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Not Knock  作者: モク
第1章 ブラックシューター
18/21

番外編 正義のパンを召し上がれ(前編)

前編6000字強、後編7000字強(予定)という長めの番外編になっておりますが、お付き合いくださいませ。

第一章の少し後のお話です。

 朝だ。午前四時は立派に朝だ。街一番に開店の早い店となれば店長の朝も早いのである。

 目覚ましは体内時計で間に合ってしまう。腹の虫が豪快かつ盛大な鳴き声を上げると、筋肉六割、脂肪三割で出っ張った腹が呼吸で動くのを止めて、無精髭の中年男がむくりと起き上がる。

 残りの一割は何かって? 夢と希望と酒だ。

 少ない? 気のせいだ。


 男は伸びをして首を鳴らすとベッドから降りて顔を洗ってから、表へ出る。毎朝の体操は欠かせない。彼は冬でも薄い寝巻きのままで外に出る。だが風邪をひいたことは人生で一度もない。


「仕込み始めるかぁ」


 一五分もすると体の芯からじんわりと熱が全身へと巡り始める。

 ここが止め時なのだ。足りなければ体が固まったままで思うように腕を振るうことが出来ないし、やりすぎると仕事場に汗の臭いが籠り生地が不味くなる。

 彼自身は些か不完全燃焼ではあったのだが、臭い臭いと以前客の少年に言われてしまってからは自粛していた。臭いわけねぇ。そう思ったが万が一の為だ。


 男は所々に焦げ痕がついた白の作業服に着替える。腰エプロンも忘れてはいけない。指をぽきぽきと鳴らす彼は鼻息荒く、目はギラギラと刺さるような光を発し始める。


「お楽しみの時間だあ」


 怪しい声を殺しきれない。小麦粉の袋に手をかける。現在、午前五時過ぎ。

 窓の向こう、明かりの灯る下で発されるこの不気味に気づく者は今日もいない。







「おっさん! クロワッサン頂戴!」


「二つだな」


 威勢の良い少年は”ベーカリー・J”の常連である。

 文字通りの太っ腹を抱えた気前の良いおっさんは、見る限りでこそ居丈高なようにも見えるがよく見れば繊細な手つきで、あっという間に紙袋にトングでパンを二つ、摘み入れた。


「お前の親父にも、たまには顔出せって言っとけ。ロア」


「言わなくても次はきっと来るよ、そんな気がするから」


「そうかい」


 ロアが手を振りながら去っていくのを眺めていると、すれ違い行き違いに、今度は少女がやってくるのが見える。


「今日はどうするね、お嬢」


 来店は二度目となる少女だったのだが、何せクセの強い子どもであるから顔は忘れていなかった。そのクセというのが、また餓鬼らしくない。


「こんにちは、ミスター・ジェームズ。そうですねぇ。では、メロンパンを」


 澄ました口がにやりとそう言った。


「いくつだ」


「あるだけ。代金はツケておいてください、名義は”ノット”で」


「いつになったら払いに来るんだか、お嬢の保護者は」


「では明日でいかがです? 誠意と稼ぎだけはいっちょ前なので、お金はたんまり」


「そりゃあ、楽しみだよ」


 パン屋の店主は、はじめ彼女と話を交わしたときから、不気味な奴だと思った。妙だとも感じたが、それよりも面白かった。亜麻色の髪と金の大きな目が映える少女だ。


「ミスター、ではごきげんよう」


「餓鬼がお嬢様気取っても、ちゃんちゃらおかしいだけだな。ごきげんよう」


 十代そこらに見えるが、その年で働いているらしい。何の仕事かと訊ねても少女は答えなかったが、目のずるがしこい光を見る限り、それなりにやっているのだろう。


 かくしてパン屋店主・ジェームズが早朝からこさえた特製のメロンパンは、早くも売切御免となった。







「ツケ、え?」


「だから、最近美味しいパン屋さん見つけたんですよ。ノット様もお一ついかが?」


「その先だ。ツケ、ツケと言ったか。パン屋なんぞで代金をツケてくるなど、初めて聞いたぞ」


「おお、さすればあたしは先駆者(パイオニア)というわけですか」


「どうして私の名義なんだ!」


 皮肉にも、暁帝国の名を掲げるビルの中にあって最高の防音を誇る、とあるエリートの部屋を一歩外に出れば、突然の怒声を増幅させる廊下が伸びるばかりである。


「響いてますよ」


「話を逸らすな」


 店一番の大袋でさえ容量オーバーとする、大量のメロンパンが覗く紙袋を抱えた少女は苦い顔をした。こんな風に上司の雷が落ちることを、ずっと前から予想していたからだ。いつ言い出すべきかと頃合を見計らい、そして見誤った結果である。

 しかしどの道にせよ避けられぬ避雷針が脳天に建っていたと言われても、少女はにわかには信じないだろう。


「何故君はこう、いつも私の精神を削りにかかる」


「あたしが自分の食料費を賄える稼ぎなんかないと、よくご存知でしょう」


「たった一つ断りを入れたなら、君の当分の食費くらい私が面倒を見ても良かったのだ」


「あ、言いましたからね!」


「良かっ”た”のだ!」


 毎度毎度負ける口ばかりでは面目がたたない。ノットは切れ長の目をさらに細くした。

 上司たるもの、芯の曲がった部下を甘やかすべからず。


「今度のことは仕方ない。次はないと思え」


 その今度のことを良しとするのに手ぬるさがたっぷり含まれていることを、彼は気づいていない。チェルシーは「しめた」としたり顔で元気の良い返事をした。


「早い方が良いな」


「ミスターには、明日支払いに伺えるようにと言ってあります」


「ミスター?」


「はい。ミスター・ジェームズ、美味なパン屋のおっさんです」


「もう少し穏やかな説明はなかったものか」


 既に手に持つパンを頬張るチェルシーは、もごもごと相槌のようなものだけ返してノットにも一つ差し出した。

 かじる。そしておっさん特製メロンパンに魅力された者が、ここにもまた一人。


「うむ、これはなかなか美味」







 多忙極まりない上司の背を、えんやこらと押しながら道行く少女。


 昼休み。ノットに文句を言わせず外へ連れ出せる、唯一の時間帯である。

 勤務中には漆黒のコートに身を包んでいたノットは、カジュアルなジャケットを軽く羽織り、コンタクトの代わりに眼鏡をかけている。同様に、ブラウスとキュロットスカートの裾を揺らすチェルシーは「早く、早く」と何度も声を上げていた。


「パン屋は逃げんだろう」


「時間は逃げます。なにのんびりしようとするんです、年寄りでもあるまいに。お昼休みがおわっちゃいますよ」


 やがて可愛らしい店が見えた。ただ、近寄ると小さなヒビや埃が所々に見受けられ、手入れの不行き届きがふんぞり返っている。


「ハロハロー、ミスター」


 ドアを押すと、来客を安っぽいベルが即座に伝えた。


「どうしてさ!」


 しかし二人の耳に返ってきたのは、少年の悲痛な怒鳴り声。


「どうして、辞めちゃうの? 続けたらいいじゃないか」


「そんな簡単な問題ではないんだよ」


 店内の隅に数台置かれているテーブル席の、比較的向こう側であるにも関わらず、口論を繰り広げる客。少年と中年男性、恐らくは親子だ。その側に立っていた店主・ジェームズがベルが鳴るのを聞きつけて、呆気にとられているチェルシーとノットの元へやって来た。


「来たな、お嬢。思ってたより若いパパだな」


「見た目だけですよ」


「誰がパパだと」


「オコラナイデヨ、パパー」


 愉快半分、緊張半分で目をそらしながらチェルシーが呟く。


「そうか。君にはあとで話がある」


 不愉快十割。ノットは静かな冷たい炎を部下の目前にちらつかせた。かと思えば、何事もなかったようにジェームズに向き合い財布を取り出した。


「用件は彼女から聞いている。手間を取らせて申し訳なかった」


「払ってくれるんならいいよ。ただ、とんでもねえ額だぜ」


 ジェームズが一度引っ込んだ後に手にしてきたメモ書きを、まじまじと見つめ、ノットは無言で紙幣の束を差し出した。ただし黒々と渦巻くオーラを背に纏うのを、チェルシーとジェームズはしかと認識している。

 店主は支払いを済ませるべく再びレジへ向かう。


「でも、ね。美味しかったでしょう、メロンパン」


「そうだな。だが、それがどうした」


 ですよね。冷や汗を噴かして唇を噛む。


「まいどあり。ま、テーブルもあるからよ。ゆっくりしていってくれ」


 本人に全くそのつもりがなかったとしても、ジェームズがこの空気に助け舟を浮かべてくれたように、チェルシーは思った。

 昼食を取るに丁度いいと踏んだかノットも拒むことなく、二人はジェームズの案内につくのだが、そこで再び、口論を続ける親子が視界に映る。


「いいじゃん。わけわかんないよ」


 テーブルに手をついて少年は立ち上がった。父親は肩をすくめて、ぼそぼそと何かを言い返しているが、こちらには聞こえない。


「ミスター。あれは?」


「餓鬼の方は常連だあ。ロアって名前なんだがな。ヒーローやってる父親の代わりに、よくうちに買いに来る。その父親が、目の前でしょぼくれてる奴さ」


「ヒーロー……」


 その響きに神経がピリッと痺れるが、斜め向かいの席から見える父親の背はひどく頼りない。たとえ対峙したとしても、恐るるに足りない。


「経済的な余裕がなかったらしくてな、父親がヒーローを始めたんだが、どうも業績の伸びが(かんば)しくない。辞めたいんだと俺に相談しにきたってわけだが、息子がやけに食いついてな、反対だ、の一点張りよ」


「ははあ、それで騒いでるわけですか」


(首を突っ込むなよ。今は戦う必要のないときだ)


(わかってますよぅ)


 小声で耳打ちし合ってから、正面のノットは軽く頷いた。悪、あるいはヒーローとして表に立つに相応しいコスチュームを身につけていない今は、すなわち彼らが一般人と何の相違もなく空間を共にする時間なのだ。わざわざ狙って悪の組織が敵の事情に手を出すことに、双方にとっていくらのメリットがあろうか。

 だが眼鏡の位置を細かく直すノットを横目に、チェルシーは親子に対しての興味を捨てきれない。


「バドラッドは気が弱いからな。息子に引けを取ってんじゃ、情ねえ」


 バドラッドとは、どうやら父親の名のようだ。辞職を強く反対するロアにどうにか言い返してはいるものの、見るからに劣勢なのは彼の方である。


「俺さ、父さんがヒーローだって自慢なんだ。俺までなんか自信が湧いて、頑張れそうだって思えることも多くてさ」


 バドラッドは、何も言わなかった。はっと目を見張ったかと思えば、俯いてしまう。何も言えなかった、の方が正しいのだろう。

 この親子の圧に押されてか、ちらほらと客は訪れるものの、足早に買い物を済ませて出ていってしまう。テーブル席には寄りつかないで、何も買わずに帰る客もいた。


「商売になりゃしねえ」


 うんざりした顔のジェームズがため息をつく。ぶっきらぼうな印象からして、親子を追い出してしまうかと思ったチェルシーがジェームズをちらと覗くと、存外、彼は静かな目をしている。


「な、兄ちゃんよ」


 ジェームズは不意にノットの眼前に、ずいっと顔を寄せた。悲鳴すら詰まらせるノットとチェルシーを交互に眺めてから、二人にしか聞こえない程度の小声で言う。


「あんたら、悪の組織の奴らだろ」


 ノットが手にしていたカップを落としかけたことは言うまでもあるまい。揺れた拍子に琥珀色の(かぐわ)しいコーヒーが僅かテーブルに溢れる。チェルシーの大きな目が「まずい」と今にも叫びを上げそうだ。


「い、いや……我々は。何故……?」


「勤務時間外なら問題ねえさ。おっさん、雰囲気でわかっちまうのよ」


「うわあ……怖いですねぇ」


 呵々大笑としそうな勢いのジェームズが、焦燥の汗を頬に伝わせるノットの肩を組む。


「ビクビクすんなよ。何もしやしねえって」


「そうもいかないだろう……!?」


 悪の組織であると一般人に知られてしまうことを、彼らは何よりも恐れる。正体の露見とはつまり、悪の組織の人間にとって日常生活の終わりを意味するのだ。街を破壊し人々を苦しめる悪の組織を歓迎する者は少ない。たとえ彼らに『英雄戦線協定』なる、殺人禁止の掟が掲げられていようとも。


「本当だよ。ただな」


「ただ、何だ」


 悪戯好きな少年が、そのまま脂肪を蓄え中年になってしまったような質の悪い、いやらしい笑みがすぐ近くに迫っている。


「一つ、頼まれてくれ」


 僅かに切実さの含まれた声に、暁帝国の二人は同時に瞬きをした。







「どうしても辞めちゃうってんなら、俺は、俺は……」


 俺は、の続きを捻りだそうとしているロア。結局、思いを表すのにうまくいかなかったらしく、正面のバドラッドとそっくりに項垂れてしまう。傍らには腕組みのジェームズと、何やら気が来でない様子のノットが立っている。


「父さんも最後まで迷ったんだ。今日だって、ジェームズの意見を貰おうと思って」


「俺は、お前が辞めたいなら止めないし、何を言ってもお前は決心を変えんだろうが」


「まあ……そうかもしれないがね」


「何だよそれ。みんな父さんの味方してる」


 みんな、という括りにノットは少し不満を抱く。どちらの味方でもないつもりの自分も入っているのか、はたまた、はなからロアの眼中にはいないのか。赤の他人であることは百も承知だが、些かロアの言葉に引っかかった。


「元々、俺はヒーローには向いていなかったんだよ。きっと。幸いにも、まだ危ない目には遭っていない。ここらで身を引いておくべきだ」


「では、さほど大きな仕事は任されていなかったのか」


 ノットが訊ねた。


「そうだなあ。強い人の補佐か事務なんてのが、ほとんどだったよ。でもね」


 バドラッドは安堵する。


「強い敵には会いたくないからね。特に、ブラックシューターなんかには」


「……」


「そうだな」とでも言うべきだったかとも思ったが、下手な相槌を打つのも気が引けてしまった。ノットは微かに呻いて腕を組む。


「いや、ジェームズ。すまんね。店を騒がしくしてしまった。お暇しよう」


「バドラッド。気にすることはねえ。もう少し、ゆっくりしていけや」


 バドラッドがぽかんと口を開けて呆然とする。これにはノットも、じとりとジェームズを睨みつけ素早く耳打ちする。


(さっきまで疎ましいというような空気を出しておきながら、その言い方では不自然だろう)


(だったら、兄ちゃんが援護しな)


(何だと)


 拒否を許さず、時間を与えず。さっと別の所に視線を持っていってしまったジェームズに鋭利なナイフのような視線を送り、ノットはざわめく頭の中から言葉を絞り出す。


「そうだな。ゆっくりしていけば、いいんじゃ……ないか?」


 眼鏡の奥で必死に笑いを作る瞼の端が、ぴくぴくと焦りを訴えた。


(変わらんじゃないか)


(……やかましい)


 状況は”紙一重”だというのに、ジェームズはくつくつと、またいやらしく笑っている。

 ほら見ろ。

 硬そうな髭に囲まれた、音もなく上下する口が、そんなことを言っている気がした。


 そして、呑気にゆったり流れていた時間の糸が、不意にぴんと強く張られる。

 けたたましい音が空間に飛び込んできた。店のドア、窓。あらゆるガラスを破り散らして、黒い影が二つ、降り立った。無数の刃と化したガラス片から咄嗟に息子を守るべく、バドラッドはロアを胸に抱いて床に転がる。


「何だ!」


 一方で、軽く両腕で壁を模して身を守りながらジェームズが怒声を飛ばす。同じ体制で破片を受け流したノットは、襲撃者の姿を視認した途端、慌てて顔を背けた。


「どうした?」


 それに気づいたジェームズが妙に思い声をかけるが、一向に顔をあげようとはしなかった。ひとしきりガラスが床中に崩れ落ちると、今度はぽきぽきと軽く乾いた音が鳴る。襲撃者の片方が、首を傾けながら気だるげに声を漏らしている。


「あー、首ちょっと捻ったかなあ?」


「準備運動しないからだろ、エンジ。お、情報通り、人少ないねえ」


「悪の組織、か」


 ジェームズが目を吊り上げる。


「おっさん正解。まあ、見ればわかるか」


 ノットは依然、明後日の方角を見ている。とてつもなく、まずい状況だ。黒い二人には見覚えがあった。


「悪の組織っつっても、そこらのとは、わけが違うのよ。なあ、ビルギス。なんてったって俺達……”暁帝国”だから」


(馬鹿……チェルシー!)

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