ。ねっ、秋江ちゃん」
豊音は一番背が高く大人びている娘に同意を求めた。
「そうね。真愛様のせいではないと言っても、泰綱様の大将だったから、葬儀の場で『よく戦ってくれた。ほめてつかわす』なんて言うわけにはいかないのよ。そうですよね、真愛様?」
少女は力なく微笑んだだけだった。
「真愛様、元気がないですね」
秋江が心配そうな顔をした。
「仕方ないわ。自分の指揮する隊から死者が出たんだもの。初陣の真愛様にはやっぱり衝撃だったのよ」
加代が分かった風に言うと、豊音も頷いた。
「そうね。私も驚いたわ。まさか泰綱様が討ち死になさるなんて。とってもやさしくて親しみやすい方だったのに」
「私たちにも気さくに話しかけてくれたし、お顔もお姿もかっこよかったし」
加代の言葉に、秋江が寂しそうな顔をした。
「密かにあこがれてた子も多かったものね。身分が違いすぎたけど、側室でもいいからって子は結構いたと思うわ」
真愛も知っている話なのか、曖昧な微笑を浮かべて黙っている。
「でも、それも無理になっちゃったのよね。泰綱様ともう二度と会えないなんて……」
突然、加代という少女が泣き出した。一番元気そうな少女がしゃくり上げ始めたことに他の二人がびっくりしてなだめにかかった。
「もしかして、加代ちゃん、泰綱様のことを?」
「知らなかったわ! そうだったのね……」
「でも、秋江ちゃんだって本当は好きだったんでしょう? 待ち伏せてわざとすれ違って、声をかけてもらったって喜んでいたじゃない」
「豊音だって、この辺りをよくうろうろしてるって聞いてたわよ」
「じゃあ、もしかして、私たちみんな……?」
顔を見合わせた三人は、一斉に声を上げて泣き出した。
真愛はびっくりしていたが、「僕は君たちからも泰綱さんを奪ってしまったのか……」とつぶやくと、急に顔を泣きそうにゆがめ、慌てて目をぬぐって、「ぼ、僕はこれで……!」と叫んで走っていってしまった。肩から飛び上がった鴉が付いていく。
三人の娘はそれを驚いた顔で見送った。
「つられて泣きそうになるなんて、真愛様って女の子みたいね……」
豊音がつぶやくのを後ろに聞きながら、煕幸は真愛のあとを追った。
真愛は泣いているらしく、何度も目をぬぐいながら、どんどん裏通りへ入っていく。
追いかけてどうするんだ。なぐさめるのか。
煕幸は自分が何をしたいのか分からなかったが、とても放ってはおけず、気付かれないように距離を置いて付けていった。
今は貴政さんも七穂さんも真愛さんのそばにいない。僕が見守っていてあげないと。
そう自分に言い訳しながら、真愛が十字路を曲がったのを見て急いでその角まで行って横の細い通りをのぞき込むと、少女の姿がなかった。おかしいなと辺りを見回すと、すぐ脇の生垣に囲まれた小さな家の枝折戸が半開きになっているのに気が付いた。どうやらその家の裏口らしい。もしやと思って近付くと、家の表の方で男の声がして戸を閉める音が聞こえた。
煕幸は少しためらったが、やはり少女が気になるので枝折戸を開けて庭へ入り、家の壁に忍び寄って聞き耳を立てた。すると、案の定、家の中から少女のすすり泣きが聞こえてきた。
木の窓に近付き、細い隙間を見付けて室内をのぞき込むと、六畳ほどの土間の上りかまちに少女が腰かけて泣いていた。その横に主人に寄り添うように鴉がいる。
煕幸は中を見回して、ここはどういう場所だろうと不思議に思った。土間には木の棚がいくつもあって、たくさんの陶器のつぼや小刀に似た大小様々な刃物や長い針、使い道のよく分からない工具が並んでいる。中央に人が寝られるほど大きな腰ぐらいの高さの台が置いてあるので何かの作業場なのは分かるが、きれいに掃き清められた床にはこの地域で盛んな木工や竹編み細工の痕跡はないし、棚のない壁には吼狼国最高峰の神雲山の図案や、銀色の狼や白い鴉を描いた色付きの大きな絵が多数貼られている。
煕幸が室内を観察している間も、少女は涙をぼろぼろこぼしながら泣き続けていた。辺りをはばからぬ泣きぶりからすると、一人で思う存分泣ける場所を求めてここに来たらしい。恐らく目元城では我慢していたのだろう。まわりは男だと思っているし、封主家の世子としては、あまり女々しい様子は見せられなかったのかも知れない。
少女はそうしてしばらく泣くことに没頭していたが、やがてしゃくりあげる間隔が長くなり、泣き声が小さくなっていって遂に止まった。と、それを待っていたように、六十を超していそうな禿頭でいかつい顔の老人が湯のみを二つのせた盆を持って左手から土間を歩いてきた。
「泣き止んだかい?」
「うん」
少女は隣に腰を下ろした老人から古い手拭いを受け取って目をぬぐった。
老人は堅気なのか渡世人なのかはっきりしない怖い顔つきにふさわしく素っ気ない口調だったが、決して冷たくはなく、少女を気遣っていることが伝わってきた。
「達政に聞いたよ。嬢ちゃんのせいで泰綱が死んだんだってな」
真愛が一番言われたくないことをあっさりと口にしたので煕幸はぎょっとしたが、少女は素直に頷いた。真愛が女の子だと知っているので二人がかなり親しいことは分かるが、明らかに町人で武家ではなく、商人にも見えないので、どういう関係なのかはっきりしない。
「戦の経過を聞いて、それは嬢ちゃんばかりを責められねえだろうと俺は思った。相手の策に引っかかったのは確かに悪いが、向こうのやり口もかなりずるい。大将が子供と知ってだまして捕虜にしようたあ義賊とも思えねえからな。それに嬢ちゃんはまだ封主家の若様になったばっかりだし初陣で場数を踏んでねえ。もっと慎重に事を運ぶべきだったとは思うが、ほとんど勝っていた戦だ。相手が話し合いたいと言ってくれば、嬢ちゃんなら受けたくなるよな。だが、泰綱の死の責任を負うのが誰かと問われれば、それはやっぱり大将だった嬢ちゃんだと俺も答えるだろう。だから、批判には黙って耐えるしかねえな」
「はい、分かっています。みんなが私に怒るのは当然だと思います」
答える真愛の口調は落ち着いていたので煕幸はほっとした。同時に、「私は悪くありません。戦闘を避けたいという善意を利用してだました相手が卑怯なんです」とか、「結局死者は泰綱さん一人ですみました。戦っていればもっと多くの人が傷付き亡くなったかも知れません」といった見苦しい言い訳をして自分を正当化せず、責任を受け止めようとする少女の強さを好ましく思った。
「私がばかでした。誰も傷付けたくなかったんです。だから、あの提案に飛び付いてしまいました。貴兄様や七穂や八重さんに恨まれ罵られても恨みません。でも、三人とも私を責めないんです」
少女は唇を震わせてうなだれたが、もう涙は流さなかった。
「あの人たちに合わせる顔がありません。今日は勇気がなくて葬儀にも出られませんでした。みんながどんな目で私を見るかと思うと中に入れなくて……」
少女は赤い目を上げた。
「それに、あの子にも顔向けできません。私はまた、自分のせいで人を殺してしまいました。もう二度と繰り返さないと誓ったはずなのに」
あの子って誰だろう。
少女のつらそうな表情が煕幸は気になった。
「やっぱりそれが苦しかったんだな。だからここへ来たのかい」
「はい。おじいちゃんの家へ行こうかと思いましたけど……」
急に少女が小声になったので、煕幸は耳を隙間に近付けた。
と、足元で、ぱきっ、と音がした。枯れ枝を踏んでしまったのだ。途端に鴉がこちらを向き、羽根をばたつかせて騒ぎ始めた。鳥は耳がよいというのは本当らしい。
「誰だ!」
老人は立ち上がって叫ぶと腰の小刀を抜いて家の玄関を飛び出し、建物を回って走ってきた。剣はかなりの腕前らしく隙のない構えで迫られて、逃げるべきか姿を見せるべきか迷ってもたもたしていた煕幸は、あっと言う間に首元に刃を突き付けられて壁際に追い詰められてしまった。
「おい、てめえ、どこから聞いていやがった」
真愛を「嬢ちゃん」と呼んだことを言っているのだろう。
「待ってくれ。僕は怪しいもんじゃない」
「人ん家の裏庭で聞き耳を立ててるやつのどこが怪しくないってんだ!」
小刀を持つ手つきや表情は、この老人がこれまで何度も修羅場をくぐりぬけてきたことを示していた。必要と判断すれば、容赦なく煕幸の首を切り裂くだろう。
「さあ、白状しろ。お前はあの子の秘密を聞いちまったんだな?」
言葉は尋ねているが確信しているらしい。
「ちっ、俺としたことがまずったな。殺すしかないか」
舌打ちして小刀を一層近付けてくる。煕幸は僕は関係者だと言おうとしたが、首元の刃物が気になって顎が上がり、胸元をつかんで壁に押し付けられているため息が苦しくて言葉が出てこない。
「待って! 殺さないで! もうこれ以上私のせいで誰かを殺したくないの!」
そこへ叫びながら真愛が鴉と一緒に現れたが、煕幸を見てびっくりし、それからあからさまにほっとした顔になった。鴉も煕幸を認めたらしく、少女の肩に止まって大人しくなった。
「あなただったんですか」
少女の声に親しげな気配を感じて老人が尋ねた。
「知り合いかい」
「はい、私たちに作戦を授けてくれた大軍師様です」
少女が答えると、老人は驚いて振り返った。
「このぼうっとしたやつがか?」
「そうです。本当です。私のことも知っています」
「そうか」
老人は煕幸の胸元をのぞき込み、桜座のほくろを見て目を見開いた。そして、小刀を下ろし、襟を離して数歩下がり、値踏みするように煕幸の全身をじろじろと眺めた。
「こいつがねえ」
つぶやくと、老人は小刀を腰の鞘に納め、顎をしゃくった。
「中へ入んな。しょうがねえから家へ入れてやる。どうせ最初から聞いてたんだろう。栗木田家から嬢ちゃんのあとを付けてきたのか」
「……はい、すみません」
全て見抜かれているので返す言葉がなく、とりあえず二人に謝った。
三人で土間に戻ると、老人は「ここじゃあなんだから、座敷へ上がれ」と言ってさっさと草履を脱いで部屋へ入った。少女も続いたので、煕幸も上がらせてもらうことにした。
「ほらよ。薄いが一応茶だ」
座布団を二枚敷くとまた土間へ下りて台所へ行った老人が冷めてしまった湯のみの中身を入れ替えて持ってきたので受け取ると、老人は小さな饅頭を一つずつ渡し、「あとは二人で話しな」と言って土間に残り、棚から壺をいくつか下ろして何かを調合し始めた。
少女と向かい合わせで残された煕幸は困ってしまった。老人は聞き耳を立てているだろうし、少女も泣いたところ見られたのできまりが悪いらしく、黙ってもじもじしている。
ええい、今さら聞かなかったふりをしても無駄だ。思い切って尋ねてしまえ!
覚悟を決めると、煕幸は口を開いた。
「君はさっき、『また自分のせいで』って言っていたよね。あの子というのが誰のことか聞いてもいいかな」
少女はびくりとしたが、少し迷ってから頷いた。
「煕幸さんはお姉さんやお父上のことを話してくれました。だから、私も話すべきだと思います」
少女は胸にこみ上げてくる感情に耐えるように一瞬口籠もってから、その名を愛おしげに口にした。
「あの子というのは五郎ちゃん、いえ、山鳩五郎左衛門守勇さんのことです。私のいた芽鞘村の村長の一人息子で、年は私の一つ下でした……」
少女は既に手が届かなくなってしまった懐かしい過去を一つずつ思い出すように、遠い目をしてゆっくりと語ってくれた。




